第八話 烏丸流剣術

 レイが家に帰ると九郎はいなかった。代わりに彼の机の上の和紙に達筆で置き書きがしてあった。


「なになに…急に用事ができたので、隣村に出かける、夜遅くなるかもしれないから、晩食は、勝手に作って食べろ。追伸、修行が足りん、精進せい、烏丸くろう、てか」


 彼はミミズが這ったようなその筆字を一分ほどかけて読んだ後、丸めてそばのごみ箱に投げた。


「珍しいな、こんな時間にじいさんが外出するなんて」


 大して興味なさそうに呟いて、薄暗い廊下に出て土間に向かう。


 この大陸には珍しい純和風の建築様式なので、冷たい板間の床が裸足には堪える。春とはいえ夜風はまだ肌寒い。


 土間は道場と行き来ができ、同時に台所の役割も兼ねている。


 土間の奥の障子は庭に面した渡り廊下と繋がっていて、三つある畳部屋の一番奥がレイの部屋だ。その隣が九郎の部屋で一番手前が居間になっている。


 この家にはレイの部屋にしかランプがなく、九郎の部屋や居間はろうそくと行灯あんどんなので、夜はとても暗いのだが、九郎曰くこの方が風流だし燃料費も少なくて済むので良いらしい。


 もっとも、レイは夜(と言うか昼でも)読書をする習慣はほとんどなく、道場でも暗い方が集中できるので、この状況に文句を言うのはたまに泊まりに来るジルくらいだ。


 彼は土間の鉄釜から大盛りにご飯を盛って、テーブルのざるに置いてあった魚の開きを二枚、居間の囲炉裏で炙って食べた。


 食事が済んで当面やることがなくなってしまった彼は、真っ暗な道場での日課の素振りを普段より早めにすることにした。



 剣術、即ち、両刃の大剣でなく細身の刀を武器として扱う戦闘技術は、三百年ほど前にインドラ大陸の北半分を占める大国、ナカツで確立された。


 その系統は大きく四つに分けることができる。


 まず、最も原始的なものが実際の戦の中で自然発生したとされる、対集団戦に特化した実戦剣術だ。


 次に、供給者である刀工が自分の打つ刀に合わせたスタイルを追求する過程で流派としての形を成した鍛冶屋剣術。


 そして、戦闘技術や動作に理論を取り入れ一切の無駄を省き、確固たる現代の剣術スタイルを確立した流派剣術。最後にあくまで鍛錬やスポーツとして楽しむ、型や作法を重視した竹刀剣術である。


 烏丸流剣術は、雇われて戦に出る剣客と呼ばれる傭兵集団の中で発生したとされる、独歩どっぽ毘沙門びしゃもん流の流れを汲んだ実戦剣術で、創始者はもちろん烏丸九郎である。


 多人数戦を想定し、剣の速さに重きを置いた流派であり、東国ナカツでは帝より感状を得て公認された「帝可ていか御流ごりゅう」の一つに数えられる。


 基本の壱の型と居合いを重視する弐の型があり、レイが習ったのは壱の型だ。


 九郎は、居合いは彼に向かないと見たらしく、弐の型は教えなかった。彼は最近まで弐の型があることさえ知らなかったし、居合い用の練習刀すら握ったこともほとんどない。


 壱の型は、納刀を基本の構えとする弐の型とは異なって、正眼からやや利き腕の方に刀を傾けて構える。これは実際の戦闘において一番威力を発する袈裟斬りを素早く行うための構えで、状況に応じて刀の位置を上下させる。竹刀剣術の小手や面では打ちが浅いので実戦では有効打にはなりにくい。


 彼は型にならって木刀を構える。目を閉じて、ゆっくりと大きく呼吸をする。そして暗闇の中に夢想の敵を描く。


 数は四人、得物は刀。正面に二人、背後に同じく二人、距離は前後とも二メートル弱。


 まずは大きく踏み込んで、右前方の相手の右肩から左脇に流れる袈裟斬り。


 真剣で藁や畳表を束ねたものを斬るように、腕力ではなく腰の回転と足の力で振り抜く。


 木刀とは思えない鋭い空気を裂く音と共に、眼前の架空の敵の上半身がずるりと斜めに落ちる。


 その状態からすぐさま左足を踏み込んで、二ノ太刀で二人目の胴を一文字に払う。しかしこれは浅い。


 烏丸流では竹刀剣術の素振りのように、同じ動作の反復を重要視しない。実戦において要求されるのは臨機応変な攻撃と防御であるから、烏丸流において素振りとは敵の人数、動作、思考を仮定して、それに対応する力、感覚、集中力を磨く練習を指す。


 仕留め損ねた二人目の懐に身体を反転させて潜り込み、背を向けたまま右脇の横から右手で胸に木刀を突き刺す。


 そして左手を添え、引き抜くと同時に左上方へ斜めに斬り上げて三人目の振り下ろした刀を弾く。そのまま上げた木刀を肩口に振り下ろし、左袈裟斬り。


 最後の四人目はいったん間合いを外し、再び壱の型の構えをとった後、相手の右横一文字斬りを捌き、気合いとともに左足を踏み込んで右袈裟斬り。相手は前のめりになって倒れる。


 踏み込んだ足を退き、左手で刃先を外に向けて血振りをした後、元の構えをとって大きく息をついた。


 そして残心、納刀。


 二人目を一刀で仕留められなかったのを除けば、後は上々の出来だ。


 彼はゆっくりと木刀を下ろす。ふと、横手の引き戸の間から薄い光が漏れているのに気付いた。


 木刀をさげたまま裏手の引き戸を開けて縁側に腰をかける。


 今夜の月は綺麗だ。何という名前の月だったか忘れたが、この欠けた月も悪くない。上下の先端に細雲がかかっているのも、いい感じだ。


 彼はそう思いながら懐に手を入れて、首にかけていた剣の形のペンダントを取り出した。これは彼の知らない金属でできていて、月の光を当てると表面が虹色に光るのだ。


 九郎から聞いた話ではこれは死んだ彼の父が持っていたものらしい。


 形見と呼べる品はこれしかない。なぜなら、両親は彼が幼少の頃、火事で死んだのだから。


 形あるものは全て灰となり、特殊な金属でできていたこのペンダントだけが無傷で遺った。

 彼はいつも肌身離さずつけている。


 小指ほどの剣の刀身を様々な色が泡沫うたかたの如く駆けていく。


 ほんの先ほどまで朱だったそれは蒼になり翠になる。かと思えば突然、黒い線が縦に走り、全ての色をかき消して元の金属の鉛色が現れる。


 彼は自分でも分からないくらいの時間、その移ろいを食い入るように見つめていた。

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