⑫花は桜木、人は武士
「……」
内田先輩が、珍しく黙り込んでいる。その瞳はいつの可愛さを押し出すようなものじゃなくて、彼女のまた違う一面を映し出す鏡のような光で空をさまよっている。そこでようやく俺は触れちゃいけないところに触れたんだと、後悔の念が押し寄せてきて……。
「――余計なお世話でした」
いたたまれなくなって荷物をまとめて立ち上がる。
「あー、俺のバカ……」
とりあえず無人の国語準備室に逃げ込みソファーに寝転がって足をバタバタさせていた。なんであんなこと言っちまったんだ! 赤の他人の俺に人の恋愛にあーだこーだと口を挟む権利はないだろうが!
だがいくら後悔したところで一度口にしてしまったことは取り消せるはずもなく、あーうーと唸ることしかできない。
「俺のバカ……」
散々自分を罵った上で、ガバリと上半身を起こす。
「やっぱり謝りに行こう」
言いっ放しで逃げてしまった自分がとにかく恥ずかしかった。急いで国語準備室を出て中庭を目指したが俺が立ち去ってからすぐに解散してしまったのか、それほど時間は経っていないのに中庭は綺麗に片付けられ人っ子一人いない。
「だったらローレルホールかな……」
中庭からローレルホールへ向かう。確か女バレの部室は3階って言ってたよなぁ……。まだいるかな? いるといいけど……。
トボトボと情けなく階段を一人登っていると、頭上から女の子の声がした。
「芥川先生って人がいいんですね」
ん……?
二階から三階に上がる途中、踊り場で話している人影が見える。芥川と内田先輩だった。
なんでこの二人? 思わずそっと壁に身を隠す。なんで隠れた俺。だが今更出て行けず気づかれないよう息をひそめる。
「自分の平和のために君にこうやって話してるだけだよ」
覗き見た芥川はニコニコと微笑みながら内田先輩の言葉を聞いている。あれは生徒に見せるいつもの芥川じゃない。一体何を話してるんだ……?
「まぁ、それでもいいけど……。先生の忠告は素直に受け入れます。私も今回のこと見通しが甘かったなって思いましたし」
「なるほど自覚はあるんだね」
自覚?
「ほら、苦しめたら苦しめられただけ執着するのって、人間くらいじゃないですか。そう思ったら、どこまで耐えられるのかなって試してみたくなるでしょ? 純粋な興味なんですけど……やだ、そんな怒らないで下さい」
「怒ってなんかないよ」
そういう芥川はひどく冷めた顔をしていた。確かに怒っているようにも、なんとも思っていないようにも見えた。
「そう? でもこんなんじゃいつか刺されるかしら。あ、先生は刺されたことある?」
「僕と君は違う」
「ああ……そうね。先生と私は違う」
そして内田先輩はガラリと窓を開けて、風に靡くふわふわの髪を手のひらで押さえる。
「私が先生ならきっと王様にでもなれたと思うけど、私は私だものね」
「王様なんてくだらないよ」
「欲がないんですねぇ」
クスクスと可愛らしい声で内田先輩が笑う。
「でも私は満足しない。一人でも二人でも足らない。もっとたくさんの人に愛されたいの。心から望まれたい。好かれたいの。みんなに認められたいの」
そしてまたとても楽しそうに笑う内田先輩。
てか、話が見えないぞ。どういうことだ……?
一人じゃ満足できず、二人でも足らない。それって、加藤先輩と滝本先輩のことなのか? 二人の気持ちをわかってて操ってるってことなのか? 嘘だろ?
言っている言葉の意味が頭に入っていかないし受け入れられない。まっとうな感情のように思えなくて、むしろ怖くて、背筋に冷たいものが流れる。
「あのね、僕は君がどんな人たらしになろうが興味はないけれど、在学中に事件を起こされるのだけは困るんだよ」
けれど芥川は心底めんどくさそうに口を挟み、それからはぁ、とため息をつく。
怖くないのか、あいつ……。
「ああ……そうですね。それは先生のいう通りだわ。まさか私が突き落としたと勘違いされてるなんて思ってなかったし、お揃いで買った指輪をなくしたくらいでモノを盗むとは思わなかったもの。教えてもらってよかったです」
ええええええ!
びっくりした、マジで驚いた。やりとりからしてどうやら芥川は全部内田先輩に話したらしい。だが聞かされた内田先輩も先輩だ。全然動揺してねぇ!
「まぁ、反省を踏まえて以後気をつけます」
いやむしろ動揺してないどころか学習してこれからに生かそうとしてる? あれほんとにウサギな内田先輩なのか!?
目の前の会話が信じられなくて夢じゃないかとさえ思えてくる。
「そうしてくれると助かるよ」
「はーい先生、約束します。じゃあそろそろ行きますね」
まるでちょっとした校則違反を咎められた生徒みたいに軽やかな口調で内田先輩は芥川に微笑みかける。って、やばっ……!
