第三十話 人獣と獣人

 そのエリアは今までの場所とはまるで様子が違っていた。


 森の中に幾重にも折り重なるように密集して生えていた木々は、その半径二百メートル程の円形の広場だけがまるで侵さざるべき領域であるかのように、境界の線からは一本の根、一枚の葉すらも侵入しておらず、鼠色に曇った夜空が吹き抜けになっている。


 他の場所と同じように地面一面を苔の絨毯が覆っているが、古木の根が張り巡らされていびつな凹凸の地形を形成している境界の外とは違い、ここの地面だけが何もなく完全な水平を保っている。正にこの大地が創り出された当時のままに一本の幼木や雑草さえもそこには生えていない。その境界線の先と手前では明らかに異種の力が働いている。


 完璧すぎるほどの円形に模られたこの場所は自然によって作り出されたとは到底思えない。


「これが、神の土地デイティー・ソイル、か……」


 黒い女は先刻とは違う、明らかに畏怖の混じった表情でこの異様な空間の中央にそびえ立っている巨大すぎる木を見上げた。


 その巨木の周囲を見たこともない武器を手にした、これまた五メートル程もある巨大な十二体の兵士の石像群が取り囲んで護り、妖しく深い緑に光る鉱石のはめ込まれたその冷たい瞳で侵入者に無言の警告と威圧を発している。


「どうした。臆したか」


 境界に足を踏み入れるのをためらっていた女の方を振り向いて、すでに広場の中に入っていた刺青の男が振り返り、にやり笑って言った。


 黒い女は刺青の男を無言でじろりと睨みつけ、意を決してその聖域に足を踏み入れた。


「ヒャハハハ、あんたが今から踏み入れようとしてんのは我らが母なる神サマの住まう家だぜ? それなりの覚悟は出来てんだろうな、ヒャハハハハ」


 女の後ろで犬人グラッフィアが笑いながら言ったのと、彼女の踏み出した足先が聖域の地面に達したのはほぼ同時だった。その瞬間、彼女は言いようのない寒気と凄惨な鬼気が足先から伸びてくるのを感じた。同時に一瞬、身体中の毛が逆立つ感覚と軽い眩暈めまいを覚え、女は少しよろけた。


「気にするな、始めは誰でもそうなる。だが慣れれば何も感じなくなるさ」


 刺青の男は黒い女の反応を見てコルク酒を口に流し込みながら言った。続いて犬人が何事もなくその境界を一跨ひとまたぎし、黒い女の横顔に嘲笑を浴びせながら追い抜いて、先に歩き出した。


「ヒャハハハハ、殺し屋『王家の金冠ロイヤル・クラウン』サマもたいしたことねえな、ハハハハ」


「―――くっ」


 黒い女の顔が屈辱に歪んでその手が瞬間的に腰に帯びた漆塗りの短刀に伸びたが、刀身が引き抜かれるよりも速くその柄を刺青の男が抑えて制した。


「ジャドの言うことに構うな。口が悪いのはあれの専売特許みたいなものさ。いちいち反応していたらきりがないぞ」


「止めるな! あの減らず口の首を落として黙らせてやる」


 いきり立つ女の言葉に刺青の男はいたって冷静に言った。


「それは難しいな。いくらお前でもあいつに敵うかどうか…」


「何だと」


 それは男の本心であったが明らかに火に油だったようで、黒い女はバッと跳び下がり、間合いを取ると同時に素早く短刀を抜いて低い戦闘態勢に構えた。そして跳び下がった際の風圧で女のフードが脱がれ、隠されていたその顔をあらわにした。


 女の髪は漆黒で思ったよりも長く、後頭部で束ねられている。そして本来耳があるはずの場所にそれはなく、代わりに頭の前方、こめかみの延長線上辺りに獣の耳が突き出している。どうやら彼女は獣人ウルドらしい。もっと詳しい分類で言うと猫の獣人、キャットウルドという種族だ。


 犬人グラッフィアは分類的には人獣ガルーという種族だ。人獣ガルーもこの獣人ウルドに近い種族なのだが、生物学的にはこの二つははっきりと違う眷族である。簡単に説明すると人獣ガルーとは獣を主体ベースとしてそこに人間が組み合わさったものだが、獣人ウルドとは人間を主体として獣が組み合わさったものだ。

 さらに人獣ガルー獣人ウルド亜人アレフという大きな分類に属する。獣人ウルドはより人間に近く、と言うよりほとんど人間で黒い女のように耳と尾を隠せば区別はつかない。


 この二つの種族は人間よりも遥かに優れた身体能力を生まれ持ち、それを生かして傭兵や賞金稼ぎなどの職につく者が多い。その獣人ウルドの中でもキャットウルドは特に夜目が利くため、暗殺者を多く輩出している。


