㉒表向きでは切れたと言えど


 なんだ……この人はいったい……なんなんだ? けれど真殿さんはちょっと納得いかないように、軽く首をかしげてしまった。


「んー……あの頃の君にはまったく及ばないな」


 真殿さんは、目を細めてため息をついた後、すっと立ち上がり俺を肩越しに振り返って、筆を差し出した。


「はい、どうぞ」


 まるで子供のような笑顔で、真殿斗織は俺を見つめる。


「リクエストしていいかな? 盧僎ろせん南樓望なんろうのぼう。今の君にぴったりだと思うから」


 去国三巴遠

 登楼万里春

 傷心江上客

 不是故郷人


 すうっと脳裏に漢詩が浮かぶ。


 今の俺にぴったり?


「天秀先生、勉強不足ですみません、どんな漢詩なんですか?」


 深雪先生がタカシ兄ちゃんにこっそりと問いかける。タカシ兄ちゃんはそれを受けて囁くように答えた。


「国去って三巴遠く、楼に登れば万里の春。心傷しむ江上の客。是れ故郷の人ならず……。官吏だった盧僎は地方の赴任地のどこか、南門の楼閣に登ってあたりを眺めたんだろう。そして川辺に降りて、道行く人が皆見知らぬ人ばかりだと、心を痛めた……」

「景色は綺麗なのに、一人ぼっちでなんだか寂しいって意味ですか?」


 それまでショックで若干ぼうっとしていた俺だが、深雪先生の言葉に、ハッと我を取り戻す。


 一人ぼっちで寂しい、か。なんで、なんでだよ、真殿斗織。俺はそんなに惨めに見えるか?


「さ、どうぞ」


 真殿斗織は、人の心も知らないで俺に書けと迫る。いや、知っているからこその無邪気さなんだ。だとしたらやっぱり、最高に怖くて、嫌な奴だな。だったらやってやるさ!


 手を伸ばし筆を受け取った。筆を持つと当たり前のように身が引き締まる。

 五言絶句20文字は二行に分けて書く、これは条幅と呼ばれる。


 去国三巴遠登楼万里春

 傷心江上客不是故郷人


 大丈夫だ。今日は書けたじゃないか。子供たちと一緒に筆を持った。何も変わらない。

 かわら、ない……。大丈夫だ。大丈夫……。

 ドキン、ドキン……。耳の奥がキーン、と痛くなる。


『ギン、ギン、おまえはどうして、あんなマネを』『ギン、綴家は自分のものだと、思っているのか、生意気な、子どものくせに!』『ギン、お前は僕をバカに、してっ……!』

『お前は、ただ生きているだけで――――』


 やめてくれ!! 裂かれるような痛みが全身に走る。


 喉の奥から何かがこみ上げてきそうになるのに、漏れてくるのは息だけで……。


 カラン――。

 筆が水写布の上を転がった。


「あ……」


 その瞬間、すうっと、全身から血の気が引いていく。


 なんで……? どうして、ダメなんだよ。

 なんでっ……!


「なんだ、あいつ」


 様子を見守っていたらしい、萩原さんの嘲笑が耳を通り抜けていった。


「――こんなの……付き合うことないよ」


 タカシ兄ちゃんが俺の横にひざまずき、転がった筆を拾うついでに俺の腕を取った。ほっそりした兄ちゃんのどこにこんな力があるのか、掴まれた腕に食い込む指の力はかなり強かった。


「皆さん、失礼します。行くよギン」


 実にらしくない性急さで、タカシ兄ちゃんは俺を引きずるように美術館分室を出て行こうとする。


「え、えっと、あ、すみません、失礼します!」


 そこに残された真殿さんがもんな顔をしていたのかはわからない。慌てて頭を下げたが、失礼な感じで出て行ったことは間違いなかった。

 

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