④花は桜木、人は武士


「きゃぁぁっ!!」


 けれど勢いは止まらず、彼女の手に握られていた菊一文字が、俺の腹を下から縦に裂いていく。薄手の安物パーカーなんて、銘品の前じゃ紙切れ同然だ。びっくりするほどスパッと切れて、ついでに火箸を押し付けられたように痛みが走った。


「――っ!」


 思わず漏れそうになる悲鳴を噛み殺し、無我夢中で腕を伸ばし暴れるエリカを羽交い締めにした。だがいざ捕まえてみても、女子の細腕だと侮るなかれ、ものすごい力で暴れられて簡単には押さえつけられない。もう、女子には優しくとかなんとか、頭から吹っ飛んでいた。


「ハサミ、離せっ!」


 手首に力を込め続けると指の力が緩み、ようやく滑り落ちる菊一文字。

 だがエリカは飽きらめきれないように、足元に落ちた菊一文字に手を伸ばす。


「いやっ、離してよっ……離して、私はサラなの、だからっ!」

「離さない!」


 地面に落ちたそれを力一杯蹴って、それから両腕で抱えこむようにエリカの体を背後から抱きしめていた。


「サラなんか俺は知るか!」


 ビクンッ、と腕の中のエリカが震える。


「エリカはエリカだ。俺が好きになったのはエリカだ、他の誰かなんて興味ない、認めねぇ!」


 頭に血が上ってクラクラする。だけど同時に獣が体の中で暴れて出口を求めて叫んでいた。抑えられなかった。


「頼むからこのままのあんたを好きでいさせてくれよ……! 俺の気持ちを殺すな、なかったことにしないでくれ! 知らない女になりたいなんて悲しいこと、言わないでくれよ!」


 心臓がばくばくと跳ねて痛い。胸の奥がキツく締め付けられてうまく息ができない。いや、冗談抜きで比喩でもなんでもなく、リアルであちこちが痛い……。いてぇ……。


「……な、して……」

「へ……?」

「はなして、もう、暴れない、から……」


 うつむいたままボソボソと囁くエリカ。体感的には一時間以上経ったような気がするが、実際はそうでもなさそうで、おそらく10分かそこらだっただろう。エリカの体からは完全に力が抜けていた。


「約束して……くれるか?」


 一応目線でハサミの行方を確認しつつ問いかけると「するわ」エリカはこっくりとうなずいて肩越しに振り返った。


「ギン……力強すぎて、痛いの」


 いたい?


「えっ!? ふわああああ!!! ごっ、ごめん!!!!」


 つーか俺、なにしちゃってんの!? ズサーーーッと、後ずさりあわあわとエリカを見下ろす。今俺、エリカ、抱きしめてた!

 するとどうだろう。急にいろんなものが見えてきて、エリカの白いドレスは土と、おまけに赤いもので薄汚れていて、死ぬほどびっくりした。


「ケッ、ケガ! どこだっ、早く、びょういん!」


 恐怖のあまり、目の前が真っ暗になる。


「違うわよ、これギンのよ……」

「へっ?」


 驚いて自らを振り返ってみれば、パーカーはズタボロで、露出した腹、腕や顔のあたりには血がにじんでいた。


「なーんだ、よかったぁ!」

「っ……よかったじゃないでしょうよ! あなた、バカなの!?」


 エリカは信じられないと言わんばかりに大きな目を見開いて震えている。どうやらめっちゃ怒っているらしい。ドレスを汚したからだろうか。いや高そうだもんな……。弁償……できるかな。


「や、でもエリカが怪我したかと思ったから……あー、マジでよかったなって……」


 そうだ、エリカを人殺しにしなくて済んだし、万々歳じゃん! ドレスくらいバイト入れまくって弁償すりゃいいさ!


