アリス
幼いアリスの旅は散々だった。
馬車が山道に入ってからは殊更酷く、跳ねて揺られて身体中に打ち身ができそうだった。最後には皆も馬車を降り、延々と歩いて峰を越えた。
身体はその方が幾分ましだったけれど、岩肌に薄く削り出された粗い小道は、見おろせば竦んで動けなくなりそうな断崖の縁にあった。
里へと続く森の中も、昼間なのに真っ暗で、何かがじっと息を潜めて、馬車を見つめているような気がしてならなかった。
ふわふわと明るいアリスの母は、それでもずっと陽気だった。一年ぶりに父に会えるのが嬉しいのだろう。舌を噛みそうな馬車の中でも、途切れないお喋りで、周りの人をげんなりさせた。
生い茂る樹々の天井を抜けると、あっけらかんと世界が拓けて、欝々とした道程の反動か、皆も何だか陽気になった。
その里は、大きな手で山の半分を掻き取って、たっぷりの水と、もっさりと緑を盛り付けたような場所にあった。
左手は湖と果樹園と畑。右手は牧草と住居と工場のように連なった棟。そして、里の真ん中は、小高い丘になっている。
急な斜面を右に左に振れながら、細い坂道が丘を登って行く。頂の、断崖になった峡谷の先に、古い古い魔術師の城がある筈だった。
馬車が広場に落ち着くと、母や工房の人たちは、里の人や他の国の迎えの人と話をしに行ってしまった。
ここにも里にも、アリスと同じ年頃の子供は見当たらない。
退屈を持て余したアリスは、母の許可を得て、独りで里の探検に出掛けた。目指すのはもちろん、丘の上の城だ。
遠くへ行くなとは言われたが、この里はリースタンよりずっと狭い。城もきっとすぐそこにある筈だ。
馬車を停めた広場を抜けて、アリスは丘の径を登り始めた。
路肩は石で固められ、そこから先は下草に覆われた急な坂になっていた。右を向いて登った端は、里の建屋が、反対を向いて登った端は、湖が見えた。
坂の途中、風に乗って、緑と炭の匂いがした。
「前にも似たようなことがあったな」
アリスは背中の声に驚いて跳び上がった。
振り返ると人が立っている。案山子みたいに細くて、黒い服を着た男の人だ。
歳上には違いないが、父ほどの齢にも見えず、幾つくらいかよく判らない。
伸ばしすぎた前髪の下に、悪戯な黒い瞳があった。大人なのに、笑顔が可愛らしい。まるで、自分よりずっと子供のようだ。
「あの、私、お父さまのお迎えに来たの。この上に凄い魔法使いのお城があって、そこに勉強に来ているのよ。一年も。おかげで顔を忘れそう。本当はお見送りにも来たかったのだけれど、余所の国を廻って行くからと言って、連れて行って貰えなかったの。だからお迎えには絶対って。あの、貴方はお城の方ですか?」
アリスは喋り出すと止まらなくなった。男の人はびっくりしたような顔で頷いて、アリスのお喋りに笑った。
やっぱり、可愛らしい人だ。アリスは胸がむずむずした。
「君、名前は?」
「私、アリス。アリス・フォーベルガ」
スカートの裾を摘んで膝を曲げる。学校で習ったお辞儀だ。背筋を伸ばす時、髪が揺れるのがお気に入りだった。
「昔から好奇心の旺盛な血筋だな。そりゃあ、縁もあるか」
男の人はそう呟いて、お辞儀を返した。
「僕はゼクスだ。他にも名前はあるけれど、ここではそう呼ばれてる」
ゼクスは煤けた長い外套を着て、背に大きな荷袋を負っていた。袋は丸いごつごつした物で膨らんでいる。荷車の野菜袋に似ていた。
「ゼクスはお城の人? なら、お父さまは知っている? セレンって云うの。本当はもっと長いのだけれど、長くてお父さまも覚えてらっしゃらないの。だからセレンでいいわ。でも、姓はお母さまの家の名前よ。お父さまはご自分の家が嫌いなのかしら。私は大好きだから大丈夫だわ」
「そりゃあ、良かった」
いつの間にか、二人は並んで径を歩いていた。目指すのは共に丘の上だ。
歩調を合わせて隣を行くゼクスに向かって、アリスは手振り身振りで飛び跳ねながら、この里に至る冒険を語って聞かせた。
「好奇心旺盛ってよく言われるわ。意味は分からないけれど。でも、血筋ってどういうこと? 母さまは、それはそれはお喋りな人だけれど、私みたいに探検に出掛けたりはしないの。父さまなんて、もっとそう。家にいる時までご本を読んでいるんだから。ぜんぜんつまらない。ゼクスは探検に行ったりする?」
「たまにね」
そう言って、アリスを眺める。
「君の血筋と探検に出たこともあるよ。随分と前だけど。君みたいに綺麗な髪をしていたな」
ゼクスは無造作に手を伸ばして、アリスの黒髪をひとふさ梳いた。
アリスは真っ赤になって両手で髪を押さえた。擽ったくて、首を竦めた。
「前って、どれくらい? お爺さまよりも前? もう亡くなってしまったけれど、すごくお年を召していらしたのよ。もっとお話を聴かせて欲しかったのに、ご自逝されてしまったの。すごくたくさんお話を知っていて、ここのお城のお話もそう。フースークにも会ったことがあるって。お爺さまもきっとここにいらしたのね」
「ロウエンなら確かに来たよ。年寄りにこの坂は大変だっただろうな」
ゼクスはそう言って笑った。
「お爺さまはお爺さまだったけれど、このお城の人たちは、もっと齢上だって聞いたわ。だってフースークのお城ですもの。征竜の姫さまより、聖痕の姫さまより、宵星の姫さまよりずーっと昔の人だもの。リースタンができる前から、いたんだって。お城にいるのかしら? 会ったことはある?」
「ええと」
ゼクスは少し考えこんだ。
「今はいないかな」
「いないのかー。きっとすごいお髭が生えている筈よ。すごいお爺さんだから。こーーー」
どれほどの髭を想像していたのか、アリスは坂の角から角まで走って行って、息を切らせながらゼクスに言った。
「ーーーんなに長いの」
「いや、そうでもないな」
ゼクスがあっさりそう言ったので、アリスは不満そうに頬を膨らませた。
「長くは生きているけれど、時計が止まっているようなものだから、君が思うほど年寄りじゃないよ」
アリスは口を尖らせる。
「時計が止まってしまったら、いつまで待ってもおやつが食べられないわ」
アリスの真剣な表情に、ゼクスは虚を突かれたような顔をした。
「それは確かに不便だな」
応えて肩を竦めて見せる。
アリスはじっと、彼の目を見上げた。
「悲しいの?」
「え?」
「そんな顔してる。おやつが食べられないから?」
困ったように頭を掻いて、ゼクスは屈んでアリスに目線を合わせた。
「楽しいことばかりじゃないからな。でも、悲しいことも楽しいことも、同じように意味があるんだ」
「楽しいことばかりだと良いのに」
不満げに頬を膨らませるアリスに向かって、ゼクスは微笑んだ。
「主観の問題だな」
「難しくてよく分からないわ。ゼクスはきっと説明の仕方が下手なのね」
項垂れるゼクスを意地悪く笑って、アリスは言った。
「でも、私はやっぱり楽しいことが多い方がいいな」
「そうだな」
ふと、ゼクスが何かに気付いて目線を上げた。丘の上にきらきらと舞う鳥影を追う。
「僕もそう思う」
ゼクスは立ち上がり、耳を澄ませた。
不思議に思って真似てみると、遠くに鐘の音のようなものが聞こえる。
「今度は本物だな」
小さく呟いて、溜息を吐いた。
「残念だけれどアリス、僕はここまでだ。城はすぐそこだが、気を付けて」
アリスは思わず不満の声を上げた。
「ご用事なの? すぐ戻ってくる?」
「当面は無理かな。どうやら、君のお父さん達と顔を合わせる訳にはいかなくなった。僕に会ったことは、誰にも言わないようにね」
「どうして?」
「捕まって、面倒なことになるから」
「父さまはそんなことしないわ」
アリスは驚いて言った。
「機会があったら、また会おう」
