譲れないもの

 時は少し戻る。


 ドラゴンに向かうホークたちを見送った後、バルトは子供たちに与える食事の準備にかかろうとしていた。

 金があれば景気よく買い、なければ奪って食らうのが盗賊の生き様だ。バルトはこの歳になるまで料理のひとつもしたことはなかった。

 だからロクなものは作れないが、それでも子供たちは腹を空かす。

 彼らを育てていたのはこの世で一番いい母親だったのだ。そんなにいい父親にはなれないかもしれないが、バルトはせめて真似ぐらいはしなければと思う。

 どこぞから奪ってきた乾いた食い物ではなく、ちゃんと自分で手を動かして作った食事を。

 彼らを罪の味で染めてはいけない。だからもう、食い物を奪ってきたりはしない。

 もう自分の“烙印”を使って盗みの仕事はするまい。これは、子供たちを守るために使うチカラだ。

「……老いたな、俺も」

 無謀な戦いに駆け出して行ったホークたちが勝てるかどうかはわからない。負けるかもしれないし、もしかしたら勝つかもしれない。

 ホーク一人なら馬鹿なだけだと思うが、彼の周囲にいた女たちは、バルトの勘が決して相手してはいけないと告げるようなものばかりだった。

 少なくともバルトは人物に対する勘は確かなものがある。

 直接片鱗を見せられたメイの力はもちろんのこと、ロータスやファルネリアも只者でなく、特にイレーネに対しては魔族であることすら勘付いていた。

 そんな女たちが異を唱えもせずにホークとともに戦おうとしているなら、あのバケモノを殺すという冗談のような真似も不可能ではないかもしれない。

 そして、たとえ負けるとしても……ルクラードが今日で終わるとしても、それでやることは変わらない。

 食事を作り、子供たちを寝かしつける。そして侵入者が来ないように見張り続ける。それだけだ。

 動かない足では、狭く暗く襲撃者と出会う危険もある下水道から子供たちを逃がすことなんてできるはずもない。正面から出ていくなんてもっと無理だ。

 逃げられない以上、もしもドラゴンによってこの町が終わるなら、運命だ。

 あの女を運命が死なせたように、バルトと子供たちも運命は見逃さなかったというだけのことだ。

 だが、それならそれで最後までバルトは父親として生きようと思う。

 あの女がくれた家族を守ろう。

 彼女が死んでまだ日が浅いのに、子供たちはそれぞれ気丈に、わがままも言わずに助け合っている。

 錯乱して泣き叫び、前後もなく逃げ出す奴だっているドラゴンの恐怖の中、互いを見捨てずに、バルトを頼ってここにいる。

 そんな彼らの隣にいるだけで、バルトは今までの人生への後悔と、この世界への感謝に包まれる。

 今までバルトが奪い、見捨て、蹴りつけてきた哀れな盗みの被害者たちの背後にも、こういう子供たちはいたのだろう、という後悔。

 そして、それでもこんな愛しく尊い存在に触れ、理解することを許されたという感謝。

 暴力と姦計、虚栄と嘲笑に彩られたハイアレスの裏通りになど、もはや戻れるはずもなかった。

 野望に燃え、危険と舞い、そして欲望と快楽に基づいて何もかもを決める。そんな今までの生き方には、もう何の魅力も感じない。

 ただ、守りたい。

 これ以上の不幸なんて、無垢な小さい子供たちには与えられていいはずがないだろう。

 ホークのギラギラした冒険心は少し羨ましくも感じたが、それを手伝うより、自分しか守れないものを守るべきだ。

 それがこの時代、この場所に自分がいる意味というものだろう。

 大きすぎる賭けをする人生の季節はもう過ぎた。それは若いホークたちに任せよう。

 そして彼らが奇跡を成し得たのなら、「同類」としてほんの少しだけその事を羨み、「親」として喜んでやろう。

