第三十二話 奇跡

 レイが目を覚ましたのは自分の部屋の自分の布団の上だった。だが彼がそれに気付くのにはしばらくの時間を要した。


 少しぼやけた視界の端に映る揺らめきとその後ろのくすんだ茶色い背景が吊り下げられた廃油ランプと天井だと分かったのもほんの数分前のことだ。体の奥底から染み出るようなだるさと全身の関節が軋むのを感じながら身を起こす。


 視線を下ろすと彼の両手は肩の辺りまで包帯でぐるぐる巻きにされていた。額と腹部には幅の広いさらしが特に重ねて巻いてある。

 それを見た途端、身体の内部の忘れていた痛覚が甦って彼は呻きながら再び布団に体を横たえた。


 横になった視界が障子が開くのと同時に大きな二本の足を捉えた。首だけ起こして見上げると煙草をくわえてボロボロの革ズボンのポケットに手を突っ込んだ銀髪の大男がそびえ立っていた。


「おっさん………」


 呻くレイを覗き込んでロベルトは少し驚いた口調で言った。


「早いな、もう起きたか」


 そして起き上がろうとするレイの頭を片手で押さえつけた。


「無理はするな。まだ寝てろ」


 レイは仕方なく枕に後頭部を埋めて、天井から垂れた左右に揺らめくランプの光を眺めた。だが、実際にはランプが揺れているのではなく彼の視界がぶれているのだった。


 彼は状況を整理しようと頭の中を引っかき回したのだが、どうも記憶が途切れ途切れで定かでない。そこで顔を横向けて、彼の横にどっかとあぐらをかいたロベルトに尋ねた。


「おっさん、俺……」


「あ? ――だから、無理すんなって。おとなしく寝てろ」


 ロベルトはそれだけ言って天井を向いて煙草をふかし始める。レイはしばらく沈黙した。

 それはロベルトに従ったのではなく疲労がそうさせたのだ。今度は顔を上に向けたまま問う。


「俺…なんで、ここに寝てんだ…?」


「それすら覚えていないのか」


「ああ……なんか、どろどろの夢を見ていたみたいだ。所々は覚えているような気がするんだけど……。それも記憶が前後してはっきりしないし…、どこからどこが現実で、どこからが幻の境目か、ごちゃごちゃになって……」


 レイの言葉はそこで途切れた。これ以上は思考できない。言葉を出そうとするたびに頭の中が左右に揺られて記憶が飛んでしまいそうだ。


 ロベルトは突然に難しい表情で腕を組んでしばらく考え込んだ後、ゆっくり口を開いた。


「一応、質問には答えてやるよ。でも、今は何も考えるな。俺が喋ること脳みそに貯めずに全部反対側の耳から垂れ流しにしてろ。お前は相当、精神を消耗しているんだからな。あんなモン長時間使って人格がぶっ壊れないほうが普通じゃねえが………おっと、これも聞き流せよ。どのみち後で説明は嫌になるほど聞かせてやるよ。とにかく、以上の事を約束するなら答えてやるが」


「……言われなくても、寝るよ。それに、なんかまた頭がぼやけてきたし、考えるどころじゃないから……」


 レイは半分閉じた眼でだるそうに答えた。ロベルトはそうかと一言、言ってから煙を一筋吐き出した。


「まず、お前は丸二日寝てる。今は……午後の七時だから、一昨日の夜から約四十四時間ってところだ。だが、それでも全然休み足りてねえ。俺はお前の精神が完全に癒えるだけでも一週間はかかると見てる」


「まあ二日目で目が覚めたってのは驚愕の回復力だが、それでもあと五日は寝てもらうぞ。なにしろ身体の方は火傷に骨折に打撲その他諸々。全治には一ヶ月ってとこだ」


「そうか……」


「次に何でお前がここで寝てんのかというと、これは今度目覚めた時には完全に思い出しているだろうが、この町が野盗に襲われてだな。お前の怪我はそこのキノコ頭の魔術士にボコられたんだよ」


「――そうだった……って、おっさん魔術直撃して死んだんじゃないのか」


「何を寝ぼけてんだ。こうやってぴんぴんしてお前に話しかけてんじゃねえか。それにお前らと違って俺は頑丈の次元が違うんだよ。あんなレベルの魔術、直撃だろうが何だろうが屁でもねえぜ」


「…あ、町長は?」


「おう、ニコラか。あいつもお前と同じく自宅で療養中だ。しばらくは町長の仕事は無理だろ。九郎殿が代理でやるみたいだな。そもそもあいつ、昔からお節介過ぎで超多忙だからな。ちょうどいい休暇じゃねえか」