「あー、やばい、なんか泣きそう……」


 ホッとして力が抜けた。その場に座り込んで顔を覆うと「信じられない……バカすぎて……」と、エリカが畳み掛けるようにつぶやくのが聞こえる。


「まぁ、いいじゃん……。俺がバカなのは芥川もよく言ってるしさ」


 くしゃくしゃと髪を書きまわして笑う。はぁ、ほんと助かった。


「だけど離れたほうがいい。そんなだし、誰にもみつからないように」


 俺はよいしょと立ち上がって落ちていたハサミを手に取り、十字架の下に埋めることにした。ぶっちゃけ証拠隠滅だけどこんなもん持ってたらまた変な気おこさねぇとも限らないしな。で、それからうつぶせに倒れたままのあの包丁男も、後ろから抱えて十字架にもたれるように座らせた。そして着ていた制服の上着を肩にかける。


「なんで……」


 俺を見上げる彼の目は、赤く充血していたけれど、どこか澄んで見えた。


「寒いから」

「ふっ……本当にバカだね……」

「あんたまで?」


 芥川を筆頭にびっくりするほどバカ扱いだが、まぁ仕方ない。自分でも到底賢いとは思えないし仕方ないか……。


「ほら、エリカは早く逃げるんだ」

「いやよ」

「な、なんで!?」

「ギンも一緒に来て」


 エリカは吐き捨てるように言うと、さっと俺の手を取り階段へと向かう。


「えっ、ちょっと、俺!?」


 引きずられながらエリカの後ろを歩いていた俺だが、どうやら彼女は本気で俺と一緒に行くつもりらしい。まじかよ……。でもなんで? 俺と一緒にはいない方がいいと思うけどなぁ……。


 とりあえず金属のドアを開けエリカを先に通す。エリカはごく当然のようにそのドアを通り、階段を幾つか降りた後、ふと思い出したように振り返って手を俺に伸ばし胸の上に置いた。


 ひぇ!!! エリカが俺に触ってる!!! 小さな手のひらの柔らかい感覚に心臓が飛び出そうだ。


「なっ、なにっ!? 手が汚れるから触ったら駄目だろ!」


 声、裏返ったような気がする。だけどエリカは笑うこともなく階段の下から真面目な表情で俺を見上げた。


「……痛いでしょ」

「ああ……けっ……怪我? いや、でももう血も止まってるし……薄皮一枚でもよく切れるんだな、さすが菊一文字」

「バカなの?」

「う……」


 冷たい目線を向けられてしゅん、と落ち込んでしまった。いやでもさ、バカなのは自分でもわかってるし。初めて会った時からずっと無視されてるようなもんだったから、まぁいいかも。これもすげえ進歩だしな、あっはっは! 即座に自分を立て直すことに成功する。


「ふふっ……」


 そんな俺を見て大きな目を細めるエリカ。唇の端は綺麗に持ち上がっていた。

 あ、よかった。笑ってくれた。ホッとすると同時に「ギン、犬みたい」とエリカ。


「いっ、犬?」

「大きいし」

「あー、そ、そうかな?」

「考えてることが顔に出すぎ。尻尾と耳が見えるわ」

「マジで!?」


 耳がピンとしたり垂れたりしてるってか!? めっちゃ恥ずかしいじゃんそ

れ! 思わず架空の耳を手で押さえてしまった。


「だから私みたいな女に騙されちゃダメよ」

「あ、うん、気をつけ……る」

「ほんとに分かってるの? 学校でいいように使われてそうだけど」

「そんなことない、と思うけど……多分」


 いや、いじられキャラとしてある意味いいようにあしらわれてるな。でも男女問わずだしな。


「怪しいわね」


 エリカはため息をつきつつ俺から手を離すと、一歩一歩ヒールの音を響かせながら階段を下りていく。


 あ、離れた……。触れられた時は苦しくてもうやめてくれーってなるのに離れたらなんか寂しい。そんなこと俺に思う権利はないのにさ。とはいえエリカになら騙されてもいいやと思うのは惚れた弱みってヤツですかね……。


 先を歩くエリカの腰まで届くサラサラの黒髪が目に止まる。気をぬくとすぐにエリカを見てしまう。いけないことだとわかっていても止められなかった。なんてきれいなんだろう。つるつるで、さらさらで、光ってる。くそー……めっちゃ触ったのに(多分)まったく、全然、堪能する時間がなかった! 無我夢中すぎて、いや、当然なんだけど何にも覚えてねぇ!


