⑩表向きでは切れたと言えど
「どうぞ」
芥川は女生徒にソファーを勧め、自分は椅子に座った。俺が同じソファーに座ると女子に圧迫感を与えそうなので、仕方なく端っこに積んであったゴミと書かれたダンボールを二段重ねて腰を下ろす。向かって右が女生徒、左が芥川、二人の間に窓を正面にして俺、いう配置だ。
「で、さっきのことだけど、君は綴君と一緒に階段から落ちた滝本さんの救助をした――」
「あっ、井上といいますっ! 滝本さんは隣のクラスで、私はバスケ部ですっ!」
なんと井上さんは先輩だったようだ。あの時は動揺してよく見てなかったが、癖っ毛のショートカットで表情がくるくる変わる誰にも好かれそうな明るい雰囲気の人だ。可愛い。
「滝本さんが誰かに突き飛ばされた、そう言ったの?」
芥川の問いに井上先輩は眉を寄せうつむいてしまった。
「私、心配になってあれから自転車飛ばして病院まで行ったんです。やっぱり、第一発見者だし」
病院の名前を聞くと、ここから自転車で10分くらいの中央病院だった。いい人だな井上先輩。
「滝本さん、救急車の中で目を覚ましたらしくって、でも一応精密検査を受けて帰るってことになったんです。だから検査前にちょっと話しただけなんですけど」
「うん」
短気な芥川にしては珍しくゆっくりと話を聞いている。いや、短気なのは俺限定だったか……あはははっ!(虚しい……)
「滝本さんに、先生とか、警察にこのことを話したか聞いたんです。そしたら、なんで? って……とてもクールで、落ち着いてたから、私怖くなって帰って来ちゃって」
おいおい、話の筋が見えねぇぜ。口を出したくなったが、芥川にまた蹴られそうな気がして口を引き結ぶ。芥川は井上先輩の言葉の続きを静かに待っているようだ。井上先輩も慎重に何かを丁寧に思い出そうとしながらだと伝わってくる。
「滝本さんが階段落ちたの、本当に一瞬だった。ちょうど私も階段登ってて、ってか、バスケ部の部室、三階なんです。これはじゃんけんで去年負けたからなんですけど、で、すごいドスンって大きな音がして、見たら、人が倒れてて……」
そして井上先輩は唇を噛み締め、何かを決意したかのように顔を上げた。
「誰かってとっさに叫びました。それからすぐに足音が聞こえたんです」
「足音?」
我慢しきれず俺が尋ねると彼女は俺に顔を向ける。
「そうなの。バタバタって廊下を走る音。てっきりこっちに誰かが来たんだと思って、助けが来たんだって、だけど、その足音はだんだん小さくなって、聞こえなくなった」
「それって……」
その瞬間、井上先輩の顔が恐怖に歪む。
「上に誰かいたんだよ! いたのに反対側に逃げたの! 私が誰かって呼んだ声、踊り場から三階は聞こえる距離だよ? 絶対聞こえたはずなのに逃げたの! そのことに気づいて私怖くなって、悲鳴をあげてっ……!」
井上先輩はプルプル震えていた。
そうか……そりゃあ、怖いわな。誰かが滝本先輩を階段の上から突き飛ばしたとしたら、次は自分に危害が加えられるんじゃないかって怯えて当然だぜ。
「で、井上さんの悲鳴を聞いてこのゴリラが飛んできたわけだね。三段飛ばしで」
「そこの情報いる?」
俺のツッコミに終始硬かった井上先輩の表情がちょっとだけ緩む。クスッと笑顔になった。
「ううん、頼もしかったです、本当……」
もしかして芥川、井上先輩をリラックスさせるためにそんなこと言ってんのかな……。
「いいんだよ、無理しなくても。ゴリラに遭遇するなんてとても怖いことだしね」
いやいやいやそんなはずねーわ。すぐに芥川に関する考えを改める。
「先生に聞いてもらえてちょっと楽になりました。君も、ありがとう」
「いや、そんなこと……気にしないでください。俺もたまたま聞きつけただけなんで」
確かに秘密を持つのは苦しいよな。しかも知ってる人が傷つけられて自分も現場にいたとしたらなおさらだ。
ウンウンとうなずいていると「あとは僕たちが調べてみよう」と芥川。
はい!? 僕たち!?
