第二十五話 老剣士の覚悟
ロベルトが首だけ振り返ると、九郎が腰に帯びていた刀を外して柄に手をかけている。
居合いの型だ。
烏丸流剣術は剣速の速さで特に抜きん出た剣術だが、その中でも最も恐ろしいのが抜刀術、居合い抜きである。
それは『
居合いの最大の弱点は初太刀を外してしまうと大きな隙が生じるという点だが、鍔鳴りは抜いた瞬間には刀は鞘に納まっているので殆ど隙はない。
しかも、ロベルトは九郎の間合いの内にいて背面を取られている。防御も回避も望みは薄い。
「それは、動けば斬る、ということですか。九郎殿」
ロベルトは一つ一つの単語をゆっくり、はっきりと言った。
「……左様」
九郎の重い声と共に彼の草鞋が石畳を擦る。二人の間に僅かな沈黙が流れた。
「
その沈黙を破ったのは二人とは別の声だった。
「……ニコラ、お前は傷を負うておる。怪我人は無用な口出しはせずに大人しく休んでおれ」
九郎は声の方向を振り向かずに、崩れかけた戸口にもたれかかって辛うじて立っている町長に言った。
「無用だと? 君はレイを見殺しにする気か! くっ―――」
ニコラは精一杯の声で叫んだが、その後呻いて両脇の傷口を押さえながら横木の段差の上に崩れ込んだ。
「何度も言わせるでない。あやつは死なぬ」
九郎は再び言い放ってその光衰えぬ眼でロベルトを睨みつけた。
「九郎殿」
ロベルトは唇だけを動かした。
「今、俺が彼を助けるために動いて、あなたの鍔鳴りが決まったとしても、その一撃で俺を行動不能にできるとお思いか」
「―――いや、思わぬ」
九郎の顔の端が少し緩んだ。
「それどころか、何度斬りつけようともお主を止めるのはまず不可能じゃろうな。お主はひどく頑丈じゃし、意志を貫き通す力も備えておる。何としてもお主はレイを助けようとして、それは容易に叶うであろう。わしのような老いぼれには到底勝機はないよ」
「それでも刀を引かぬと」
「左様。お主がここでレイを救えば、救わぬよりは痛みを和らげることはできるじゃろう。じゃがそれは彼のためにならぬ。レイは己の持ちたる力の全てに気付いておらん。その秘めたる力に目覚めればあの程度の弱輩、軽く蹴散らせる」
「――それに彼は敗者であってはならんのじゃ。これは
それを聞いたロベルトは大きく息を吐いた。
そして両手をだらりと垂らした。
「……分かった。手は出さない」
「どういうことだ、ロベルト!」
今度は戸口でニコラがかすれる声で叫ぶ。ロベルトは彼の方を向いて両手を挙げて言った。
「お手上げだよ。見ての通りな。しょうがねえじゃねえか。俺は九郎殿に斬られたくないし、九郎殿を殴りたくもねえ。俺は今のレイの状態じゃ勝ち目はないと思うが、九郎殿はあいつは死なないと言っている」
「それが運命がどうとか言うのは納得いかないが、俺は今まで九郎殿の意見に従って悪い方に転んだことは一度もねえ。だから今回もどうにかなるだろ」
そして九郎の方に向き直って、そのしわの深く刻まれた顔を覗いた。
「だが、九郎殿。最後にもう一度、聞きます。 ――あいつは死なないんですね?」
九郎は構えを解いて納刀した刀を帯に差しながら、にっこりと笑って答えた。
「ああ、死なぬ。絶対に死なぬ。お主が納得してくれたおかげでわしは長年の二人の友を失わずに済んだよ」
「私はまだ納得してはいないぞ、九郎! 早く助けないと―――」
喚わめくニコラの傍の壁にロベルトが腰を下ろしてもたれかかった。
「ま、あきらめろニコラ。九郎殿は助けに行かないし、俺ももう助けに行く気は失せた。あいつは死なねえし自分で何とかするんだからな。――で、唯一助けたいと思ってるあんたはその傷じゃどう考えても動けねえ。いくら喚こうが結果として誰も助けないんだよ。どうしてもってんならせいぜい祈ってろ」
「まったく、君たちの考えは理解できない!」
ニコラはそれだけを吐くと目をつぶって黙り込んだ。
その反対側に九郎がゆっくりと腰を下ろす。そして彼は夜空を見上げて言った。
「わしだって辛いぞ、ニコラ。いや、お主よりわしの方がずっと辛い。レイはわしの孫みたいなもんじゃからな。その可愛い孫がいたぶられておる。本来ならあの魔術士を切り刻んでやるところじゃ。しかし、わしにそれは許されていない。あいつ自身が解決せねばならん」
それは自分に言い聞かせているようでもあった。
そして九郎はゆっくりと目を閉じた。その顔に月の光が照って頬のしわに深い影を作った。そこにいるのは先程までの老練の剣士ではなく、一人の疲れ果てた老人だった。
ロベルトは九郎から顔をそらせて、取り出した煙草に火を点けてふかし始めた。ニコラは傷口を抱えるように抑えて、崩れた家の中を落ち着きなく眺めていた。
それ以降、誰も何も語ることはなかった。
長い沈黙を更けていく夜が深々と包み込む。
欠けた薄い月は天球の端をかすめて、寡黙に堕ちていく。
その軌道の行き着く先の霧降山の線は咲き始めた山桜に縁取られて淡く寂しい色彩を落としていた。
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