 刺青の男は自分が無駄口を叩いたのを察して、舌打ちを一つしてから頭をかいた。


「お前も切り刻んで口が利けないようにしてやろうか」


 黒い女が短刀を構えたままじりじりと間合いを詰める。しかし、刺青の男は無防備に両手をだらりと垂らしたまま言った。


「それはなおさら無理だな」


 刺青の男はなだめるよりも力で押さえ込んだほうが手っ取り早いと判断したようだ。

 挑発に激昂して突っ込んでくる黒い女の短剣の一薙ぎを半身をひねっただけでかわし、すれ違いざまに女の襟首を掴んで反転させ、足を掛けて地面にどうと押し倒した。


「く――」


 黒い女はその状態から脱しようともがいたが男の上から押さえつける腕力は凄まじく、彼女が苔むした地面から身を起こすことは出来なかった。


「俺の発言で気分を害したのなら謝ろう。そのかわりお前も落ち着け。同士討ちをしても何のメリットもない」


 刺青の男は言い終わると腕の力を緩めた。束縛から解かれた瞬間に黒い女は跳ねるように起きて再び短刀を構えたが、刺青の男はすでに背を向けて歩き出しており、そのあまりの無防備さにかえって殺気を削がれたのか、いくらか不満な顔で鞘に刃を収めた。


「ジャド、お前もいちいち思ったことを口にするな。おかげで無駄な体力を消費しただろうが」


 刺青の男は、離れたところでその戦闘を煽っていたが中途半端な解決に物足りなそうにブーイングを飛ばしている犬人に忠告した。しかし犬人は、


「ヒャハハ、悪いな兄貴、反省してるぜハハハハ」


 と一切反省のない態度で相変わらずへらへらと笑った。それでも刺青の男は大真面目な顔で「分かればいい」とだけ言ってそのまま巨木に向かって歩き出した。黒い女も犬人とすれ違いざまに鋭い殺気の視線を向けただけで無言のまま通り過ぎていった。


 犬人は明らかに面白くなさそうにヒャハハと短く笑ってから彼らの後ろを歩き始めた。この男にとって相手にされないということが一番の苦痛らしい。


「遅いぞ」


 すでに巨木の根元に腰掛けていた紳士帽の男はやはり無機質な顔と声で言った。周囲二十メートルはあろうかという巨木の幹の正面にはかなり古びた石の階段と小さな祭壇のようなものが設けられていて、それらは半分ほど幹の中に飲み込まれている。


「では、これより『孵化の儀式』を始める。お前の魂は神の束縛という名の殻から解き放たれ、新たな力に目覚める……」


 その前に並んだ三人に向かって紳士帽が言いながら立ち上がった。彼は祭壇に向かって歩きながら顎をしゃくって、黒い女に祭壇に上がれという仕草をした。


 女はやはり面倒臭そうにため息を発しながらも階段を上り始めた。その後に紳士帽が続く。刺青の男と犬人は下に立ったまま祭壇を見上げている。階段を上り詰めた紳士帽は先に到着していた黒い女の背中に問うた。


「殺し屋ロイヤル・クラウン。我らが母にその魂を奉げることを誓うか」


 祭壇は四畳ほどの広さで向こうは木の幹で行き止まりになっている。見上げると巨木の根が聖堂のステンドグラスのように複雑に絡み合ってドーム状の屋根を形成し、祭壇全体を包み込んでいる。


「契約なら金次第だな。大世界連盟に喧嘩を売るのだ。それなりの額は貰わないと受けられない」


 女は祭壇のあちらこちらに施された奇妙な植物の彫り物を物珍しそうに眺めながら言った。


「それなら心配するな。ここに八千マモン、用意してある。まだ不満ならあと二千、上乗せしてやる。事が成ればさらに報酬として四万」


 祭壇の下で刺青の男がどこから出したのかマモン金貨のぎっしり詰まった大きな麻袋を掲げた。


「ふん、合わせて金貨五万枚か。どこから調達したか知らないがたいしたものだ。いいだろう、その依頼受けてやる」


「ヒャハハハ、そんなモンどうだっていいじゃねえか。あんたみてえな金の亡者はいても亡者の金なんてモンは無えよ。金なんざいくら貯めても地獄の底までは持って行けねえぜ?」


 祭壇の下から犬人が、この男にしてはまともなことを言った。しかし、黒い女は彼の対処法をすでに覚えたらしく振り向きもせずに単調に言い返した。


「黙れ、犬。生きている限りは金が全てだ。死んだ後のことなどどうでもいい」


「ヒャハハ、つれねえ奴」


 犬人は面白くなさそうに短く笑って地面にどっかりとあぐらをかいた。紳士帽はその方向を一瞥してから女の方に振り向いて祭壇の奥を指差した。


「そこの幹に手を置け」


 その指先の向こうは木の幹が壁となっていて、一面苔むしているのだが中心の一部分だけが苔に蝕まれずに木の幹の原色がむき出しになっている。近づいていくとその場所だけ誰かがつい先程まで手を触れていたかのように人の手形になっていた。


 黒い女が幹に手を伸ばすとその手形は彼女のものであったかのように手形と手の輪郭同士がぴたりと重なった。女は少々驚きつつもそれを顔に出さずに振り返って紳士帽に言った。


「孵化の儀式だか何だか知らんが、私は神など信じていないぞ」


「先程も言っただろう、私も神など信じていない。それに信じている必要などない。信じていなくてもお前は見ることになる」


 紳士帽は無表情で答え、幹の傍に歩み寄った。


「ふん、神が見えるというのか。馬鹿馬鹿しい」


「くどい。何度も言わせるな、神ではない。神など存在せぬ。お前が見るのは、我らが母だ」


 紳士帽は以後の質問を阻むかのように強く言うと静かに目を閉じ、くうに指で印を切り始めた。彼の指がなぞった空間に古代文字のような淡い光を放つ線が現れた。

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