「だけどこのことは誰にも言わないでくれるかな。井上さんが嘘をついてるって思ってる訳じゃない。生徒の安全もかかってるし、はっきりしないうちに話が広まるととりあえず部活動全体を自粛しないといけなくなるかもしれないから」
「えっ、それは困ります!」
「うん。だから慎重にやるよ」
「ありがとうございます、私本当怖くて……滝本さん、とっつきにくい感じするけど悪い人じゃないし、階段から突き飛ばされるなんて信じられなくて……」
井上先輩はぺこぺこと頭を下げた後、国語準備室を行きとは違うほんの少し軽やかな足取りで出て行った。
うーん……。とりあえずちょっと整理してみるか。
「要するに本人は否定してるけど、滝本先輩を突き飛ばし奴がいるって井上先輩は、思ったってことだよな?」
「コーヒー」
亭主関白かよ!? 芥川は俺の質問に答えず椅子の上からソファにダイブし、足をブラブラさせている。他人の目がなくなった途端ダラダラしやがって……。仕方なくいつもの手順で水を沸かし、特売で買ったインスタントコーヒーを入れスティックシュガーと一緒にローテーブルの上に置いた。
「ほらよ」
仰向けになり、じっと天井を見つめていた芥川はむっくりと上半身を起こし、カップに砂糖を一袋ずつ入れ、どっかから持ってきたっぽい変なキャラクターがついたマドラーでゆっくりとかき混ぜながら口を開いた。
「井上は滝本は誰かに突き落とされたと信じている。なぜなら人影を見、さらに逃げていく足音を聞いたからだ。一方被害者である滝本は井上の誰かに相談しないのかと聞いて、なんの? と答えた。突き落とされた雰囲気ではない」
「うーん……だったらやっぱり井上先輩の勘違いなんじゃねーの?」
「人影と足音は?」
「だから、勘違いとか……」
「勘違いだらけだね。まるでお前のようだ」
「あーもうっ、悪かったよ。でも井上先輩の言ってること本当なのかな。なんか話し方も支離滅裂だったじゃん」
「動揺した人間は思いついたことをそのまま口にする。突発的事故が起こった時、時間を空けず他人に理路整然と説明できる方が怪しい」
「じゃあさ、こういうのはどうだ。人影と反対側に逃げる足音が本当だったとして、でもそいつが突き飛ばし犯人かどうかはわからないだろ? 井上先輩と同じように強くなって逃げたのかもしれないし、余計なことに関わりたくなかったのかもしれない」
「なるほど、考えられるね」
芥川は冷めた眼差しで砂糖たっぷりのインスタントコーヒーをすする。
目線は窓の外に向けられていてピクリともしない。俺の意見は置いといて、こいつ独自の深い思考に沈んでいるようだ。つか、マジ珍しいな。芥川にしては珍しく事件に対する興味があるっぽいが、いったいどういう風の吹き回しなんだか。
「でもお前どうしたんだよ急に。こういうのめんどくさがると思ってた」
「そりゃあ面倒くさいさ。だけどこれはスコーンが盗まれたとかクソ男の大事にしてる花瓶がなくなったのとはわけが違うだろう。生徒が実際に学園内で怪我をしている」
「まぁ……そうだな」
「これがキッカケで大きな事故が起きて、来年新入生を受け入れられないなんてことになってみろ。こんな新設私立校はすぐに経営破綻真っしぐらさ。やっと定期収入にありついたんだ。金づるの平穏を揺るがすものは許さない」
カッと大きな瞳を見開いて真面目な顔をする芥川。珍しくやる気を出したと思ったが……しゃあない奴。
「じゃあ放課後からとりあえず調べるか。一応俺もメンツに入ってるわけだし……ってああああ!」
「なんだどうした」
「試合っ、試合っ! すまん、また後で!」
やべー、また遅刻だぁぁあ! アワアワしながら、国語準備室を飛び出して、廊下を走る。(いや走っちゃダメだけどさぁ!!)
「ヒーローは遅れて参上……! 以下略……なーんて……ハハッ、すんません……」
クラスメイトから向けられる呆れと怒りとなんかしらの冷たい視線の集中砲火に耐えられず、気まずさから微妙におどけてしまった。またひどく怒られたのは言うまでもない。
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