慌てて二階にある男子トイレに身を隠す。内田先輩のパタパタと階段を降りていく足音が通り過ぎ、完全に聞こえなくなってからトイレから出ると「ばーか」頭上から芥川の声がした。階段の上の、完全に生ごみを見る目で俺を見下ろしているあいつと目が合った。
「バレバレなんだよ、お前の気配」
「そ、そうですか……」
立ち聞きしていたことが後ろめたくガリガリと頭を掻く。
「えっと、内田先輩にもばれてた?」
「さぁ? でもいないものとして扱われたんならいないってことでいいんだよ」
なんだそれ。わけわからん。首をひねりつつ階段を登る。
「てかさ、内田先輩だけど……」
「お前さっき不用意にあいつに踏み込んだだろ。おかげで目をつけられてた。芥川先生は仲がいいみたいですね、なにかご存知なんです?ってね」
「はぁ?」
「お前みたいなまっすぐにしか進めない単純人間を支配下にするの、赤子の手をひねるより簡単だからな」
支配下って……。ええっ!
芥川はふうっとため息をついているが、俺の方がよっぽどため息をつきたい気分だよ、なんだよ、こええよ!
「だからこっちの手の内を明かして、やりすぎないよう警告した。彼女は賢い。お前にはもう手を出さない。そして調整に動くだろう」
「調整って……」
「言っておくがお前には何もできない。加藤も滝本もそんなことは望んでない」
芥川の瞳が強く輝く。それはまるで俺にこれ以上踏み込むなと警告しているように見えた。
「そんな……いや、そうだな……」
俺が内田先輩を悪だと決め付けたところで、彼女を思う滝本先輩も加藤先輩も何も救われない。むしろ本性を出した内田先輩ならそれを逆手にとってとんでも無いことをしでかしそうだ。あんな可愛いのに……あんなにいい人だと思ったのに……。
「なんか人間不信になりそう……」
がっくりくる俺を見て「なにが人間不信だ、生意気な」と芥川は鼻で笑い、さらりと髪をかきあげて吐き捨てる。
「人はそんな単純じゃない」
自分のことを言われたわけじゃねえだろうけど、その言葉は真っ直ぐに突き刺さった。
「そうだよなぁ……人間って白と黒だけじゃないよな」
内田先輩は恐ろしい人だと思うけど、それだけじゃない。人の心を読む能力に長けていて、実生活では他人を気遣えるいい人の面もあるわけで……。むしろそれでみんなに好意もたれてるわけで。そもそも俺だって人様に真っ白だなんて言われる人間じゃないわけで……。取り返しのつかないことするような弱い人間で……。
人は、優しくて、乱暴で、ワガママで、弱くて、嘘つきで、正直で、強くて……。たくさんの面があって完璧じゃない、だからこそ守りたい、いじらしい、愛おしいと思うんじゃないか?
ふと、胸の奥からあたたかいなにがが泉のように込み上げてきて、悲しいわけじゃないのに泣きたくなった。
「俺さぁ……いつか書けるようになるかな」
「なんだよ、藪から棒に」
芥川はどうでも良さげに窓の外を眺める。その涼しげな横顔になんだか無性にムカムカした。
「おっ、俺は書きたいんだよっ……!」
発作的に、芥川にはまるで関係ないのに叫んでいた。
「あの白い半紙に、黒で、墨で、色とりどりの世界を表現したいんだ!」
「……」
芥川がちらりと目の端で俺をとらえる。
瞬間頬がかっと熱を持った。
なにこいつに叫んでんだ俺……。
だけど口に出した瞬間、言葉はエネルギーに変わっていた。身体中を駆け巡る血が燃えるように熱く感じる。嫌な感じじゃない。怖くない。
そうだ。以前、中尾に好きなことも趣味もないと言った。だけど違ったんだ。そこにあるのが当たり前すぎて、その意味なんて考えたことなかったけど……俺、好きなんだ。書が……!
今ここで気づくなんて驚きだよ。ていうかなんで芥川相手にこのタイミングなんだ、うおおおお恥ずかしい……。
遅れてきた羞恥心に思わず俯いてしまった。
「――黒と白との間にある無限の空間、そこにある多様な色は人間の生活、人間の感性の世界の表現である」
「なにそれ……」
恥ずかしくて顔を上げられないまま問いかけると「ゲーテの《色彩論》だよ」と素直に教えてくれた。珍しいこともあるもんだ。
「お前はバカだからねぇ。身を以て知るしかないんじゃないか?」
クククと笑う芥川はどこか眩しそうに目の前に広がる街並みをまた見つめている。
相変わらずだなぁこいつって。いつでもリラックスしてんだなぁ……。変な奴。
黒と白との間にある無限の空間、そこにある多様な色は人間の生活。人間の感性の世界。
人間の感性に触れていれば、俺は新しい世界を知る。いろんな色を知って、そして俺はいつか書けるようになる……? そういうことなんだろうか。
だといいな。今はダメでもまた書きたい。筆を持ちたい。
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