鎖
かわうそ
第1話
朝がやってきて、あたしは彼にキスをして。ありふれた世界の一コマで今日も憂鬱から離れられずに、ぼんやりと考える。
苦手な珈琲を彼は毎朝淹れてくれる。
あたしはそれを、内心、反吐を吐きながら、少しずつ飲み下す。
笑顔を浮かべるのを忘れずに。
始まりは、2ヶ月前。
あたしが会社を辞めたいと言うと、彼は「辞めてイイよ。俺が養う。」と言ってくれた。
まだ付き合い始めだったけれど、あたしは彼のことばに浮かれ、信用しきって、彼に甘えた。
会社を辞めてから、彼はどことなく変わった。自分の言い分を通したがるようになった。それをあたしが拒んだり、否定すると、殴るようになった。
彼は上手かった。
殴るのはいつも見えない場所。必ずなぐってからはひどく優しく、あたしは彼を手放せずにいる。そう、離れられないんじゃなくて、手放せない。
喉元を通り過ぎた珈琲があたしの体内でなんだか違うものに変わっていく。液体から得体の知れない感情に、その感情から違う液体に姿を変え、終いに両目から溢れ出した。
泣いてしまっていることに、あたしは気が付いた。恋人が、自分の淹れた珈琲を飲みながら泣いていることに彼は気が付いた。
「なんで…。」
あたしと彼の言葉は重なり、それから圧倒的に大きくなった彼の声が聞こえる。あたしはどこかぼんやりとしていて、彼を遠く感じる。癇癪を起こした彼があたしを殴っている。
泣くな、泣くなと、子供みたいに喚きながらあたしの腹を蹴りつける彼が、あたしは愛おしかった。
手をのばして、抱きしめる。あたしが彼をこの愛で改心させる。
両腕の中で彼はあばれ、
突然あたしの視界に火花が散った。
赤く綺麗な飛沫。
あたしはその場に倒れこむ。
彼が子供みたいに泣きじゃくりながら、手に持った血塗れの花瓶を投げ捨てる。
痛い、熱い。
どんどん身体から何かが溢れていく。
それがひどく恥ずかしいことに思えて、あたしは彼に手を伸ばす。
あたしをどこか見えないとこへ、と伝えたかったけどなぜかもう唇も動かない。だんだん視界は歪み、壊れていく。
彼はあたしの手を握ることなく部屋の隅で縮こまる。
あたしは、本当にこんな子供のような人を愛していたんだろうか。
ずっとあたしと彼を結んでいたもの。それはきっと醜い鎖のようなものだ。
瞼がひどく重くて、目を閉じた。
もうそれきりあたしはすべてわからなくなった。
鎖 かわうそ @uso_kawa
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