㉓表向きでは切れたと言えど
タカシ兄ちゃんの運転する車が俺のマンションのすぐそばに停車する。ずっと息を詰めるように緊張していた俺たちは、そこでようやく肩から力が抜けたような気がした。
「タカシ兄ちゃんごめん」
「何も謝ることなんかないよ。あの人はなんだ……公道をF1で走る人でギンはたまたま巻き込まれ事故にあったんだよ」
タカシ兄ちゃんにしては珍しく少し感情的になっている。それだけ真殿斗織が強烈ってことなんだろうな……。確かにまぶしすぎるよあの人は。
「俺……書けると思ったんだ。それは本当なんだ。でもいざとなったら筆を持つことすら……できなかった」
書けると思った自分が図々しくて嫌になる。俺にそんな権利はないというのに。
「あの人……真殿さんは知ってるの」
「以前、俺の綴って名前聞いただけで何もかもわかったような顔してたよ。たぶん俺がやらかしたこと知ってると思う」
「そう……」
タカシ兄ちゃんはシートベルトをゆるめ仰け反るように背筋を伸ばす。
「あの人の書、驚いたね」
「うん」
脈絡がないようでそうじゃない。俺たちは確かに真殿斗織の書を見てある種感動すら覚えていたんだ。蘇軾の七言絶句。春夜詩。俺の罪のうた……。
「
気韻生動は、中国六朝時代、南斉の人物画の名手である
《気韻》は書画など芸術作品にある気品。《生動》は生き生きとしている様子のこと。とても大事な教えであり、一流と呼ばれる人にはこれが備わっていて当然と言われるんだ。
「明日、来ない方がいいかもしれない」
タカシ兄ちゃんはため息をつきながら、今度はハンドルにもたれかかる。
「業界は違えど真殿斗織の噂は山ほど聞いている。47都道府県すべてに女がいるとか、男もいけるとか、シャレにならないところの女性に手を出して現代の在原業平と呼ばれてるとか」
なんだよ現代の在原業平て。
「おもしろ都市伝説じゃん」
「まぁ、ただの女たらし……それだけの男なら下世話な噂話ですむけど。会ってみてそうじゃないのがよくわかったよ」
そしてタカシ兄ちゃんは手の甲に額をおしつけたまま横目で俺を見据えた。
「あいつに近づくのはよしなさい。あれはあまりにも異質だよ」
異質……か。なるほどそうかもしれない。
タカシ兄ちゃんの運転する車が遠ざかっていく。真殿斗織は誰とも違う《異質》であるからこそ、強烈に他人を惹きつけてやまない。なのに己に近づこうとするものを受け入れない。力一杯突き飛ばす。突き飛ばされた人間は、なぜと思いながらも己の足で立って近づきたくなる。同調も共感もはねつけるあの独自の輝きに魅せられて、炎に飛び込む羽虫のように、身を滅ぼすことを恐れず飛び込んでしまうのかもしれない。
『トールは自分の言葉一つで人が動くこともよく分かってる。だからあまり決定的なことを言わない。だけど私はトールにいつだって寄り添っていたいの。彼の気持ち、願いを、叶えてあげたいの』
エリカは真殿斗織を心から大事に思っているんだな……。今更ながら彼女の強い思いを突きつけられて、胸がぎゅーっと締め付けられる。
バカだなぁ、俺。本当は早く忘れないといけないのに、まったくそんなことができる気配がねぇや。
自嘲しつつ、マンションに戻ろうと踵を返した瞬間――。
「綴様」と、背後から声をかけられた。
「はっ、はいっ!?」
驚き振り返ると、ピカピカの黒い車を背後におじさんが一人で立っていた。年齢は50代くらい。銀行員って感じの、ピシッとしたスーツ姿の、でもごく普通のおじさんだ。
「あ、あの?」
見覚えねぇぞ。誰だこの人。なんで俺の名前知ってんだ?
「失礼いたしました。わたくし真殿の秘書を務めております、中田と申します」
「えっ、真殿さんの秘書? てかなんで俺の家? まっ、まさかつけたとか!?」
「いえ、以前から存じております。今日真殿がお会いしたのは偶然でしたが、わたくしがここに来ることは真殿から言付かっておりました」
以前から存じてる? はぁ?? いやそれって変だろー! ある種の恐怖におののく俺をよそにまったく表情の変わらない秘書さんは「どうぞお受け取りください」と俺に向かって一通の封筒を差し出してくる。
「えと……なんですか、これ……」
ついノリで真紅の封筒をつい受け取ってしまったが、さらに嫌な気配がした。
「明日行われます、フラワーアート展の内覧会とレセプションの招待状でございます。その節は真殿が大変お世話になりました」
「その節……? ああ、《月光》の、かな」
ラリックの
終わった今振り返ってみると《月光》がなくなったとか以前に真殿斗織という存在が強烈だったからなぁ。前野さんとかどうなったんだよ。ニュースになったわけじゃないから結局あれで収めちゃったのかな。中尾もバイト辞めたからわからないことだらけだ。で、大昔のことのように思えるが、ゴールデンウィークからの話なんだよなぁ。
受け取った封筒をひらひら動かし、仕方なくポケットに突っ込む。
「レセプションってなんですか?」
「砕けて言えばパーティーのようなものでございますね」
パーティー……?
ついさっき、タカシ兄ちゃんに関わらないでいた方がいいって言われたばかりだぜ。行かないほうがいいに決まってる。
「あの、せっかくご招待いただいてなんですが、たぶん行かないと思います」
「さようでございますか。それはエリカ様が残念がりますね」
「えっ……!」
なんですと!?
「エリカ様は現在お仕事でバリに行かれておりまして、空港から直接パーティーに参加されます。綴様をご招待することはエリカ様の強いご希望でしたから――」
「行きます!」
恋に溺れる哀れな男を笑うなかれ。だってさぁ、だってさぁ……会いたいじゃん……?
「さようでございますか。きっと喜ばれますよ」
そこで初めて秘書さんの表情に変化が起こった。薄い唇の端が持ち上がり、どこか嬉しそうにさえ見える。
「それでは失礼いたします」
「あ、どうも……」
秘書さんは深々と頭を下げ、運転席に乗り込みクルマを発進させてしまった。
マンションの下に一人でポツンと取り残される自分。途端に現実味が戻ってきてめまいがしてきた。なんか怒涛の展開だな……。
タカシ兄ちゃんに引き続き、二台目の車を見送りながら、ガシガシと髪をかき回す。
俺、完全に真殿斗織に振り回されてるよ。ってか、エリカが俺が来ること喜ぶとかそんなわけねーじゃん。たぶん、芥川がらみの話なんだろう。それでも会いたい、会えれば幸せだと思う俺って……。ああ、俺は本当にバカだよ。どうしようもないバカだ。だけどさ、会いたいよ。100パーセント、まったく、一ミリも彼女が俺を見てくれる可能性がないとしても、それでも逢いたい。
声が聞きたい。理屈じゃなくて、どうしようもなくて、川の水がけっして遡らないのと同じように、俺はエリカに会いたいと思う気持ちを変えられない。
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