第九話 時は来たる
表の門を叩く音が彼を現実に引き戻した。九郎が帰ってきたのだろうか。
だが
高い垣根に連なる門の前まで行くと、やはり閂はかかっていなかった。
こんな時間に来客らしい。酔仙堂のご隠居が九郎を月見酒にでも誘いに来たのだろうか。
あの組み合わせに囲碁が入ると、朝方近くまで碁石の音が響いて眠れやしない。
酔仙堂というのは九郎行きつけの町の酒屋である。レイは九郎がいないときに部屋に忍び込んで、押入の隅に包装を半分開けたままで置いてあった稀善とかいう焼酎を飲んだことがあるが、喉がむせ返るよう苦さがしてあまり美味いとは思わなかった。
「どうぞ、開いてますよ」
彼の声に扉が開いた。
「烏丸九郎殿はおられるか……ってお前、何でここにいるんだ」
扉と扉の狭間から大きな銀髪の頭が覗いて同時に驚いた声で言った。
来客はロベルトだった。レイも驚いて言った。
「おおっ、おっさん。明日の昼に来るんじゃなかったのか」
「…家を間違えたかな。確か北の外れの道場――ってここだよな?」
門の外に出て、確認し直そうとするとする彼の袖を引っ張って敷居の内側に入らせる。
「そうだ、おっさんは間違ってねえぞ。ここは烏丸九郎の家。――で、俺の家だ」
「……? 最後のがよく分からんが……、俺はお前じゃなくて九郎殿に用事があるんだよ」
「じいさんは夕方から出かけていないぞ。帰りは夜遅くになるかもしれないってよ」
「爺さん――? お前まさか、九郎殿の孫? いやいや、それにしては全然似てねえな…、髪の色も全く違うし……」
「まーまー、細かいことはいいから」
さらに混乱して訳が分からなくなっているロベルトを無理矢理引っぱって、玄関口まで連れてくる。
「何の用事か知らないけど、じいさんに会いたいなら、ここで待ってるのが一番いいだろ。さあ、遠慮せずに入ってくれよ」
「そうだな、急ぎの用事だから明日にするわけにもいかないし…。夜遅くなっては迷惑だが、待たせてもらうか……」
その返事にレイは瞳を輝かせて、さらにたたみかける。
「じゃあ、待つ間、暇でしようがないだろう」
「まあ、暇と言えば暇だが」
「いや、と言えばじゃなくて暇だろ」
「別に。待つのには慣れている」
「いや、断じて違うね。そんなことはない。暇で暇で、暇でしょうがないだろ。その間の時間を有効利用しようとか、そういうことだよ!」
「………ほう、それで」
分かっているのにわざとじらしているようにしか思えない彼の態度に、レイは地団駄を踏む。
「だーかーらー、俺にいろいろ話聞かせてくれってことだよ!」
「まあ、そう来るのは分かっていたが」
「うわあ、こっちもそう来るとは思ってたけど、すっごい不愉快だな」
口元を引きつらせながら、棒読みで言う。ロベルトはにやつきながら、彼の肩に手を置いて、玄関の方を向かせた。
「暇つぶしだよ、暇つぶし。お前、ほんと面白いな。俺の遊びに乗っている時間があったら、早く家の中に案内してくれよ」
完全に遊ばれたことに腹を立てながら引き戸に手をかける。
――まさにその瞬間。
彼らの背後で爆音が轟いた。
「――な、なんだ?」
二人は同時に振り向く。音は遠くない。
彼らの目に真っ先に飛び込んできたのは赤く照らされた夜空だった。
とっさに目線を下ろすと、広場の中央に植えられたケヤキの大木が木の葉全てに炎をまとい、火の粉を吹き上げて燃えている。
広場一帯が赤い光に照らされて闇の中に浮かび上がっていた。さらに炎の音に混じって、複数の悲鳴がこだます。
「――野盗の襲撃か! こんな時に!」
ロベルトは小さく叫んで、門に向かって駆けだした。
「おっさん、待ってくれよ! 俺も――」
呼び止めるレイの言葉をロベルトの大声がかき消した。
「駄目だ! お前はそこに居ろ!」
彼はそのまま振り向かずに乱暴に門を開け、その奥の暗闇の中に消えていった。
レイは玄関先に呆然と突っ立って、しばらく空を焦がす炎を見ていたが、はっとして道場の方に駆けだした。
縁側に置いてあった木刀をつかむ。そして、恐怖心を振り払うかのように、闇空に向かって大声で叫んだ。
「自分の町が襲われてるっていうのに、こんな所でじっとしてられるかよ! 俺はもう、何も失いたくないんだ。俺が剣術を習ってるのは自分を守るためだけじゃない!」
彼は胸のペンダントに誓って、深い闇夜に身を投じた。
赤く過激に染まった夜空に浮かぶ下弦の月だけが、その様子を静かに見守っていた。
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