第三十一話 孵化の儀式
紳士帽は呻くような低く重い声で誓約の言霊を唱え始めた。
「我らが母よ、捧げるは黒き王家の金冠、代償は悪魔の果実。その偉大なる力をもって、誓約者の囚われし魂を神の意志から解き放ち、永遠なる輪廻の鎖輪へと誘い給え……」
その声に反応するように周囲の苔が手形の輪郭に沿って青白い光を放ち始める。
「――ぐ、ああアアッ?」
突然、女の掌に焼くような激しい痛みが走った。手形の輪光は一気に光量を膨れ上がらせ、女の腕に無数の光の束が意志を持つ蛇のごとく絡みつき、彼女の体に向かってじわじわと這い上がり始めた。
「な、何だこれは! 貴様何をした、くそ離せっ!」
女は木から手を離そうとしたのだが、その手は幹と一体化したかのように手形に吸い付いて片手を添えて引っ張っても全く動かない。
「もう遅い。お前はすでに我らが母の名において誓約を立て、廻る
紳士帽の男はさらりと言って女の傍から一歩離れた。祭壇の下では犬人が立ち上がり興奮して騒いでいる。
「ヒャハハハハ、だから言っただろ。それなりの覚悟しとけってよハハハハ」
「ぐ、胸がっ……焼けグアアアアアアア―――」
光の蛇が胸部に達した時、苦痛がその身体を内部から焼き尽くすかのように全身に広がった。女は喉が裂けるかと思えるほどの声で激しく絶叫しながら仰け反った。
「その苦痛は力の代償であり試練だ。今からお前は契約の名の下に我らが母の力を受け取るのだ。殺し屋ならば拷問訓練くらい受けているだろう。耐えろ」
紳士帽は言ったがその声すらもはや彼女には聞こえていなかった。
炎は肉を焦がす、肉体の痛みだ。しかし彼女を苦痛に誘うのは光だ。その光は心を焦がす、精神の痛みだ。肉体の苦痛は精神の鍛錬で緩和することが出来る。だが精神の苦痛は鍛錬では緩和することは出来ない。生死を分けるのは魂の資質だ。
「心を炙られる苦痛を受け入れ、そしてゆっくりと光を収束させろ。それが出来ぬのならお前はそれまでの器だったということだ、価値なき者との契約は滅びによって破棄される」
気が狂うような黒い女の悲鳴が聞こえていないかのように冷酷に紳士帽は続けた。
「精神が焼き尽くされれば次に光が燃え移るのは魂だ。魂が焼かれればお前は死に、そして最後に肉体が焼かれて灰だけが残る」
「――アググぐ……ギギオおおアア――」
女の絶叫が少し抑えられた。心臓の辺りを掴んで精神を焦がす苦痛に耐えている。
「――あぐううううううっ……く、静まれえっ……」
カッと目を見開いて歯を食いしばる。額を覆う汗が両方の頬を伝って幾度も祭壇の冷たい石床に滴り落ちた。
やがて彼女の手に絡みつき肩までを侵食していた光の蛇が急に怖気づいたように収縮を始め、しばらくすると光は完全に苔の手形の輪郭だけに戻った。
「耐えたか……、資格はあったようだな。――だが、これからが本番だぞ?」
そう言うと紳士帽の男は息を乱してうなだれている女に再び歩み寄り、その首筋に片手を当てた。彼女の片手はまだ木の幹に捕らわれたままだ。
「我らが母よ」
紳士帽の男の指先に青い燐火が灯る。男は目を閉じ、低い声で詠唱を始めた。
「試練を乗り越えし、黒き王家の金冠に不朽の代価を与え給え……」
黒い女の耳に風が吹いたような音が聞こえた。
だが空気の動きは全く感じられない。紳士帽の男の問いかけにこの母なる巨木が呼応し、身を揺さぶったのだ。
そびえ立つ巨木の天辺から根元に向かって木の枝が揺れて、葉と葉が擦れあって千の蟲が蠢くような重低音が彼女に向かって落ち迫ってくる。
「
紳士帽の男が聞きなれぬ古き言葉で呪詛を完結させた。
「人は誰しも、心の深く内なる場所に強大な獣を飼っている。だがその檻は堅く、幾重にも鍵がかかっているためにその獣が陽の目を見ることは、普通はない。今から我らが母がお前の心の中に入り、失われた記憶で檻の錠を破り、お前の中にいる獣を呼び起こす。契約が全て完了した時、お前は真の能力に目覚める」
黒い女は重い疲労と倦怠感に縛られた思考のせいで焦点の定まらない視線を恐る恐る上に向けた。
木の葉のざわめきと共に何かが落ちて、いや、夜空の遥か上から大樹の幹の中を、目に見えぬ何かが駆け降りてくる。木の葉の振動はその衝撃なのだ。
祭壇を包み込んでいる巨根の隙間から見える一番下の枝が大きく木の葉を揺らしたのを女の脳が捉えた瞬間、感じたことのない大きな恐怖が彼女を掴んだ。それは木の幹から手形に密着した彼女の掌から伝わり、うねりをあげてその腕の中に侵入し、たちまち彼女の全てを包み込んだ。
「う……うああああおオエえエエッ!」
世界が渦に飲み込まれたような悪寒と吐き気と同時に、女の身体が激しくがくがくと上下に痙攣し始めた。
来る。
自分ではない何かが脳の中を直に覗き込むようにして体の中に入って来る。