 薄暗い夕闇に静かに沈んでいく下町で、バルトは寸時、そんな物思いに耽り……そして。


「よろしいですかな。バルトさん……たしかそう呼ばれていましたね?」

「!!」


 忽然と。

 路地裏の影から滲み出るように姿を現した異形の人影に、バルトは総毛立って身構える。

 バルトは腐っても大陸の半分を駆け巡って盗み回った盗賊。アンデッドの類も多く見たし、魔族だって見たのは一度や二度ではない。バケモノには慣れていた。

 そう。慣れていた。だからわかってしまった。

 目の前に現れた蟻の頭を持つ白衣のバケモノに、今の自分には、打つ手がない。

 圧倒的なまでの魔力と多くの安全策を身に付けたソレに、“烙印”の一発芸は通用しない。

 だからこそ彼は目の前に現れた。……ということが、わかってしまう。

「……これでも忙しい身だ。用件があるなら手短に頼むぜ」

「なに、少し取引がしたいのです。申し遅れました。私は見ての通りの魔族、ジオリードと申します。早速で申し訳ないのですが……一仕事お願いできますかな」

「……取引……と来たか」

「ええ取引ですよ。魔族というと乱暴者が多いものとお思いでしょうが、私はあまりそういうのは好きませんのでね」

 蟻頭の魔族は耳障りな声で饒舌に語り掛ける。

「報酬はお望みのまま。金貨で100でも200でも。簡単なお仕事ですよ」

「足の利かねえ中年オヤジになかなか気前がいいな」

「ええ。あなたにしかできない仕事でしょうからね。……あのホークという少年。あなたなら殺せますね?」

「……何だと?」

「これでも私、感覚がとても鋭いものでね。……聞こえてしまったのですよ。ベルグレプスの龍を殺しに行ったあの少年。イレーネも一目置き、ガルケリウスやギストザークをも殺したというあの少年が、一番の不確定要素」

「……ギストザークだと」

 バルトはその名に聞き覚えがあった。

 バルトの足を使えなくした呪い。それはギストザークという魔族のもとに、徒党を組んで盗みに行った時に受けたものだ。

 結局、9人もの手練れの盗賊たちは、その時にほぼ全滅した。バルトも死ななかったのが奇跡のようなものだった。

 それをホークが倒したというのか。

「私の視たところ、彼は筋力も魔力も決して常人以上ではない……しかし、イレーネは確実に彼を立てている。その秘密……あなたはご存知とお見受けします」

「……さあな」

「言葉遊びをしている時間は、残念ながらあまりないのです。ベルグレプスの龍は他の連中になら負けることはないでしょう。魔族ですら、アレを倒すことは簡単にはできない。ですがイレーネは……彼を重んじている。つまり、やれるのでしょう」

「仮に俺がホークと同じ力を持っているとして、だ。それなら俺があのドラゴンに勝てるって理屈にならねえか? 理屈っぽいアンタには似つかわしくねえ飛躍じゃねえか。俺がそんな大層なオヤジに見えるかい?」

 バルトは適当に会話をしながら、逃げ道を探す。

 どうやれば、この魔族の興味を自分から切り離せる?

 子供たちの安全を確保し、おかしな「仕事」なんかできないと納得させ、そして安全圏に逃げおおせることはできないのか。

 だが、蟻魔族はそんな彼のささやかな駆け引きを断ち切る。

「実のところね。重要なのは『あなたが彼を殺す』ということなのです。手段は問いませんよ。……言ったでしょう。私は感覚が鋭いんです。彼が仲間に語ったあなたとの関係も、何もかも私は聞こえていましたよ。……その上で、あなたに『彼を殺せ』と私は言っているんですよ。仮に特別なチカラなんかなくても、親しいあなたならできるでしょう?」

