2

 その名を神御寮。神祇省直下に置かれた対あやかしの専門機関である。政が御所から、東都の新政府に移行したあとも、神御寮は依然、御所の北に置かれ続けた。当時の帝が東都への移転に異を唱えたこと、また、神御寮が必要とされる多くの災禍は西都を中心とした西国で起こっていたことなどが理由であったという。

 その職務は、おもに二点に限られる。

 ひとつは、化生と人間の混血児の保護。近年数は減ってきてはいるが、化生とひとの間に生まれた子どもは、外見の特異さから忌まれ、まともな暮らしをできないでいることが多い。これらを保護し、支えるのは『表向き』の神御寮の仕事である。

 今ひとつは、『裏向き』の仕事。

 ひとに害なす化生の征伐である。


「きのうのナンテン化生を見逃した件はまずかったな」


 あやかしよけのほどこされた門をくぐった蝶子が、御苑の姥桜の前で拝礼をしていると、背後から高桐が声をかけた。今登庁してきたところらしく、やはり自身の祭神の依木である榊の前で拝礼する。


「書司に確認させたが、御寮名簿にも記載があったらしい。六海の地では有名な化生らしいぞ。面倒を起こす前に退治したほうがよかったんじゃないのか」

「もしかして、わたしはそれで呼ばれたの?」

「どうだろう。俺のほうは特段呼ばれてない。宴にかまけて、化生ふたつを呼び込んだと、また蛇ノ井へびのいあたりに嫌味を言われるだろうと覚悟していたのに」

「宴にかまけてね……」


 昨晩の件は、高桐が自ら誘い込んだというほうが近いのではないかと蝶子は推測していた。高桐邸には通常、簡易なあやかしよけがかけられている。けれど、昨晩に限ってはそれがわざわざ外されていた。蝶子の思うところが伝わったらしく、高桐は肩をすくめた。


「昨晩は誤算だった。まさか蝶子に獲物を横取りされるなんて。わかっていたら、呼ばなかったさ」

「ごめん。だけど、ぼんやりしていた高桐も悪いよ」

「ふん。言うようになったな、俺の許嫁殿は」


 口端を上げて、高桐は蝶子をのぞきこむ。

高桐と蝶子は年の離れた幼馴染だ。蝶子が家と神御寮の仕事を継ぐ前は、時折見舞いにやってくる『高桐にいさん』をこうして見上げて迎えたものだった。あれから何年も経ったけれど、蝶子は同年代の少女たちと比べても身の丈が小さく、やはり高桐を見上げるような格好になってしまう。


「『蝶ちゃん』はいつになったら、おとなしく高桐家の花嫁衣装を着てくれるのだろう」


 冗談めかして、高桐の大きな手のひらが蝶子の寒さでほんのり薄紅に染まった頬に触れた。


「十八になるまでは無理よって、言ったはずだけど、『高桐にいさん』」

「十八か。三年もしたら、四十近くになってしまうぞ、俺は。いい加減どうにかしろと親がうるさいんだ」

「御愁傷様。でもわたしは引かないよ」

「まったく、頑固者が」


 高桐はぼやいたが、わりにあっさり手を引いた。この手の応酬は、幾度繰り返したかわからないし、そのたび蝶子が己を曲げることはなかったためだ。

 家が祀る祭神への拝礼は、蝶子たち神御寮の人間にとっては朝の勤めにあたる。姥桜への拝礼を済ませると、蝶子は神御寮へ通じる渡廊を歩き始めた。外では瓦斯灯が並び、西欧風の街並みに変わりつつある西都であったが、御所内では未だ千年前と変わらない朱塗りの柱が並び、有職故実にのっとった服装が定められている。


「常野蝶子が参りました」


 神御寮の門衛に告げ、入り口に掛けられている常野の名札を登庁者のところに移す。高桐も同様に札を移したが、そのあと向かう先は違った。通常の登庁日である高桐は執務室に行けばよかったが、呼び出しを受けた蝶子は御寮官室に先に立ち寄らなければならない。今日も早朝からお偉方が集って、定例の御寮会議を開いているはずだった。


「じゃあな、蝶子。武運を祈るぞ」


 自然足取りの重くなった蝶子に愉快そうに言って、高桐は蝶子の肩を叩いた。

こうした呼び出しはこれまでも何度かあったが、いつもろくなことを言われないので気が塞がってしまう。とはいえ、蝶子は一寮員に過ぎず、御寮会議は神御寮の方針その他を決定する寮内の最高機関であるため、応じないわけにもいかない。

