ゼクス

 中央塔の大広間は、未だ大半が真っ白な土埃に覆われていた。城主の席と長机を中心に、人が寄り集まるほどの範囲だけは、どうにか復旧させたところだ。

 城主の背には、アインスとフィーアを除く城の住人が顔を揃えていた。

 城の外で十年を経たセレンとディースが、城主に近い右手の席に着いている。

 身形を整えたレイズはその向かいに座った。

 皆は今、帰還せぬ者と招かれざる者を待っている。

 レイズは、隠れるように佇むノインにに目を遣った。泣き腫らした目はまだ赤い。帰還した二人に向かって、真っ先に訊きたいことがある筈だ。なのに、堪えて口を噤んでいる。

 混乱と不安の大半を、状況復帰に費やすことで避けている。それはレイズも同じだ。セレンが帰還して半日近くになるが、レイズもまだ彼らを問い質していない。

 凍結した十年で吹き込んだ塵埃は、城の至る所に、何より自身に積み固まっていた。

 レイズは柄にもなく気後れしている。落ち着いて二人を眺めるに、年月が人に刻むものを改めて意識した。独りだけ子供のまま取り残されたような気分だった。


 バフェットと三人の魔術師は、中央塔への道すがら、城の端々に忙しなく目を走らせた。

 探しているのは、ワーデンラントやサハルに及ぶ発展の種。正確には、祖国の重鎮を納得させ得る、目に見える証拠だ。

 だが、土埃に吹き荒らされた城内に、彼らは早くも失望した。それが閉じ損ねた窓のせいだと知らないのは、せんないことだ。

 平静な振る舞いこそが自分を優位に見せるのだと確信するバフェットは、皆に対して無表情を保っていた。

 それだけに、抑圧された反動は大きかった。押し開かれた大扉の向こう、広大な広間の壁一面を埋める魔導書を前にして、バフェットは期待の嘆息を堪えられなかった。

 無論、十年前のセレンが、それらを愚にも付かないと評したとことは知る由もない。


 躊躇うレイズが未だ二人に問い質す機を見つけられないまま、大広間に新たな客が到着した。フィーアに先導された新顔は五人だ。

 レイズは驚いて腰を浮かせた。縮れた髪は色が抜け、記憶よりも肥え太ってはいるが、中央で虚勢を張るその男を忘れる筈がない。

 書架を見渡し呆然とするバフェットも、その一瞬後にはレイズに気付いて血の気をなくした。彼に続く三人の魔術師も同様だ。

 バフェットは想定してしかるべきだった。凱旋に浮かれ、レイズ・バレンシアが生存する可能性を失念していた。

 バフェットにも、マグナフォルツの正魔術院にとっても、レイズは十年前に死んでいた。記憶も記録も、敢えて片隅に追い遣られていた。

 バフェットに従う三人の魔術師も魔女を知る世代だ。バフェットの醜聞を盲信する訳ではないが、その後の魔女の悪名の方が遥かに印象強い。被害者、あるいは加害者でもある。

 辛うじて席を立つことだけは堪えたものの、レイズは吐き捨てるように舌打ちして、かつての師から目を背けた。逆恨みと分かっていても、入城を許可したフィーアが腹立たしかった。

 レイズは息を整えて、無意識に目が行かぬよう堪えた。バフェットを意識していると、城主にだけは覚られたくなかった。

 一方、バフェットは、魔女など過去の瑕疵に過ぎないと、必死で自分に言い聞かせた。頬は抑えようもなく引き攣っていたが、彼はその情動を押さえ込んだ。

 今は魔女如きに拘わっている場合ではない。マグナフォルツ国威と自身の経歴、魔術師協会の後ろ盾と云う、精神的な余裕がバフェットを支えた。

 バフェットが席に着くと、フィーアは城主に彼の名を告げて紹介した。

 城主の背に立つ使用人に相対して、対峙するバフェットの背には、正魔術院の三人と正道監査官が立っている。

 ヒメネスの存在を意識すれば、悠然と席に着くセレンやサハルの王族に対しても、バフェットは平静を保つことができた。

 加えて、彼は城主に対して強い切り札を持っていた。

「ようこそ、アンブラ師。魔術師の方々。貴方らを招いたつもりはないが、歓迎しよう」

 今のバフェットには、その皮肉さえ滑稽に思えた。

「会えて光栄だ、クラウス・カイエン殿」

 バフェットは、入念に用意した言葉で城主に応えた。


 バフェットの期待した効果は、レイズの表情を見れば分かった。

「貴公がリースタンを出奔したのは一三三三年。実に一〇〇年以上前ではあるが、伝説と呼ぶには短いな。どうやってこの城を簒奪したのか、ぜひ教えて戴きたいものだ」

 バフェットの言葉に、レイズは城主を振り返り、城の住人を見渡した。彼が伝説の魔術師その人でないことは最初に聞いた。だが、下界の血肉を与えられたのは初めてだ。

 もっとも、バフェットの期待に応えたのもまた、レイズひとりだった。

 城主の名を告げられたセレンとディースは、微かに顔を見合わせただけだった。恐らく城の外の年月で、その名を突き止めていたに違いない。

「よくご存じのようだが、簒奪とは人聞きが悪い。この城は正統に譲り受けたものだ」

 クラウスは変わらず泰然として、バフェットに微笑んで見せた。

「貴公が工房を捨てた頃、この城は氷漬けだった筈だ。一三五一年まで、この城が開かれたと云う記録はない。貴公は誰に譲り受けたと言うのか」

 記録を連ねているだけだが、バフェットはあくまで理詰めで追い込んでいるつもりだ。芯のない理屈を捏ねるバフェットに対して、クラウスはむしろ真摯に答えた。

「フースークだよ」

 バフェットには、それが戯言に聞こえたようだ。当然ではある。

 一瞬、呆けたように言葉を失ったバフェットは、頬に血を昇らせた。

「この期に及んで」

 その戯言こそが、魔術師協会にヒメネスら理性派を台頭させた原因だ。

 根深い伝承や偽りの記録が、今も魔術師協会を苛んでいる。フースークの名は、汎歴四〇〇余年より稼働する魔術師目録の唯一の瑕疵だ。

 思い立ち、バフェットは話の道筋を協会の思惟に寄せることにした。それは、バフェットが祖国の利益のためでなく、汎国家的な立場にあると示すことに他ならない。

「無支配地帯に於いて、出自の不明な魔導の品があれば、すべからく協会の管理下に置かれねばならない、分かるかね?」

 セレンとディースは沈黙を保ったまま、敢えて口を挿もうとしない。それこそが、正道にない者の証だ。

「ましてや貴公も目録に名を刻まれた魔術師であれば、協会の法に従うのが道理だ」

 バフェットは自らを公的な立場に置いて、城主を断罪した。

「私が一〇〇年前の魔術師でも?」

「当然だ」

「ならば、目録の最初に刻まれた者にも道理があると云うことだ」

 バフェットは首を絞められたかのように喉を詰まらせた。レイズの含み笑いに、怒りで視界が暗くなる。

「貴公が詭弁を振り翳そうと、事実は揺るがない」

 バフェットは遂に背中のヒメネスを振り返った。

「そうだろう、正道監査官」

 皆の目線が初めて背後に振れた。佇む黒衣の頭巾の縁が、微かに動いた。

「如何にも、アンブラ師」

 問われたヒメネスが応える。

「この城の出自にクラウス・カイエンの名はない、そうだな」

「如何にも、アンブラ師」

「拠ってこの城は協会の管理下に置かれ、我々はその代行としてこの城を保護する」

「いいえ、アンブラ師」

 バフェットは勢いで頷いたものの、我に返ってヒメネスを振り返った。

「この城の主はフースークです。城主は一時の代行に過ぎない」

 ヒメネスはバフェットから目を逸らし、城主と城の一団を見た。

「フースークは目録の最初に刻まれた魔術師です。よってここは既に協会の管理下にある。マグナフォルツの保護は必要ありません」

 そう言って、ヒメネスは目深に被った頭巾を払った。

 ノインの息を吸い込む音が、悲鳴のように高く響いた。

 皆がその精悍な青年の顔に、かつての面影を見い出すには、少々時間を要した。

「サイグラム?」

 レイズの呟きに怪訝な顔をしたのは、バフェットひとりだった。

 騒めく城の住人とヒメネスの間を、バフェットの視線が往復する。何が起きたのか、理解できない。

「正道監査官は出自を隠すために偽名を使うのです。ブラウンシュタインの協会本部では、サイグラム・アベルと云う名でした」

 アステリアナ使節団の帰還者だ。バフェットの脳裏に、ようやくその名が浮んだ。

 意固地なブラウンシュタインでは、リースタンやサハルのような革新は起きなかった。帰還した者の名も、その後を辿れるものはな何もかった。敢えて禁忌に触れた者に、地位など与える筈がなかった。

 状況が身に沁むに連れ、バフェットの血の気は急速に失せた。

 ヒメネスことサイグラムは、クラウスを見て微笑んだ。

「貴方の身元を探すのは苦労しました。目録には、一〇〇歳を越える魔術師が意外と多いのです」

 柔らかだった少年の頬は硬く削げ、目元にはこの十年を耐えた皺が刻まれていた。黄金色の髪は色が落ち、白銀に近く褪せている。

「騙したのか監査官。我々を、協会を裏切るつもりか」

 バフェットはまだ理解を拒んでいた。正道監査官が、魔術師協会の最右派が、最も忌み嫌う魔術師を肯定する筈がない。

「騙していたのは僕自身、裏切ったのは自分自身です」

 サイグラムが応えて言った。

 ようやく外した仮面の跡に、どう表情を作って良いのか分からない。そんな顔をしていた。

「工房から外された僕には、お二人のように学んだものを活かす場所がなかった」

 セレンとディースに目を遣って言う。無論、最初から二人とは通じていた。

「家職を継いで邪道を裁く他、ここに繋がる道がなかったのです」

 サイグラムは、表情をなくしたバフェットを振り返った。

「アンブラ師、理性派がこの城を忌むのは本当のことだ。この城の逸話を剥いで出自を確かにする役目は、確かに本当のことだった」

 滔々と語るサイグラムに、バフェットは混乱した。

 本国に見放されるかも知れないバフェットの縁は、もはや協会の他にない。ヒメネスが保証人となってこの城の権利を自身に託す、その言葉しか訊くことはできなかった。

「だが、僕は違う」

 動揺は三人の魔術師にも波及していた。

 彼らの地位は、すべてバフェットの成功に担保されていた。不安を抱きながらも柵で上手く立ち回れず、師の逆転に賭けていたのだ。今、その屋台骨が大きく揺らいている。

「僕の望みはこの城の封を解き、再び君に会うこと。ただそれだけだった」

 サイグラムが縋るように目で見つめる先で、ノインが泣き崩れた。顔を覆って、声を上げて泣いた。

 不意に、レイズが肩を震わせた。堪え切れずに笑い出した。

 バフェットは呆然としたまま、ただ声に反応して振り返った。

「可哀想なお師匠さま、初めて貴方に同情するわ」

 レイズの言葉が毒のように這い登り、バフェットの頬に血の気が戻った。戻り過ぎて、赤黒く歪んだ。

「魔女め、これもお前の差し金か」

「アンブラ」

 クラウスの声が低く響いた。それは鞭打つ音よりも強く、皆を凍り付かせた。

「私の友人を貶めるのは慎んで戴こう」

 その目に圧され、バフェットは首を絞められたように喘いだ。

 そのまま、クラウスはレイズに目線を移した。

「君もだレイズ。人を嗤うな。私にそんな顔を見せないでくれ。お願いだ」

 まるで頬を打たれたように、レイズは真蒼になって俯いた。普段なら舌打ちを返していたであろう彼女はなく、少女のように慄いていた。

「ほうら見ろ。やっぱり修羅場の只中じゃないか」

 その間の抜けた呟きは、思いの外、広間に大きく響いた。


「言っただろう。ことが終わるまで茶でも飲んで待っていれば」

 運悪く沈黙の間隙に嵌ってしまい、皆の視線が一斉に集まった。洩らした声が所在なげに小さくなる。

「良かったって」

「申し訳ありません。茶器は一式この中でございます」

 扉の前でアインスが言った。傍らに立つ青年は、十年前と変わらぬ惚けた顔をしている。

「ゼクス」

 フィーアの表情が束の間、動いた。

 扉を潜るゼクスの後ろに、長身の少女が付き従うのを見て、その表情は掻き消えた。二人の間には何故か長い鎖が揺れている。

 フィーアは微かに頬を引き攣らせ、何事か小さく呟いた。

「ゼノ、ね。ここしばらくはそう名乗ってた」

「それ、前にも使ってなかったかい? 意外と種類がないよね」

 ゼノの言葉に、ジーベンもしくはアハトが呟いた。

 双子に顰め面をして見せながら、ゼノはぶらぶらと長机に歩いて行く。

 続くアリスは初見の人々に緊張し、見知った父の姿を見つけてさらに緊張した。

「ゼクス、いや、ゼノ。貴方に訊きたいことがある」

 サイグラムが声を上げ、掴み掛らんばかりにゼノに詰め寄った。

 アリスがゼノを庇って立った。

 サイグラムは鼻先に掌底を突き付けられ、身動きも取れずに立ち竦んだ。

「セレン」

 アリスを小突いて脇に退かせ、ゼノは呆れたようにアリスの父を呼んだ。

「どうやったら、こんなに凶暴に育つんだ」

 セレンが顔を顰めた。隣席のディースが大声で笑う。我に返ったアリスの全身から汗が噴き出した。

 毒気を失ったサイグラムは、所在なく立ち尽くすしかなかった。

「おまえは」

 半ば溶けたように椅子にへばり付いていたバフェットがゼノを見上げる。ゼノは驚いたように目を剥いてみせた。

「ああ、俺を追い掛けてた人だな。城に入れて良かったじゃないか」

 気安く笑い掛け、握手の手を差し伸べる。表情を変えないまま、アリスを振り返った。

「こいつは殴ってよし」

 バフェットは逃げ出すように腰を上げた。差し伸べたゼノの手を振り払う。

 その腕に何か引っ掛かった。紙が裂けるような音がした瞬間、バフェットの意識は途切れて消えた。

 鏡のような彫像と化したバフェットを眺めて、ゼノは指先で千切れた認証を摘んで放り出した。

「気を付けろって言われなかったか?」

 ぽかんと口を開けたまま立ち竦む三人の魔術師に向かって、ゼノはバフェットの彫像を突き飛ばした。

「邪魔だから持って帰って」

 言われて、三人は倒れ掛かるバフェットを反射的に受け止めた。思わぬ重さに床の際まで引き摺られた。助けを求めるように辺りを見回したが、応える者はない。

「早くしないと、君らの兵隊が引き揚げるぞ」

 三人は口々に、自分には何ら非がなく、何故このような目に合うのかと嘆き始めた。

 ゼノはただ、追い払うようにひらひらと手を振っただけだった。

 彫像を引き摺って行こうとした三人に向かって、フュンフが声を掛けた。

「駄目ですよ引き摺っちゃ、床に傷が付く。持ち上げて、そう。ほら、そこ、ぶつけないように。頭がもげちゃっても知らないからね」

 フュンフはゼノに片目を閉じて、三人を追い立てて行った。

「大変だな、あの人たちも」

 他人事のように呟いて、ゼノはバフェットの腰かけていた椅子に陣取った。

 誰一人、口を挿まなかった。事情の分からないアリスは元より、みな呆気に取られて喋れなかった。

 ゼノは椅子の背に身体を預け、皆を見渡した。

「話をしようか。このままじゃ、可愛げもなくでかくなった奴がまた怒り出しかねないしな」

 サイグラムは不貞腐れたようにゼノを睨みながら、ディースの隣の席を引いた。

「貴方は、どこに居たんですか」

 その問いにゼノが首を傾ける。

「この十年か、それとも君らの今日か?」

 ゼノは視界の隅にアインスを捉えて、呑気に手を振った。城の執事は頷いて、湯気の立つ急須を掲げた。

 アインスが茶器を揃え始めると、城の住人は観念した。手近な椅子や机を長机の近くに寄せ集め、めいめい腰を落ち着ける。

 気づけばアリスもフィーアに椅子を勧められ、妙に緊張しながら腰掛けた。

 椅子の背に手を掛けたアリスの腕輪に気付いて、ゼノはセレンに鎖を振って見せた。

「君の娘が手錠の鍵をなくしたおかげで、こんな有様だ」

「ちが」

 アリスが焦る。目を合わせようとしない父に弁解のしようもなく、言葉の続きが言えなかった。事実、半分は自分のせいだ。

 ゼノの隣にいる。それを見られることが、恥ずかしくて居た堪れない。変な汗をかくアリスは、それがセレンも同様であることを知らなかった。

 ゼノは面倒くさそうに鼻を鳴らして、皆を見渡した。

「それじゃあ、話を始めようか」


 ゼノの宣言を隣で聞いて、アリスは見慣れぬ人々を見渡した。

 長椅子の遠い正面には、城主クラウス・カイエンがいる。黒と銀の髭を湛えた偉丈夫だ。彼は伝説の魔術師本人からこの城を受け継いだと云う。

 その傍らに一人、腰掛けることなく控えているのは黒衣の侍従長アインスだ。長机に向かって左側には、その他八名の城の住人が、集めた椅子に掛けている。

 長机の左手、城主に近い席にいるのは、帰還しなかった使節団員レイズ・バレンシア。向かいの右手の席は、十年を経て城に帰還した三人がいる。

 長机の左右には、十年の時差があった。

「警告の鐘は二回鳴った」

 切り出したのは恐らくアハトだ。

「二回?」

 ゼノが、思い出すように眉根を寄せる。

 そうさ。予定より一日早い上に、二回もだ。二回目は本物だった」

「予定って何? 本物って、どう云うこと?」

 レイズが訝しげな顔をする。

「最初の鐘が鳴った時、あたしとこの人は中庭の畠にいたよ」

 ドライが口を挟んだ。隣のツヴァイが頷いた。

「夕食の香草を見繕って、赤玉を積もうとしたら、鐘が鳴った」

「セレンが広間に入って行ったのが見えたね」

 交互に過去を組み立てて行く。二人にとっては今日起きたことだが。

 ドライの言葉にセレンが頷いて、サイグラムを見た。

「確か、テラスの横には君たちがいた。鐘を聴いたのは、ここに入ってすぐだったかな」

 大広間を仰ぐセレンの並びで、サイグラムは長机に隔たれたノインを見つめている。

「ぼくとノインは話をしていた。鐘の音がしたので、ここに来ました」

 ノインは白い顔をしたまま、微かに頷いた。

「あたしはこの人と話をしてた」

 レイズがクラウスに目を遣って憤然と言った。話すと云うほど穏便な口調でなかったことは、皆もよく知っている。

「さっきも、アインスがお茶を淹れてくれてたわね。そう云えば、アンタは居なかったわ」

 フィーアに意地悪く指摘する。彼女はレイズを一瞥しただけで、表情を変えることもなかった。

「私は部屋の片づけをしていました。近頃は、昼を過ぎても部屋を空けない酔っ払いのせいで、余計な仕事が増えましたからね。明日は退去と云うのに荷造りもせず、まるで出て行く気がないような有様でしたが?」

