ゼノ
渓流と、それを割って歩く水音を、アリスはぼんやり聞いていた。意識は闇と仄暗さの中を行き来している。アリスの身体は、揺れる背中に乗っていた。
ほんのりと温かさを感じているうち、アリスの意識は焦点を結んだ。頬に触れているのがゼノの項だと気付いて、身体が硬直した。
どうしたものかと逡巡する。正確には、何も考えられずに、ただ焦った。
ところが、ずり落ちそうになった折、思わずゼノにしがみ付いてしまい、意識が戻ったことに気付かれてしまった。
「寝た振りとは、生意気だな」
アリスは冷えた石畳の上に放り出された。固まった身体は思うように動かず、そのまま仰向けに寝そべった。
髪が濡れて重い。剥き出しになった左の二の腕、右の太腿が硬い。内着の隙間に水が滲みて気持ち悪かった。何より、ゼノの背の温もりが遠のいて、一気に身体が冷え始めた。
ゼノは唸って腰を伸ばし、首に掛けたランタンを抜いて、アリスの横に投げ出した。
微かに辺りが見渡せる。意外と低い石の天井、石の壁。すぐ側を滔々と水が流れている。ここは、岩を削って造られた暗渠のようだ。
ゼノの云う裏道だろうか。地理的に、あの滝壺から続いているようだ。
不意に、アリスはあの奈落を思い起こした。今でも足許に怖気が走る。どうやって助かったのだろう。
ゼノがアリスの傍に腰を下ろした。ゼノの両足はまだ水音を立てている。アリスの横に掘られた水路に、渓流の水が流れているようだ。
ゼノは身体を捻って、アリスの耳の両傍に手を突いた。伸し掛かるように、間近からアリスを覗き込む。普段は下ろした髪の間に微かに覗くゼノ目が、俯いたせいでよく見えた。
不機嫌そうだ。
「無駄にでかい。無駄に重い。何を食ったらこんなにでかくなるんだ、おまえは」
失礼で容赦ない声に、アリスの頬に血が昇った。
たくさん言いたいことがあって、言葉を選んで組み立てて、また傷付くことになりはしないかと不安になって、アリスは結局、ゼノを睨んでぷいと顔を背けた。
「言葉を怠けるな」
ゼノの手がアリスの頬を鷲掴みにした。首を捻じ曲げ、強引に目を合わせる。濡れたゼノの髪の雫が、アリスの顔に落ちた。
突き飛ばそうと伸ばした両手は、あっさり取り押さえられた。ゼノはその腕に鎖を絡めて、アリスの頭上に押し付けた。片手だけのゼノに、力が入らない。鎖が石を擦って鳴るだけだ。
ゼノはアリスの脚を割って伸し掛かかり、身体でアリスを押さえ込んだ。もがいても暴れても押し退けられない。却って身体が擦れて密着して行く。
体調が万全でないのも一因だが、ゼノはこれほど強かっただろうか。初めてゼノを怖いと思った。
「ほら、ちゃんと言え」
鼻先が触れるほど近くにゼノの顔がある。アリスは夜よりも濃い瞳に射抜かれていた。堪え切れず、押し潰された胸の息を吐く。ゼノの前髪が揺れた。
「なに、を」
ゼノはアリスの任務を知っている。知っている癖に何を問うのか。ゼノを囮に開城の時間を稼ぐ。二人は一緒にいなければならないのは、手錠の鍵をなくしたから。それだけだ。
「おまえは俺の何だ」
頬を掴むゼノの指は緩まない。アリスは口を閉じることさえできない。半開きの唇から涎が零れた。悔しさと恥ずかしさで目が潤む。零れた涙が耳に落ちた。
締め付ける指先に、ゼノの目に、身体も意識も壊されて行く。同時に、疼くように焦れる自分がいる。
任務への躊躇い。自分を傷付けてまでゼノを逃がそうとしたこと。アリスは彼の問う意味を悟って煩悶した。
「私、が」