 御寮院室の襖の前に立つと、蝶子は努めて思い切りよく顔を上げた。


「常野蝶子が参りました」

「御寮官、常野様が参りましたよ」


 告げると、襖のそばに控えていた小姓が中へ声をかける。通せ、と返事が返ったのだろう。腰を落として小姓の子鼠が襖を開いた。とたん、円卓で話し込んでいた面々が戸口の蝶子へ一斉に視線を上げる。どれも好意的とは言い難く、うちひとり――鳥野辺とりのべ御寮官に至ってはあからさまに舌打ちをしたほどだ。


「やあやあ、やってきたね、蝶子くん」


 重い沈黙をひとり意に介した風もなく、座る男のひとりが声をかけた。

 神御寮の御寮官筆頭で蛇ノ井という。神御寮では珍しい、糊の張った襯衣シャツに臙脂色の蝶領帯ネクタイを結んだ洋装姿で、もとは畳だった御寮員室に、絨毯を敷いたり、円卓を置いたりしているのは、もっぱら蛇ノ井の趣味である。


「まあ、お座りなさい。子鼠くん、蝶子くんに茶と菓子を」

「蛇ノ井御寮官」


 それを隣に座した鳥野辺が低い声音で遮った。蛇ノ井に続く御寮官第二席を務める男である。


「なんです、鳥野辺御寮官」

「常野ごときに茶を出す必要はない。そもそも、呼び出してから一刻以上も待たせるとは何事ぞ。亀山田かめやまだ御寮官、詮議の続きを」

「え、えー、それでは本日の次の議題でございますが……」


 鳥野辺に促された御寮官第三席の亀山田が、短い首をすぼめて、のろのろと議案の書かれた紙を開いた。


「え、えー、昨晩、高桐邸の予祝の宴にて、御寮の許可なく、常野蝶子が化生を退治したとの由……」

「未遂です」


 やはり来たか、と胸中で舌打ちをしつつ、蝶子は即座に訂正した。


「え、えー、未遂……でしたか」

「もとより、高桐邸へは私用で参っただけ。高桐がわたくしの許嫁であるのは皆さまご存じのことでしょう。昨晩の予祝は、わたくしも高桐に招かれて参りました」

「そこに偶然化生が混ざっていたと?」

「はい。しばらくうかがっておりましたが、蛙化生が一座の踊り子を食べようとしたため、刀を抜きました。結局は取り逃がしてしまいましたが」

「蛙化生の行方は?」

「……東の方角へ向かいましたが、定かでは」

「定かでは、とな!」


 言葉尻を取って、鳥野辺が鼻を鳴らした。


「見ていた者の話では、仲間に舞の女がいたらしいじゃないか。しかも、書司の調べでは名のあるナンテン化生だ」

「さあ、どうだったでしょう」

「おまえがヒネリで高値をつけて買ったと聞いたぞ!」


 鳥野辺が円卓を叩く。視界端で、蛇ノ井がにやにやと傍観者の態で茶を啜っているのが見えた。よくご存じで、と蝶子は少女らしい仕草で目を伏せる。


「仰るとおり、ナンテン化生を買ったことは事実です。ただそれは、わたくし個人が彼女の舞に敬意を表したまでのこと。今回の件と何ら関わりはありません」

「いい加減にしろ、常野」

「え、えー、鳥野辺御寮官。少し落ち着かれて……」

「ナンテン化生と何を話した? よもや知っていて逃がしたわけではあるまいな? あれらは高桐、ひいては神御寮へ放たれた刺客の可能性がある。気付いた上で逃がしたのなら、何らかの密約が交わされたと考え、懲罰の対象にするぞ」

「まあまあ、鳥野辺御寮官。そう興奮されず。また頭の血管がぷっつんしちゃいますよう」


 鳥野辺の筋の浮いた額を指して、蛇ノ井がくすくすと笑い出す。


「第一私らが朝から話し合っていたのは、『そっち』じゃないでしょうに」

「む……」


 鳥野辺が口をつぐんだ隙に、蛇ノ井が畳みかけた。


「蝶子くん。下御森神社のことはわかるね?」

「西国のあやかしの総取り締まりであると」

「そう、いわばあやかしによるあやかしの取り締まり組織。うちとはそこがちょっと違う。その下御森神社が、近頃やたら活発に動いているらしい。具体的にいうと、うちの人間がもう三人もやられてしまった」

「……殺されたということですか」


 それは蝶子も初耳だった。

 まあね、と焼き菓子を細い指で摘まんで、蛇ノ井がうなずいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る