「……こりゃまた、品のない結論に来たもんだな」

「正直ね。私はああいう輩が好きではない。……私が見たいのは横から水を差すような邪道ではない。本物の究極が見たいわけです。この国のジェイナスのようなね」

 カチカチカチ、と蟻魔族はよくわからない音を立てる。苛立っているのか、とバルトはなんとなく思った。

 この蟻は理屈をこねているが、結局のところホークが気に食わないのだろう。イレーネという魔族を挟んだ男女の感情なのか、あるいは気位が高いのをホークに馬鹿にされたか。

 奴は生意気だからどう恨まれるか分かったものじゃないな、とバルトは苦笑する。

「だがな。俺はあいつがどれだけのウデなのか知らねえよ。あの歳のガキはちょっと見ねえ間に別人になるもんだ。それも魔族を何人も殺って山のようなドラゴンまで相手にしようっていうなら、俺の想像できないトコまで行ってるとしか思えねえ。それに引きかえ、俺は足が呪いで駄目になってる。なんというか……はっきり言うが、仮にやるとしたって成功率はとんでもなく低い話だ。大金くれたって割には合わねえな」

「ですが、やってもらいましょう。……あなた、のらりくらりとしていれば凌げると思っているんでしょうね」

 パキ、とジオリードは指を鳴らす。

 死んだ目をした町の住民たちが、バルトの子供たちを捕らえ、吊り上げていた。

「父ちゃん……!」

「お父さん」

「うう……うぐ、うえぇっ……」

 幼い子供たちは、助けを求めることも泣き叫ぶこともせず、ただバルトを呼んで目で訴える。

「……てめえ」

「私、他生物の支配魔術が専攻でしてね。まあネクロマンシーのもう少し綺麗な奴と理解してもらえば結構。ドラゴンを操る魔術も私が開発したものです。……それでですね、私が術をお子さんに使えば、一生涯私の命令なしでは小便のひとつもできない人形になります。この木偶たちのようにね。……改めてお聞きしましょうか、バルトさん」

 蟻魔族は少し首を傾け、バルトにもう一度迫った。


「やってくれますね?」


       ◇◇◇


 ホークの心臓に、バルトのナイフは突き刺さっている。

 致命傷だ。

 バルトがホークを殺す一撃に、心臓ひと突きを選んだのは、ひとつには“烙印”の発動距離に自信がなかったことがある。

 足が駄目になってから、あまり遠い距離で“烙印”を使ったことがない。だから、首を刎ねるとか脳天を割るといった、直接ナイフを振るような長距離移動を前提とした動きはできなかった。

 突進して勢いのまま刺すより、武器を縦横に振る動きの方が僅かとはいえ行動力が必要になる。その境目をバルトはホークほどには明確に感じ取れないのだった。

 それと、死体を無惨な形にはしたくなかったという理由もある。

 斬首は元より、頭部を直接攻撃して殺すのは、知っている相手の死に方としてはむごい。

 どうせなら少しでも綺麗に死なせてやりたかった。

 そして。

「すまねえ」

 彼の目の前に立って残ったのは、ケジメ。

 結局、バルトは「曲げた」。

 いつか自分で酒を飲みながら語ったこと。

 悪党とは正義の反対ではなく、自分のやっていいことの基準を自分で決める者。

 その上で、自分自身の美学によって、譲れない線を決めて貫く……それこそが「骨のある悪党」という定義だった。

 バルトは結局、子供のために「曲げた」。

 譲れないはずの線を譲り、やってはいけないはずの線を踏み越えて、ホークを殺した。

 自分の定めた価値観にすら背いたならば、報いを受けるべきだろう。


 ホークが胸から血を吹き、よろめく。

 彼の左右にいたメイとファルネリアが、起きたことに驚愕し、混乱し……ファルネリアはへたりこみ、メイは凶悪な殺気を爆発させる。

 バルトは逃げられない。足は動かず、そしてもう“烙印”は力を発揮できない。

 次の瞬間、バルトはメイかファルネリア、あるいは他の誰かに殺されるだろう。

 それが結局、自分を曲げた三流の悪党にはお似合いだ。

 ホークは死後の世界でバルトを許すだろうか。許さないだろうか。

 バルトはそう考えながら、命が失われてゆくホークを見つめる。


       ◇◇◇


「ジオリード」

「……イレーネ。はて、私に御用でしょうか。私は見物人として」

「儂の目を逃れられると思うたか。……かの餓鬼どもに手を出したな」

「……まさか」

「お前のやりそうなことと思うておった。保険に感応術をかけておけば、まんまと尻尾を出しおって。……物わかりのよさそうな態度で誤魔化し、陰湿に背を狙う。お前らしい卑劣さと称えてやろうぞ」

