第十六話 全母にして反母
一面を苔に覆われた平坦な大地の上に、場違いな黒い上下のスーツを着て、紳士帽を被った男が立っていた。
苔むした巨木たちの間を霧が走っている。かすれた木々の葉の隙間から鈍く沈んだ空が見下ろしている。
鳥も獣も、老木も若木も、悪魔さえも生けるものは全てが沈黙し、風と小雨の滴る音だけがこの封じられた森の中に流れている。
「我らが母よ」
彼は被っていた羽飾り付きの紳士帽を脱いで自分の胸に当てた。そして空に近い高さを見上げる。
彼の声に答えるかのように、濡れた肩の上に一枚の木の葉が螺旋の軌道を描いて舞い落ちてきた。
「――我らが母よ! 私はついに見つけましたよ。
彼は悲劇の英雄のように芝居がかった仕草で手を広げ、目の前の一本の木に語りかけた。
その木はあまりに巨大で、そう、彼の言う通り、この森の「母」であるかのように感じられる。何百本という根が辺りの地面を飲み込み、その巨大な幹を支えている。
それだけで一本の木の幹程もある枝と木の葉は、悲嘆にくれる空を覆い隠し、この森を抱擁している。他の木々は全て彼女の子であり孫であり、または庇護者である。
この森は彼女、そのものなのだ。
「……私、いや、我らは捜し続けてきました。――母である貴女を。全ての庇護者であるべき貴女を!」
彼の頬は濡れていた。それが雨か涙か、あるいは血かは彼にも分からなかった。
彼は苔で覆われた根の上にひざまずいた。
「我らが母よ。時は来ました。この世界は確実に腐り始めています。世界にはびこる悪しき存在が蝿のように群がって、到る所でこの世界を蝕んでいるのです」
「しかし愚かなる者どもはこの事実に全く気付きもせず、それどころか無知なる行いによって、さらに崩壊への加速を助長させています」
憂い、嘆く賢者のように、彼は何もない静寂孤独の森に深く語りかける。一種の悲壮感を含んだ浅い夢でも見ているかのようなその声は、陰気に湿った空気の流れに乗って辺りに緩慢に響いた。
「我ら、運命に弄ばれし哀れな
彼は叫んだ。
傍から見れば彼は狂って見えるかもしれない。
そして事実、彼は狂っている。
彼が語りかけているのは木だ。どんなに強大であろうが、彼よりたかだか数千年前からここにいるだけにしか過ぎない。
しかし彼には彼女の声が聞こえていた。彼は顔を上げた。しっかりとそれは彼の鼓膜にへばりついていた。確実な粘り気を含んで。
彼は、幹に這い寄り、彼女の問いに自嘲的な笑みを浮かべながら答えた。
「――そうです、母よ。我らは甦ったのです。ええ、三度目です。我らは
彼は言いながら朽ち果てた幹の表皮に両手を当てた。湿った感触が彼の手のひらに伝わる。
彼の両手は瑞々しい苔の中へと埋められた。その瞬間、彼の脳にまたも声が響いた。それは巨木の中ほどに口を開けた大きな洞うろの中から聞こえているようだった。
(汝……血ヲ、継ギタル者カ―――)
彼は笑った。自分の探し求めていたものをついに見つけ、それを封じられていた場所から引きずり出したのに満足した、会心の、しかし凄惨な笑みに顔を歪めて。
そして巨木の幹にすがるようにして、再び叫んだ。
彼の声はもう悲観していなかった。その響きは自信に満ち溢れていた。
「そうです、我らが母よ! やはり貴女は忘れてはいなかった。そうです、私ですよ! 我ら一族は片時も貴女のことを忘れませんでした。この世に存在を得た瞬間から――」
「――――処刑台のギロチンが落とされた後も!」
一瞬、霧と雨が晴れたような気がした。
いや、全ての音が消え去って、本当の沈黙が訪れた。
この空間のみが時間という絶対から解き放たれて存在しているかのような静けさが彼を満たしていた。
彼はゆっくりと立ち上がった。
「一度は、目覚めず。一度は、成らず。しかし、三度目にして貴女の望みはかなう!」
「さあ、今一度! そして、今度こそ永遠に! 我らは貴女の名を呼びます!」
彼の叫び声と同時に永き静寂は破られ、森の木々がざわめきだす。
この森は目覚めようとしている。数百年の、時の呪縛から。
彼は霧雨の中、額に手を当て、天を仰いで哂わらっていた。全てを嘲るように。
その声は森に響き渡った。
「我らが母!
彼は目を閉じた。そして、鈍重な色の小雨の空に全てを放った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます