⑲表向きでは切れたと言えど
そして土曜日の朝。バスに乗って30分ほど、隣町の美術館は緑に囲まれた坂の上にあった。
「おはようございまーす」
タカシ兄ちゃんから事前に送って貰った証明証で美術館の裏口からそのまま分室へと向かう。開館まで一時間余裕があるせいか明かりは半分くらいしかついてなくて、タカシ兄ちゃんは同年代の女性と一緒に受付を作っている最中だった。
「天秀先生おはようございます」
「おはよう、ギン。こちらが今日一緒に書道教室を手伝ってくれる深雪(みゆき)先生だよ。こちら私の弟のようなもので、ギン君です」
「よろしくお願いします」
タカシ兄ちゃんの隣で受付の準備をしている女性に向かって頭を下げると、向こうもチラッと俺の頭を見ながら会釈を返してくる。いかにも真面目ですという感じの黒髪女性だった。明らかになんか怪しいやつ来た! という目で見られている。
ちなみにタカシ兄ちゃんは薄いグレーのシャツにジャケット、パンツといういつものきちんとした姿で深雪先生もパンツスーツだった。なのに俺はネイビーのパーカーにデニム、スニーカー。今更だけど、金髪から黒髪にしとくべきだったか。もう遅いけど。
「11時と3時の二回、書道教室をやるからね。小学生対象だけど、まぁやりたい子は幼稚園でもなんでも受け入れていいから」
まぁ、タカシ兄ちゃんは俺の格好なんかどうでもいいみたいだから、気にしないことにした。
「どこでやるの?」
「ここらへんにシートを敷いてくれるかな。ちなみにどこまでも広げていいって言われてるからギンに任せるよ」
受付は展示室の一歩中に入ったところにあるがここはちょうどホールのエントランスになっている。広さは申し分ない。入り口は美術館本館とは別になって連絡通路でつながっているだけなのでどの程度集客が見込めるかは疑問だが、壁全面がガラス窓になって、差し込む明るい光が差し込む景色はなかなかに綺麗だった。この中で書いたら気持ちいいだろうな。
「わかった。入り口から少し離して作るよ」
タカシ兄ちゃんの指示を頭に入れ早速場所を作り始める。まず花見とかに使うブルーシートを敷いて床を汚さないようにする。動かないようがっちりガムテで留める。さらに滑り止めとして厚手のビニールシートを敷く。小さいお子様用に壁くらいの大きさの
「水道どこ?」
「トイレにホース繋いでるからそこから取ってもらえる? よかったよ、ホース短いから運ぶの大変だと思ってたんだ」
「まさに俺にうってつけだなー力仕事」
デカいポリバケツをトイレまで運ぶと確かに水道に1メートルくらいの短いホースが取り付けられていた。ホースの先をポリバケツに入れて水を五割ほど貯める。よいしょと抱えてビニールシートのそばに置いた。
「手馴れてるんですね」
そこで深雪先生が俺の手際を見て声をかけてきた。初対面の「怪しいヤンキー」からちょっぴり距離が縮まったかもしれん。すっかり嬉しくなって「天秀先生の手伝いでよくやってたんで!」と、返事をすると「天秀先生、本当に素晴らしい方ですよね!」と目をキラキラさせた。おい、そっちかい!
「ほら、書道界ってコネやら縁故やらいくら包んだかで入賞が決まるって問題にもなったくらいだし、嫌な世界だなぁって思ってたんですけど、天秀先生はこういう展覧会でも受付の奥のグループには混じらず、子供たちに書の素晴らしさを教えることを選ばれて本当に素晴らしくて……! 私、1人の人間として尊敬してますっ!」
「あ、そ、そう、ですね……」
あまりの剣幕に一歩引いてしまったが、すげぇ誤解されてるな兄ちゃん。
人付き合いが極端にめんどくさいキャラなだけで孤高の存在きどってるわけでもないし、めんどくさい子供の相手は俺にさせる気だし。つかそもそも本人が、書展のスポンサーになるようなでっかい企業の重役の息子で存在自体がチートキャラだ。じゃないと小学生から美大の院卒業するまで二週間に一回、四国まで飛行機でやって来てばあちゃんに師事するとか出来ないだろ。
だから金がらみでクソな書展とはクールに距離とれるんだし……。金持ち喧嘩せずってまさにタカシ兄ちゃんのためにある言葉だぜ、と思ったけど口に出せるはずもなかった。はぁ、世知辛いぜ。やっぱ人は見た目が9割だな! 優しげな顔と声してるから、性格まで勘違いされてるぜー!! いや、もちろん俺はそんなタカシ兄ちゃんが昔から好きだし、それでいいって思ってるけどね。
「ギン、そろそろ10時だよー!」
挨拶を済ませたらしいタカシ兄ちゃんが会場の中からやってくる。
「わかったー」
まくっていた袖を下ろして一応身なりを整えた。まぁ、何したって俺はパーカーだけど。やがて開館を告げる鐘の音が響く。長い1日が始まった。
「うわーん、うまくかけないよおおおお!!!!」
「わかったわかった、今行くから!」
あー、うるせー!! ギャーギャーうるせー! 俺にもうるさいガキの時期があったのかもしれんが関係なくうるせー! なまじっか天井が高いから子供の声が響いてたまらん。
意外にもちびっ子書道教室は盛況だった。というか完全に託児所にされていた。11時からとか関係なしに、孫を連れてきたジジハバがここに置いていく。さらに書道教室のちびっ子たちの小さな弟妹が、さらに徒党を組んで床にゴロゴロしだす。
「こら、そんなとこで仰向けに寝るな。字を書くとこだぞ」
手に水を含ませた筆をもたせ、うつ伏せにする。
天秀先生と深雪先生は小学校高学年、俺は低学年と、感傷に浸る間も無く大忙しだ。
「えーっと、きれいに書けないんだっけか? ほらお前はまず持ち方が悪りぃんだよ。筆はグラグラ動かないように、人差し指と中指を前にして、中指と薬指で支えるんだ。紙に対して垂直……まーっすぐ。いいか、まーっすぐだぞ」
床に正座したちびっ子の上から、覗き込むように立ち、時々手を貸す。
「あっ、きれいにかけた!」
綺麗な丸が描けたのが相当嬉しかったみたいで、ちょうキラキラした顔で俺を振り返る小学一年生男子。今日は書道教室に通ってる姉ちゃんに無理やり付き合わされた感じだったけど、水写布でもいざやってみると楽しかったみたいだ。でかい紙になんかしら書くのって楽しいよな。実際遊びみたいなもんだし。
「おう、けっこううまいじゃん。じゃあ次は漢字書くか? 名前とかカッコよく書けたらイケてると思うぜ?」
「書きたーい!」
「で、どんな字書くんだ?」
「えっとねー」
そうやってワイワイしていると、いつの間にか俺の周りが「おれも」「わたしもー」「大人もいいの?」と、黒山の人だかりになってくる。一応子供のための教室なんだけど、断るのもアレだし、と受け入れる。
20人くらいは受け入れられるスペース作ったはずなのに、あっという間に道具も人も足らなくなる始末だ。あまりの盛況ぶりに展覧会の会場内で営業トークをかましてる奴らにも手伝ってもらいたいところだがなぜか出てこない。絶対中より外の方が盛況だぞこれ。
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