第二十九話 夜宴、蠢く者ども
男は苔に蝕まれた巨大な倒木に腰掛けていた。雨が止んで夜と共に降りてきた薄い霧が彼の頭すれすれをさらさらと漂っている。
彼は目深に被った羽飾り付き紳士帽のひさしの陰から、その鷹のように端の鋭く尖った目で下を見た。
二メートルほど下の、やはり深い苔で覆われた地面に、異常に大きな肩幅の筋肉質の男が背を向けて座っている。
男の首筋から両肩にかけて古代文字のような複雑な幾何学模様の刺青が伸びていて、その延長線上の手にはコルク酒の薄汚くラベルの剥げた茶色いボトルビンが握られている。彼は上からの視線に気付いたのか口を開いた。
「遅いな」
そう言うと刺青の男はゆっくりとボトルを口に当てて中の濁った黄色い液体を喉に流し込んだ。ビンの中で液体が波打ってアルコールとコルクの臭いが辺りに漂う。
「ああ。だが、時間ならまだ腐るほどある。急いたところで運命が変わるわけでもあるまい」
倒木上の男は紳士帽の羽飾りを湿らせている露を払いながら答える。
森は恐ろしく静かだ。風もなく木の葉のかすれる音すら聞こえない。
だが、彼らは感じていた。この森の至る所で過去に存在を失われたものたちが目覚め始めていることを。空間が音もなく軋み、停滞した重い空気の中に異常に張り詰めた何かが充満している。
ふと、森の奥の霧と闇の向こうからかすかに話し声が聞こえてきた。湿気って聞こえるその声は彼らの方に近づいて来る。霧の壁の一部が微かな空気の動きと共に薄れて、人影が薄っすらと見えた。
「来たか」
紳士帽はゆっくりと顔を上げてその方向を見やった。霧の壁が盛り上がったのと同時に大きな笑い声が森に響いた。
「ヒャハハハハ！ 待たせたな。ちぃと手間取ったぜ、ハハハ」
霧の中から現れたのは背の高い、犬の顔に毛皮で覆われた人の身体持つ
彼の両目は必要以上にぎらついているが、その瞳の中心の瞳孔だけが異常なほどに色素が抜けて白く、そして虚ろだ。
「
少し遅れてもう一人、霧の中から出てきた。
その人物は黒い戦闘服を着込んでいて、黒いフードで顔をすっぽりと覆っている。全身黒ずくめで身体の輪郭が周囲の闇の色に溶け込んでいる。そして全身の各所に短剣やナイフなどの携帯用の小型武器がベルト止めされている。口調は荒いが声の質からして女のようだ。
「わりいわりぃ、だが可笑しくってよ。ヒャハハハハ」
何が可笑しいのかは彼自身にも分かっていないだろう。犬、と蔑まれたにもかかわらず
「狂った犬め、まともな会話も出来ないのか」
「ハハハ、狂犬か。そりゃよく言われるぜハハハ、ヒャハハハハ」
腰を曲げ、腹を抱えてさらに大きな声で笑う
「お前らか、こんな気狂いの犬を迎えに遣よこしたのは。コイツの狂った笑い声を何時間も聞き続けて耳がいかれそうだ」
「別に迎えにやったわけではない。だが、出会ったのならばそれが運命」
無機質に言うと同時に紳士帽の身体が巨木から跳ねて、音もなく苔の地面に下り立った。その後ろで刺青の男もボトルを提げたまま無言で腰を上げた。
紳士帽は犬の男の毛に覆われた手が血で湿っているのに気付いた。霧のせいもあるのだろうが、まだ乾ききっていない。
「ジャド、殺したのか」
無表情な声にジャドと呼ばれた犬人は自分の血まみれた両手に視線を落としたが、すぐに顔を上げて他人事のように笑いながら答えた。
「ヒャハハ、しゃあねえだろ。目撃者は消せ、これは鉄則。旦那がいつも言ってることだぜ」
紳士帽は表情を少し歪めて、弛緩したままの犬人の口元を見て言った。
「自分の部下を殺したのだろう。無益な殺生はすべきでない」
しかし、その言葉に犬人はさらに愉快そうに口の端を緩めた。
「ヒャハハハ、旦那もらしくねえ可笑しなことを言うぜ。俺はもう治安機構のチンケな下っ端部隊の隊長じゃねえ。今じゃ奴らは部下でも何でもない、ただの他人さ。それにあんな無能ども、部下なんて感情は最初から持っちゃいねえさ、ハハハハ」
聞いた紳士帽は明らかに不機嫌な顔になり、殺気のこもった目と声を犬人に向けた。
「そういう問題ではない。私はお前が無用の罪を犯したことに対して責めているのだ。屁理屈を聞いているのではない。少しは無駄口を謹んで反省するという行為を覚えた方が身のためだぞ」
鋭い殺気に押されたのか犬人はいくらか押さえ気味に低く笑った。すると、二人の緊迫した空気を危惧したのか紳士帽の後ろに立っていた刺青の男が初めて口を開いた。
「大目に見てやれよ。狂犬と呼ばれる男が堅苦しい連盟師団の組織下で六年間も大人しくしていたんだ。最後に多少の羽目を外したことぐらいどうと言うことでもない。それに警護を殺したと言っても、たかが十人かそこらだろ？ いずれ全ては滅びる運命、それが遅かれ早かれ結末は同じこと……」
「ヒャハハハハ、さすがは兄貴。話が分かるねぇハハハハ」
刺青の男が言い終えて酒ビンに口を当てるのと同時に、犬人が手を打って大声で笑い出す。
「……フン、狂犬に神学者に破滅論者か。全くもって馬鹿げた組み合わせだ。付き合ってられん」
犬人の傍から離れて苔むした大木の幹に腕組みをし、首を垂れて寄りかかっていた黒ずくめの女が冷めた声で呟いた。
彼女の戦闘服の立った襟には金の糸で王冠の刺繍がしてある。その光だけが陰気な黒い人型の塊の中で唯一輝いている。その黄金の王冠は彼女自身の
紳士帽の男は霧でかすんだ女の姿を一瞥してから、帽子のひさしを指で下げてその陰に視線を隠しながら言った。
「私は神学者などではない。私は彼らのように神など信じていないし、口うるさい偽善的な説教もしなければ神について無意味な考察をしたこともない。何も知らないが故に好き勝手な訓示や理屈を垂れる、それが神学者だ」
続けて刺青の男が浅く笑いながらコルク酒のボトルを口に傾けた。
「俺が破滅論者ってのには特に否定しないねえ。だが何論者であれ、求道者には変わりない。そして彼らの求める真の答えは永遠に導かれない。しかし、答えが導かれないと分かっていても虚むなしく追い求めるのが我ら求道者の悲しき定め……」
しかし彼女は二人の話など全く聞かずに、いかにも面倒臭そうに言った。
「お前らのひねくれた定義など別にどうでもいいことだ。そんなことより早く契約の儀式とやらを始めろ」
紳士帽の男は思い出したように顔を上げた。
「そうだな。急く必要は全くないが、ここに留まっている必要もない。そろそろ始めるとしよう」
そう言って彼は霧の奥に歩き出した。刺青の男がその後に続く。
「どこへ行く」
黒い女の問いに刺青の男が振り向いて答える。
「
「
「そう。俗っぽい言葉で言うなら、神の住まう家。この原始の森の最深部。世俗から遮断された、この世界で唯一の穢れなき聖域、決して侵さざるべき場所、甘い蜜の約束された大地……」
刺青の男の足元の苔むした地面を灰色の毛をした二匹の奇妙な小動物が、何かから逃れるように慌てて駆けていった。
「下らん。また太古の迷信か。こんな陰湿な森に神とやらがいるとでもいうのか？」
黒い女は飽き飽きした声で刺青の男の後について歩き出した。しかし、刺青の男はその問いには何も答えず、代わりに犬人の方を向いて言った。
「ジャド、お前も来るか？ ここで待っていてもしばらくは誰も来ないと思うぞ」
「ヒャハハ、言われなくてもついて行くぜ。何せ、アレは見ものだからなハハハハ」
犬人アの笑い声が森の中に響いて、奇妙な一団は更なる霧の深みへと消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます