第二十六話 目覚めのとき
レイは自分が今いる場所がどこか分からなかった。
彼は自分の周囲を見回した。そこには何もない。何もない場所、いやここは何もない空間だ。
本当に何もない。彼の目の前には真っ白な空白が遥か彼方まで延々と続いている。空と大地の境目さえもなく、よって彼が立っているのも地面か空中か定かでない。
いや、人間は空を飛べないから恐らくここは地面なのだろう。彼はそう考えた。確かめるために顔を下に向けようとしたが、ぴくりとも動かない。見えない鎖が彼の神経を締め付けているようだ。
次に彼はどうして自分がここにいるのか理解しようとしたが、その度に頭の中に浮かぶものが霧散していき、何も考えることができない。身体を動かそうにも頭が全く言うことを聞かない。
今までに味わったことのない感覚だ。この状態を表すのに一番いい表現があるとすればそれはこうだ。
「世界がごちゃ混ぜになって砂時計のビンの中を下から上に逆流している」
決して心地よくない。だがそこから抜け出したいという気持があまり湧いてこない。それは酔いに似ている。
どのくらい時間が経ったのかは分からないが突然、空間に重い声が響いた。
それは彼の頭の中を稲妻のごとく突き抜けた。その瞬間、脳に巻きついていた
その声はこう言った。
『起きよ』と。
しかし、体の方はまだ満足に動かない。軋む首を動かして上を見上げた。声は天から降ってきたように思えたからだ。
今度はそれは足元で響いた。
『私はそこではない』
彼は下を見たが、やはりそこにも何もなかった。彼はその時初めて気付いた。本当にそこには何もなかったのだ。
彼の足元には地面さえなかった。彼の体は宙に静止していた。そんな彼の思考には関係なく、声は無秩序にあらゆるところから続けた。
『起きよ』と。
彼は前を向いた。
すると突然、霧が晴れていくように何もない空白が消されていき、硝子のような空間の面が現れた。
そして、そこに映像が映し出された。それは男だった。妙な髪型と服装をしていた。彼はその男を見たことがあるはずだった。
それは威圧的に覆いかぶさるようにその空間に
『起きよ』
声はまた言った。目の前の男の口がひどくゆっくりと動いて彼が何か喋っているのが分かった。次に男は大きく
『そして、信じよ』
声は言った。
すると目の前の空間が一瞬、明るさを増し目が眩んだ。
『そして、想え』
目を開けると足元に波紋が立って、そこから一本の剣が浮かび上がってきた。それは彼の折れた木刀だった。
それは完全に出現した後、彼の眼前の宙で止まった。彼の記憶のパズルは組みあがりつつあった。
『起きたか』
声は問うた。彼は呪縛を払うように頭を左右に激しく振った。体はすでに自由に動くようになっていた。
「ここから出ないと」
彼は早口で呟いた。
空間の面に映し出されているのは彼が倒すべき相手だ。彼は先ほどこの男から全てを護ると誓ったのだ。早くここから抜け出してこの男をぶっ飛ばさなければならない。
眼前に浮かんだ木刀を素早く掴んで彼はそびえる魔術士に向かって走り出した。だが、いくら走ろうとその距離は一向に縮まらない。
『あせるな』
声が彼の歩みを緩めた。彼は立ち止まって再び辺りを見回した。
『己が手元を見よ』
吸い込まれるように彼は自分の右手を見下ろした。そこには木刀が握られている。
『その牙は折れている』
声は言った。
『それで戦うつもりか』
彼は沈黙した。すると急に体が重くなった。そして途端に全身に激痛を感じて彼は膝をついた。自分の両手に目をやるとそれは真っ黒に焼けただれて異臭の煙を放っていた。
彼は驚いて握っていた木刀を落とした。彼の腕はもはや彼のものではなくなっているかのように感じた。
『おまえもまた深く傷ついている』
倒れこむ彼の視界の上部で魔術士が緩慢な動作で片手をこちらに掲げた。彼は再び黒金の鎖に囚われつつあった。
『諦めるのか』
何もない真っ白な虚空から蝿のような無数の黒い点が染み出て、ひざまずいた彼の背中に群がった。同時に彼がついた両手の間に円形の穴がぼんやりと開いた。泥炭の水溜りのような深い深い永遠の淵だ。そこには一点の光も見出せない。
だが、不思議と一片の恐怖も感じない。疲労と激痛が感情を蝕んで、恐怖すら麻痺させているのだ。
彼はその闇に誘われて穴を覗き込んだ。その奥深くには闇と同化した、抗し難い何かが彼に向かって手招きをしているように思えた。彼の心に一滴の闇が落ちた。それは瞬く間に彼の心を絶望の膜で覆い尽くした。
途端にその穴が彼の体がすっぽり入る大きさに広がって、闇の中から数本の真っ黒い腕が飛び出し、彼の腕や体を掴んだ。そして抵抗ない彼の体を闇の狭間に引きずり込んだ。
『それもよい。一番、簡単な選択だ』
彼はすでに闇に溶けつつあった。彼の身体は半分以上深淵の中に埋もれていて、さらに底なし沼のようにずぶずぶと沈んでいた。投げ出されたただれた腕はすでに闇と同化して区別がつかなかった。
他の無数の傷にも深淵の泥水が流れ込み、彼を内部から侵食しつつあった。
今や彼の瞳からは光が消えて、目は閉じようとしていた。
『だが、全てはそこで終わる』
その声に彼は呼び覚まされた。
彼の体と心に力が戻った。彼は黒い手を引きちぎって埋もれていた両腕を引き抜いた。その傷口からはオイルのような真っ黒い闇が陰湿な粘り気をもって滴り落ちた。
次に、舞い落ちてくる黒い蝿を払って深い
彼の心身は完全に闇の深淵から這い出た。
『終わらぬか』
「終わらせない」
彼は初めて返事をした。
そして顔の側面の覆っている黒いヘドロ状の生温い闇を拭って、再び立ち上がった。
『そうか』
『ならば力を貸そう』
『わたしを手に取るがいい』
それらの声が聖堂のパイプオルガンの重奏のように荘厳に響いて、彼の心に染み渡った。
彼は辺りを見渡した。だが、やはりどこにも何も見当たらない。
『わたしはここだ』
声は彼の足元から響いた。彼は見下ろしたがそこには彼の折れた木刀が転がっているだけだった。
だが、彼はそれを拾い上げた。するとそれは以前よりも確かな重みを持って彼の腕にのしかかってきた。
『わたしは折れてはいない。わたしが折れているように見えるのならば、それはおまえの心が折れているのだ』
声は言った。
『全てから絶望と虚無を追い払え』
彼は木刀の柄を両手で握り締めて頭の上に掲げる。そしてゆっくりと目を閉じた。
『信じよ。己の全てを信じ、一点たりとも疑うな』
『そして想え。おまえの手中にあるのは折れた牙ではない。それはおまえの望む力だ』
強烈な閃光が目を閉じた彼の視界をも奪った。彼の全身は雪のような温かい、淡い光に包まれた。
途端に彼は重力から解き放たれた。彼の体から全ての闇が剥がれ落ちて、塵となった。
彼は瞼を開いた。
『おまえが信じ、想えば、全てはことごとく成る』
彼の手に握られていたのは先程までそこにあった折れた木刀ではなく、立派で巨大な刀剣だった。
刀身は根元にいくほど深みがかる穢れなき透き通った青の片刃で、幅は五十センチ、長さは二メートル近くあった。その形状はまぎれもなく刀であったが、彼の知るいかなる刀よりも
そして刀身の中央に彼の見たこともない記号のような光の文字が縦一列に走っていた。それは何の飾具も纏っていなかったが、彼にはこの世で一番美しく感じられた。
『見事だ。少年よ』
剣が言った。
次に彼はそれを目の前まで下ろして驚いた。重さが全く感じられない。むしろ腕が空気よりも軽くなっている。
剣は続けて言った。
『おまえはわたしを得たのだ。そしておまえはおまえ自身を得た。わたしはおまえ自身が形を変えたものに過ぎない。おまえは心に潜む闇に打ち勝ち、そこからさらなる光を生み出したのだ』
『前を見よ』
彼は言われるままに前を向いた。そこには巨大な魔術士が彼を見下すように薄笑いを浮かべて、片手を彼の方に掲げていた。
『おまえの打ち破るべき相手だ』
剣が言うと同時に、その魔術士の掌の中央に歪みが出現して、周りの空間を引き込み始めた。
『さあ、わたしを構えよ』
多角形の空間にびしりと無数のひびが走った。それは隅の方から硝子の破片のごとく砕け散って、次々と魔術士の手の中に吸い込まれていく。
彼は両足を踏みしめて大剣を構えた。そして、眼前の魔術士に目線を上げた。
『我が名を復唱せよ』
『それで契約は完了する』
彼は大きく息を吸い込んで剣を振りかぶった。剣は透き通った声で高々に言った。
『我が名は―――』
彼はその後を続けて叫んだ。それと同時に彼が首から提げていた剣のペンダントがふわりと宙に浮いた。
「セント・クレド!」
彼の声に共鳴してペンダントから強烈な閃光が溢れ出す。その光は虚ろなる空間を一瞬収縮させ、そして一気に膨張して周囲の闇を吹き飛ばした。
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