「頼んだ訳じゃないでしょ」

 レイズがフィーアに噛み付いた。

 ジーベンが慌てて口を挟んだ。

「機械室には俺とアハト、ディースがいたね」

「私もいたよう」

 ツェーンが頬を膨らませて言う。

「そう云えば、警鐘が鳴って飛び起きたんじゃなかったかな」

 ディースが思い出して笑った。

「最初に鐘が鳴った時、君らの誰かが外に出たのかと思ったんだが」

 ジーベンが言った。

「僕は外の橋のところにいました」

 大広間に戻って来たフュンフが手を挙げて言った。

「橋の辺りをうろうろしていたから、何かに引っ掛かったのかも」

「どうしてそんなところに?」

 セレンが訊ねると、フュンフはゼノに目を遣った。

「晩餐の足しに里に行くって、ゼクスが。でも、僕は片付けてが長引いて」

 紡がれる状況が分からないまでも、アリスはあの日、ゼノが背負っていた袋のことを覚えていた。やはり、あれは野菜か何かだったのだろう。

「城に戻る途中で、よく喋る女の子に捕まったんだ」

 ゼノが応えるのを聞いて、アリスはまた変な汗をかいた。

「話している内に鐘の音がして、空に鳥が」

 ゼノは宙を見上げて言葉を切った。目線を落としてセレンに向ける。

「城の一部を持ち帰ろうとしたな?」

 隣のディースがセレンを覗き見た。セレンは素直に頷いた。

「不正ですか?」

 喪った左眼と一緒に、セレンの表情は薄くなった。一〇年前に比べて情動が読み辛い。

「待ってくれ。認証なしに城の外に何か持ち出すなんて不可能だ。第一、誰も橋を渡っていない」

 アハトが割って入った。

 ゼノは辺りを見渡して、城主の机に目を止めた。フュンフに、綴じる前の魔術書を一枚、取って来させる。クラウスが慌てて、白紙に替えてフュンフに手渡した。

「凍ってもよかった。むしろ、凍ってた方が良かったんだな」

 ゼノが鼻歌混じりに魔術書の紙を折る。右手の鎖が机上で鳴った。

「鳥だ」

 フュンフが声を上げた。

 ゼノは紙片を手に掲げ、宙をなぞるようにゆっくり振った。

 皆の視線が滑空する紙片を追って行く。それは長机を越えるほどしか飛ばなかったが、

 セレンは満足気に微笑んだ。

「それがひとつ目の鐘だ」

 ゼノはそう言って肩を竦めた。


「意味が分からない」

 レイズが苛立たし気に口を挿んだ。体格の割にすれたところのないセレンの娘は別にして、話に付いて行けないのは、自分ひとりだ。

「不正って何、持ち帰るって何、そもそも本物の鐘ってどう云うこと?」

 かつての同僚は、微かな目線で答えを城主に預けた。

「課題だ」

 クラウスは深い目でレイズに言った。

 その一言では理解に遠く、困惑するレイズにクラウスは続けた。

「凍結した城を復活させること、それが、ここで過ごした君たちへの課題だ。次の管理者を選ぶためのね。八〇年前、そうやって私は城主になった」

 レイズはしばし絶句してクラウスを見つめ、我に返ってセレンたちを睨んだ。

「あんたたち、知ってたの?」

 セレンがたじろぐ。隣のディースは肩を竦めた。

「俺とセレンは何となく気付いた。サイグラムはノインに熱を上げていたし、君は酔っぱらってた」

 サイグラムが焦る。向いのレイズは鼻を鳴らした。

「二人で話して、何か研究材料になるものを持ち帰れないか考えたんだ」

 床に落ちた紙の鳥に目を遣って、セレンは小さな吐息をひとつ洩らした。

「役には立ったが、この有様だ。もっと早く解ければ良かったのに」

 左眼の眼帯を指先で叩いて見せた。

 アリスは父が大怪我を負った日を覚えている。それでも工房に向かう父に、あの母でさえ激昂した。母は隊長を病室の番に立て、回復するまで父を閉じ込めてしまった。

「私はもっと掛かったよ」

 クラウスはそう言って笑った。

「家族も工房も失くしてしまった。君たちには、まだ取り返せる時間がある」

 そこには、彼にしか分からない自嘲もあるのだろう。

 微かな笑みで応えるセレンの肩を、ディースは少し乱暴に小突いた。

「術式を考えたのはおまえだが、給料以上の金を出しのは俺だ」

「セレンの術式で魔動機を造って儲けたじゃないですか」

 サイグラムが横から呆れたように口を挿んだ。

「何よ、あんたたち気持ち悪い」

 レイズが三人を眺めて身も蓋も無い言葉を吐いた。ほんの少し、悔しそうだ。

「結局、最初からこの城は氷漬けになる予定だったってこと?」

 クラウスが頷いた。

「だが、今日ではなかった」


「たぶん、馬鹿ばかしい話だ」

 ゼノが机の上を見渡しながら言った。

「だけど、どうしてそんなことをしたのか、よく分からない」

 勿体ぶるつもりはなく、ただ、手持ちのカップが空になっていただけだ。

 フィーアが気付いてポットを取った。アリスが気遣いに感動してフィーアを見つめる。フィーアは少し居心地悪そうに身動ぎした。

「セレンの鳥の影響かも」

 ジーベンが言うと、アハトが首を振った。

「二度目はちゃんと時計で動いていたぞ」

「時計が壊れたってことか?」

「城の時間が遅れたんだ」

 ゼノはそう言って、広間の奥にカップを掲げた。そこには、壁に掛けられた数字の板がある。

 城を初めて訪れたアリスは、土埃を被った暦の板を、ただの飾りだと思っていた。実際は、敢えて日の移り変わりを数えない城の住人が、四人の客のために用意したものだ。

 クラウスが気付いて小さな嘆息を洩らした。

「だから、これはツェーンがやったこと、そしてノインが企んだこと、かな」

 ゼノは二人に目を遣った。

 ツェーンは名を呼ばれた意味を理解しておらず、ノインは蒼褪めた顔で微笑んでいた。

「替え忘れた暦を、そのままにました。誰かひとりでも気づいてくれたら、良かったのに」

 ノインの言葉を掻き消すように、サイグラムの椅子が床を擦った。立ち上がり、呆然とノインを見つめる。

「もしも、突然、最後の日が来たら、この人は外に出られなくなって、私と一緒に世界から取り残されてくれるかも知れない」

「ノイン」

「もしも、突然、最後の日が来たら、悲しくてどうにかなってしまう前に、この人を外に送り出してあげられるかも知れない」

 ノインの目から涙が零れた。

「私にも、良く分からないです」

 鼻をすすり、ノインはレイズに向き直る。

「ごめんなさい、レイズ。あなたをこんな目に合わせるつもりはありませんでした」

 レイズは席を立ち、ノインの前で身を屈めると、その頬を両手で包んだ。

「参ったわね。こんなに子供のくせに、あたしより女じゃないの」

 そう言って、ノインを抱きしめた。

 くぐもった泣声を聴きながら、サイグラムは立ち尽くしている。ディースに思い切り押されて、サイグラムはようやく、ふらふらとノインに向かって歩いて行った。

「これで、俺が悪さをした訳じゃないってことは解ったろ?」

 眺めてゼノが胸を張る。

「でも、裏でこそこそしていただろう」

 ディースが目を眇めて言った。

「セレンを外に引っ張り出したり、俺を機械室に行かせたり。レイズに酒蔵の鍵をやったり、サイグラムを脅したりしたのも貴方だ」

「人聞きの悪い。脅したりなんかしていない」

 否定するゼノを振り返って、サイグラムは責めるように言った。

「でも、ノインを外に連れ出せば、彼女は死んでしまうって」

「当たり前だ」

 ゼノが応えた。

「クラウスを見ろ、老化を留めるのは城の影響のある所までだ。外に出たら普通に齢を取って死ぬ」

「仰ってなかったのですか?」

 フィーアがゼノに冷えた目を向けた。

「いや、言ってるじゃないか」

 心持ち慌てて、ゼノは口を尖らせた。

 ゼノが圧されて拗ねている。アリスはゼノとフィーアを交互に見て、心の中でメモを取った。

「一緒の時間にいられるなら、私は構いません」

 ノインの凛とした声がして、ゼノは大きく溜息を吐いた。俯いて、ふと、右手の鎖を辿る。見上げると、アリスが抱き合う二人に頬を染めている。

「君たちは贅沢だよ」

 ゼノは小さく呟いた。

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