 なんてしよーもないことをモダモダ考えていたら「ギン、どうしよう……」

「どした?」


 一階のエントランスが見える階段の途中で、立ち止まった彼女に問いかける。


「エントランスに人が集まってる」


 手すりにもたれて下を覗き込むエリカ。どれどれと彼女の背後から覗き込んで見ればマジで宴もたけなわですよといわんばかりに人で溢れかえっていた。あれじゃ人目を避けて抜け出すなんて到底無理だ。


「じゃあ、反対側から降りられない?」


 階段はひとつじゃないはずだ。


「内覧会のために封鎖中よ」

「マジか……」


 俺はズタボロで血だらけだしエリカはエリカでドレスが血と土で汚れまくっている。特にエリカは有名人だ。見られたりしたら大騒ぎになってしまう。


「中田に連絡をとって人がはけたら裏門に車を回してもらいましょう。そしてギンはすぐに病院に行くの。いい?」

「わかった」


 思わず頬が緩みそうになるのを必死で堪える。エリカは優しいな。こんな状況でも俺のことまでちゃんと考えてくれてる。ってこんなこと思うなんて俺の目が恋に曇ってるせいだろうか。いやそうじゃない。何かが壊れるのも新しく生まれるのも、それまで積み上げてきた歴史とか経験とか、あんまり関係ないこと、長い時間一緒にいたら全てを理解できるわけでもないというのは身に染みて分かっているつもりだ。


 逆に一瞬で永遠よりも長い何かが生まれることもある。彼女の何を知ってるわけでもないけど、たとえ俺が屋上にいなくても、エリカはあの人を傷つけられなかったんじゃないかって気がするんだ。


「でも、俺ほんと大丈夫だから」

「そんな傷だらけで……? バカなの?」

「う……すんません」


 連呼されるバカと蔑む目線に凹みつつも、だから俺の怪我のことあんまり気に病んで欲しくないなぁと思ったり……まぁ、勝手な希望だけども。


「ところで中田さんって真殿さんの秘書だったっけ?」


 黙ってるのもなんなので階段の手すりにもたれながら数段下に立っているエリカに尋ねる。


「そうよ。私の言うことなんでも聞いてくれるの。まぁトールに忠誠を誓って御手座家を出てきた人だから支えてくれるのも当然だけど」

「ふぅん……」


 エリカも懇意にしてんだな……。そりゃ、真殿斗織の秘書だもんな。真殿斗織の恋人のエリカだって大事な存在だよな……。毎回毎回エリカがどれだけ真殿斗織を愛しているか散々思い知らされて胸がチリチリと焦げる。


 面白く、ない……。真殿さんは確かに天才かもしれないけど、エリカ一人を大事にしない男で、だから相応しくないと思ってしまう。だったら誰がふさわしいのか、俺ですとは言えないあたりヘタレだと思うけど……。


「ギン、どうしたの」

「え? いや別になんでも」


 強い目の光に当てられて慌てて目をそらしてしまった。だって言えないじゃん。後から来たへっぽこ男子高校生が、二人の関係にあーだこーだ……。


「だけどヘンよ?」


 エリカはちょっとした違和感をそのままにできないたちなのかもしれない。俺に何かしらの変化を見つけたら、原因を探ろうとするから困る。


「ギン」


 中田さんに電話をするんだろう。バッグから携帯を取り出し、耳に当てつつ、俺に手を伸ばすエリカ。触れられる気配に、胸の真ん中あたりがズキッと苦しくなった。とっさにその手を避けようと階段を後ずさる。


「ちょっと……」


 思わずなのか、追いかけてくるエリカ。その瞬間――。敷き詰めてあるレッドカーペットに足を取られたのか、バランスを崩したエリカの体がぐらりと前に傾いた。


「あっ」


 彼女の大きな瞳が見開かれる。落ちる!


「エリカッ!」


 全身の毛が総毛立つ。慌てて地を蹴り、手を伸ばしエリカの腕を掴んで引き寄せていた。けれど一度ついた勢いは止められず、俺とエリカはそのまま階段を転がり落ちていく。


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