「……そうだね」


「他に聞きたいことは」


「……俺は、勝ったのか……?」


「ああ、お前は勝ったぞ。お前は一人で戦ってこの町を護った。誰も死んでない。よくやった」


「よかった……」


 短く言い終わると同時に閉じかけていた瞼が完全に垂れて、彼は再び死んだように深い眠りに落ちた。


 ロベルトは彼が眠ったのを確かめてから部屋の中を眺め回した。


 五畳半ほどの小さな畳敷きの部屋の隅に小さな木の座卓がぽつりと置いてある。そしてその横の壁に数本の木刀が無造作に立て掛けてある。それだけで他は何もない。廊下に面した障子の隙間から畳の上に漏れる闇の線と吊り下げられた廃油ランプの安っぽく頼りないオレンジ色の炎がくすんだ板の天井に映す陰影がこの質素な部屋の侘しさを一層かきたてる。


 彼は一筋の細い煙を吹き出してから寝息を立てるレイの顔に視線を落とした。


(まったく、こいつどういう生命力してやがる。普通の人間があんなに何発も魔術食らったら間違いなく死んでいるところが全治一ヶ月だと? それにこの回復力も冗談じゃねえぞ。いくらセント・クレドの魔剣が傷を癒したと言っても有り得ねえ早さだ。このままの早さで回復しつづければ全治三週間もかからねえんじゃねえのか?)


 あの日の夜、全てが終わった後、ロベルトはレイと町長を担いでこの町に一軒しかない町医者に駆け込んだ。幸いここは町の中心から外れた場所にあったので野盗の襲撃を受けておらず、老医も怪我人が出た場合に備えて待機していた。


 町長の脇腹の傷は応急処置が早かったため出血が少なく傷口の縫合だけで済んだのだが、レイの方は出血こそ少なかったが全身にひどい火傷と打撲傷を負っていて、数本の肋骨が完全骨折、亀裂骨折は数え切れないほどで特に腹部の内臓へのダメージがひどく、こんな死にかけの身体で先程まで立っていたのすら奇跡に近い状態だった。それに加えてこんな田舎町の医院では到底、医療器具が足らず、殆ど手の施しようがなかった。


 九郎が呼んだ隣村の歳術士が駆けつけて治癒魔術を施したものの、一部の火傷を消すので精一杯だった。他人の身体に支配をかけて魔術を発動させるのは極めて困難で膨大な魔力を消費するし、どんなに魔力をつぎ込んでも本来の威力の数%しか効果を発揮しない。

 他人の傷を完全に癒せる技術を持った魔術士など赤土の魔術士同盟ラテライト・ウィザーズの幹部くらいしかいない。


 万策尽きて途方に暮れていた時、ベッドに横たわっていたレイの胸元の剣のペンダント、すなわちセント・クレドの魔剣が彼の懐から浮かび上がって、多色の光を放射線状に放ちながら輝き始めた。


 その虹のような幻想的な光はレイの身体を包み、宙に持ち上げた。

 ベッドの傍にいた老医と歳術士が驚いて腰を抜かした。光は火傷のただれた傷と体中にできた青痣を見る見るうちに消し去り、苦痛に歪んでいたレイの顔に血の気が戻った。そして光は次第に集束し、剣のペンダントが元の鉛色に戻ると同時に彼の体はゆっくりとベッドの上に降ろされた。


「――これは…信じられん。火傷も、打撲の痣も……なんと! 先程は折れていたはずの肋骨が繋がっておる…。これは、何が起きたのだ……今のペンダントから出た光がレイの傷を癒したのか?」


 起き上がった老医がレイの身体を調べて驚愕の表情をロベルトに向ける。しかしロベルトの表情も老医と大して変わりはなかった。彼は苦笑しながら答えた。


「さあ、俺にも分かりません。――神の奇跡ってやつじゃないですか?」


 それが古代兵器によるものだといっても老人は信じないだろうし、一般人が知ってはならないことだ。


 その言葉に老医はしばらく深く考え込んだ後、彼なりの結論を出した。


「そういえばこのペンダントはレイの亡くなった父親の遺品だとか聞いておったな。父親の魂がこのペンダントに宿っていて、レイの危機を救ったのかもしれんな……。とにかく、この世には人間の理解を超越する力というものが存在するのだ……」


 ある意味、老医の答えは的を射ている。ロベルトは少なからず納得した。レイを癒したのは彼の意志にしろ魔剣の意志にしろ、それは魂にも近い強烈な精神力であり、人知を超えた古代種族の力の結晶体であるからだ。

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