全身の臓器が裏返るのではないかと思えるような内側からの激しい悪寒に、拒絶感は頂点に達した。
「くあああ――よ、寄るなああうう私にく、くうあ近寄るなああうう、いいイイいぐううああああああああッ―――!」
必死に拒もうとするのだが、それは無駄だという虚無だけがはっきりと感じられる。じわりじわりと深くどこまでも黒い闇が精神の外側を確実に侵蝕していく。
その闇の奥底にべたつく波紋が起って、その重なった円の中央から真っ黒く細長い手が重い滴りと共にだらりと突き出された。黒い手は彼女の何かを探し求めるように精神の虚空を緩慢に探った。そして彼女の核、我々が「心」あるいは「魂」と呼んでいるものを見つけると突然動きを止め、蛇が鎌首を掲げるように狙いを定めると、今度はそれを掴もうと掌を一気に大きく伸ばした。
「う……あ……」
脳髄のさらに内側に凍える楔を打ち込まれたような、快感とも苦痛ともいえぬ感覚が走り、唐突に女の絶叫が途切れた。捕らわれていたその片手が、全てを失ったかのように木の幹からあっけなくずり落ち、女の身体も石床の上に崩れるように倒れた。
「獣は放たれた……」
紳士帽の男が倒れた女を見下ろしながら言った。犬人がへらへら笑いながら祭壇に登って来て、女の顔を覗き込んだ。
「ヒャハハハ! この女、失神してやがるぜ。口の割にはたいしたことねえなハハハ」
その勝ち誇った嘲りに冷めた顔で紳士帽の男は言った。
「時間が経てば勝手に目が覚める。それに彼女は今まさにお前と同じく力に目覚めたのだ。お前でも勝てる保証はもうどこにもない。それより一応この女を見張っていろ。仮にも未来の同志だ。妙な真似するなよ」
「ヒャハハハ、そりゃどういう意味よ旦那?」
犬人の問いに無言で紳士帽の男は祭壇の階段を下りた。そして愚鈍な天を仰いで手を広げた。
眼上を覆い尽くした鼠色に濁った雲が不気味に渦を巻いて大気の全てを飲み込もうとしている。紳士帽の男は空に両手を掲げたまま感慨深げに言った。
「我ら、この小さき世界に住まう者ども、全て運命さだめに縛られた哀れな物質の奴隷にしか過ぎぬ……。我らは今こそ神の呪縛を打ち破り、この世界を運命さだめから救い、神によって独占されていた永遠を手に入れるのだ」
刺青の男がその言葉に続いた。
「その為には我らが母の力が必要だ。だが母の復活には――」
そこまで言って唐突に言葉を切った。彼も同じく空を見上げた。蠢く黒雲が苦痛に耐えているようにその中で小さな閃光が幾つも低く唸っている。
「まだ、魂の総量が足りぬ」
しばらくしてから思い出したように言って、刺青の男は視線を元の下界に戻した。
「ヒャハハ、あのお方の望む真の器も」
祭壇の上から犬人が笑った。
「うむ、魂については……狩らねばならぬな。出来るだけ多くの者の、
そこで初めて紳士帽の男は口の端を緩めた。だがそれは不気味な笑みであったが。
「すでに多くの同志が外界に待機している。かの者がいつどこで目覚めようとも発見できるように世界の各所にな。我らが母の目覚めはかの者の目覚めも意味する。二つは極めて密接に連動しているのだ。連盟がいくら懸命にかの者の存在を我らから隠そうとしても、全くの徒労に終わる。すでにかの者は我らの網の中にいるのだからな。焦らずとも
「ヒャハハハ、さすがは旦那、抜かりねえハハハ」
「一つ、気がかりなのは連盟がどう動くかとういうことだな。治安機構も盲目ではない。前衛部隊の壊滅とその部隊長の裏切りくらいには容易に気付くだろうな」
刺青の男は言いながら横目で犬人を見た。犬人は一瞬ばつの悪そうな顔をしたが、やはり意味もなく低い声で無責任に笑った。
刺青の男は諦めたように視線をまた空にやった。紳士帽の男が彼の答えを代弁した。
「だが、すぐにこの森には侵攻して来ないだろう。すでに森の空間は集束しつつある。やがてこの聖域は完全に世界から遮断され、封印されていた守護者ガーディアンどもも甦る。そんな危険地帯に何の古代兵器対策を持たぬ軍隊を送り込むほど、奴らは馬鹿ではない。ただ、派遣されるとすれば……」
「……『原罪の騎士団』か。あの大世界連盟直属の最強部隊――」
刺青の男がまるで汚物を語るかのように心の底から憎々しげに言葉を吐いた。犬人だけが高い声で愉快に笑った。
「ヒャハハハ、
「甘く見るな、ジャド。奴ら、連盟の狗党とは言え、世界最強の名は伊達ではない。奴らとの衝突は避けられぬだろうが、互角にやりあうにはまだ同志の数が足りぬ。この女のように資質あるものを集め、我らが母と契約させねば……」
そう言うと紳士帽の男は完全に表情の消えた顔で再び空を見上げた。
今にも泣き出しそうな暗い夜の曇天が相変わらず漠然と彼らを見下ろしていた。
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