ゼノを護らなければ。ゼノが憶えていなくても、幼いアリスはそう思い込んだのだ。償いだ。すべてアリスが原因なのだ。
「喋った」
あの日、ゼクスに会ったことを、アリスは父に喋ってしまった。彼らがゼノが城の外にいることを知ったのは、アリスのせいだ。
アリスの無責任なお喋りが、ゼノを追われる身にしてしまったのだ。
「か、ら」
ゼノから目を逸らせない。呼吸と動悸で胸の先が擦れた。脚を閉じようとしてもゼノに絡み付く。押し返そうともがくほど、ゼノに身体が重なって行く。
抗うことが目的なのか、身体を隙間なく合わせたいのか、もう自分でも分からない。
「私のせ、い」
息をするのも苦しくて、アリスは嘔吐くように言葉を紡いだ。歪められた唇からは、喘ぐような音しか出ない。涎混じりの滑稽な音だ。
「はやく」
涙や涎や鼻水が、ゼノの指を汚している。掛かる息が焼け爛れるように熱い。全身が揺れるほど鼓動は脈打っている。汗と獣の匂いがした。
「大きく、なって」
言葉を洩らすたび、身体が恥辱に震えた。下腹部から震えが込み上げて来る。体験したことのない生理にアリスは怯えた。
「ゼクスに」
ゼノの目を見つめたまま、不意に、アリスの目線は焦点を失った。打ち揚げられた魚のように、何度も何度も身体が撥ねた。抑えられない身体の慄きに、アリスは喉の奥でくぐもった悲鳴を上げた。
「あのときのアリスか」
ゼノの呆れた声が遠くに聞こえた。
何も考えられない。ゼノの身体の下で何度も震えて、アリスは喉に閊えたような荒い呼吸を繰り返した。
「何を食ったらこんなにでかくなるんだ」
最初と同じ台詞を吐いて、ゼノは頬を掴んだ手を緩めた。指先でアリスの唇を拭って、何かを探すように目の奥に覗き込む。
「子供相手にお仕置きが過ぎたな」
あっけらかんとそう言って、ゼノは身体を引き剥がした。
自由になったアリスの手が、無意識にゼノの身体を追って宙を掻いた。
「まさかここまで馬鹿だとは。おまえの血筋はいつもそうだ」
虚ろに上気したアリスを見おろして、ゼノはアリスの頬に掛かった髪を梳いた。
アリスはその指先を両手で覆って、自分の頬に押し当てた。感触を確かめるように目を閉じる。
「身体と一緒に変われば良かったのに。まるで俺の時間が無意味みたいじゃないか」
アリスの手に抗いもせず、ゼノは吐息のように呟いた。
薄暗がりにゼノの声を聞きながら、アリスは、彼がもういちど身を寄せてくれないだろうかと、ぼんやりと目を向けた。
破裂しそうな火照りが鎮まり、吐息が落ち着くにつれ、アリスも徐々に思考を取り戻した。
我に返って、頬が、身体が強張って行く。不意に大声を上げて逃げ出したい衝動に駆られた。恥ずかしくて、ゼノの顔をを見ることができない。
「しかし、なりがでかくなったばかりか、被虐嗜好まであるのか。大変だな、アリス」
ゼノが勝手なことを言って笑った。
自分が酷いことをした癖に。アリスは憮然とそう思う。黙っていると、また言葉を怠けるなと叱るだろうか。上目遣いに、ゼノに恨めしそうな目を向けた。
「面倒だが出掛けよう。顔を洗えアリス。酷い有様だぞ」
アリスの頬を軽く叩いて、ゼノは傍から腰を上げた。
ランタンの薄明りに頼るまでもなかった。顔はもとより、肌蹴て半分零れた胸も、剥き出しになった太腿も、濡れたように汗まみれだ。何より、内着が水が滲みた以上のことになっていた。
アリスは思わずゼノを後ろに突き飛ばし、真っ赤になって水路に飛び込んだ。
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