ゼクスはそう言って、里の方に向き直った。アリスは思わずゼクスの腕を掴んで引き留めた。
「機会って、いつ?」
訊くと、ゼクスはうーんと唸った。
「いつだろう、君が大きくなった頃かな」
「すぐに大きくなるわ。すぐによ? すごく大きくなるんだから」
意気込んで言うアリスに、ゼクスは笑って頷いた。
「期待してるよ」
アリスの頭を優しく叩いて、ゼクスは髪を撫でて行った。
アリスは、坂を下って行くゼクスと、もうあと少しの丘の頂を見比べた。
坂の途中、ゼクスが思い出したように振り返った。
「僕のことは、お喋りするんじゃないぞ」
蛇行する道を飛び越したり、ときおり振り返ってアリスに手を振ったりしながら、その姿は麓に向かって小さくなって行った。
「私、そんなにお喋りじゃないわ」
アリスは口を尖らせたまま、その姿が消えてしまうまで見送った。
アリスは丘の上を見上げた。小さく聴こえた鐘の音は、気付けば既に鳴り止んでいる。
坂を登っていくにつれ、先の異様な騒めきが大きくなった。轟々と風が鳴り、水面のような光がちらついている。
丘の上は、目を刺すような光が乱舞していた。峡谷の奥には、輪郭が分からないほどの大きな光の塊がある。
「どうしてこんな」
呻くような、呪うような若い声に、アリスは身を竦めた。
辺り一面の光に目を細めれば、輪郭の覚束ない黒い人影が三つ、揺れている。
座り込み、立ち尽くし、すすり泣くような荒い息を吐きながら、縋るように光を見つめている。
「父さま?」
見覚えのある影に呼び掛けながら、アリスは目を眇めて歩み寄った。光りの圧が、まるで強い向かい風のようだった。
「魔術師のお城はこんなに眩しいの?そんなこと、ゼクスはぜんぜん言ってなかったわ。悲しい時計の話なんかしないで、ちゃんと言ってくれればよかったのに」
「アリス、どうしてここに」
影のひとつが、よろめきながらアリスの前に立った。
人影に光を遮られ、ようやく相手を見上げれば、湖面の陽のように揺れる光の中に、まるで見知らぬ人のように蒼ざめたセレンの顔があった。
「ゼクス、ゼクスに会ったのか? 彼は外にいたんだな?」
セレンは屈み込み、アリスの肩を掴んだ。加減を忘れてしまったのか、いつもの優しい感じがなかった。
「外ってどこ? 私が会ったのは坂の上よ。少ししかお話しできなかったけど、また会おうって言ってくれたわ」
セレンに言いながら、アリスは急に不安になった。話してはいけない。喋ってはいけない。
「大丈夫なのよ。大丈夫。初めて会った人だけど、私のことを知っていたから。お爺さまのことだって」
口を衝いて出る言葉は、無意識に矛盾に落ちて行く。セレンの表情に気付いても、もうどうすることもできない。
「悪い人じゃないわ。ぜんぜん、悪い人じゃないの。楽しくて、悲しくて、よく笑う人。一緒にお城の近くまで歩いて来たの。それだけよ?」
セレンの目に身体が震えた。後悔が胸の奥から這い上がって来る。言葉を全部、消して欲しかった。
「ゼクス、あいつ、外にいたのか」
セレンの後ろで絞り出すような声が言った。黒い人影がやって来る。アリスは打たれたように身を竦めた。
光の先に、言葉ですらない叫び声が聞こえた。その影は地面を打って泣いていた。アリスはその情動に巻き込まれて、息ができなかった。
「追うぞ。あいつを問い質す」
声がした。
セレンがアリスに背を向けて、声に向かって歩いて行く。取り残されたアリスは、眩しさに目を開けていられなかった。
言ってはいけなかった。一言も喋ってはいけなかったのだ。
耳を塞いで蹲った。風が鳴っている。耳鳴りに逆らって声を上げても、もう自分の声は聞こえなかった。
あの人のこと喋ってしまった。あの人を裏切ってしまったのだ。
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