 ジオリードは眼前に現れた赤紫の魔族が、静かな怒りにふつふつと燃えているのを敏感に感じ取っていた。

 その敏感さこそがアスラゲイトという巨大な魔族連合において各魔族の間を取り持つ潤滑油となり、時には使い走りのようにさえ扱われながらも、甘い汁を啜るに至れた原動力だったのだが。

「じゃが儂に繋がる縁と知りながら手を出したのは愚かとしか言いようがないのう」

「イレーネ、そう怒ることはないでしょう。どうせ人など百年と保ちはしません。多少感情的になって弄んだところで、眷属と定めたわけでもない輩なら、礼は失せぬものと」

「長い事会わんでいたおかげで忘れたようじゃのう。儂が従うのは法でも礼儀でもないということを」

「ほんの少し顔を合わせただけの子供に、そんなに入れ込むほどのことですか!」

 後ずさるジオリードに、しかしイレーネは白い龍翼を広げて迫る。

「もはや四の五のは言わぬ。お前が気に食わん。所詮は虫じゃな。不愉快なだけの小物め」

「ひ、ひぃぃっ!?」

 大きな蟻頭を掴み、その頭に直接、金属でさえ腐り落ちる猛烈な魔毒を送り込む。

 そして、送り込みながら封印術を施し、その肉体を変容させていく。

「グキィィィィィ!」

「そうじゃ。虫のように鳴け。どうせこの世で最後に奏でる声じゃ」

 白い服が腐って枯れ落ち、首から下の肉が腐れ落ちて紫の液になり、残った人骨が収縮して蟻頭に吸い込まれるように消えていく。

 その蟻頭もイレーネの手の中で小さく縮んでいき、最後には毒々しく脈打つ紫の楕円の石になる。

「……生き返られても面倒じゃからな。お前が弱くて助かったぞジオリード。ガルケリウスではこうはいかんかったからな。……いずれスペアの肉体を処分してから砕いてやろう」

 そして、翼をしまってから蒼い闇の空を見る。

「……間に合わなんだか……?」


       ◇◇◇


「や……め、ろ……」

「……ホークさんっ!?」

 ホークは血を吹く胸を押さえ、よろけながら、メイがバルトに襲い掛かろうとするのを手で制する。

 そしてバルトに目を合わせ、フラつきながら微笑む。

「この野郎。カッコ悪い真似……しやがって……」

「……ホーク、お前」

「……やっぱお前は、そういうのの方が似合ってんだよ……似合っててくれよ。お前がどう思おうと、お前は俺の親父みたいなもんなんだから……」

 盗賊として、悪党としての恰好のいい姿を捨てて、結局格好悪く幸せになっていたバルト。

 ホークは、そんな彼を責める気にはなれない。

 そんな彼が苦悩して、自分を切り捨てたことを、罵る気にはなれない。

 それはホークを裏切ったのではなく、ホークはもう彼の被保護者ではないと認めたことでもあるのだろうから。

 そして、ここでバルトがメイや仲間たちに殺されてしまうような、どうしようもない結末があってはならない。

 あってたまるか。


 そんなくだらない終わりであってたまるか。


「……譲って、たまるかよ……!!」


 ホークは胸を押さえた手に、集中する。

 そうだ。あるだろう。

 その腕には、その手には、最後の切り札が。

 奇跡だったら起こせるだろう。


 血が足りなくなってきた頭で、ホークは天からの光を浴びる様を幻視して。


「……へっ。……我ながら……本当、ふざけてるよな」

 極度の疲労で動かなくなった腕と一緒に、バルトのナイフを、カラン、と下に落とす。


 胸の傷は消失していた。

 ……切り裂かれたもの、溢れたものをすら、元の形に「再配置リプレイス」する。

 そんなことすらできるのだ、と、ホークが理解した瞬間だった。

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