捜索

 峰から定めた方向を目指し、アリスは高低と距離と地形を吟味した。隊で作成した地勢図と見比べながら、およその方向を確認する。足下の斜面は、太い木の根と石榑が絡み合い、靴底ひとつ分の平坦な場所もなかった。

 げんなりした顔のゼノを引き摺って、アリスは斜面に飛び出した。岩場の歪な道筋に、調子を変えることがない。一歩先を反射的に選び取っては、平地のように降りて行く。

 一歩一歩が油断のならない飛び石だ。それが延々と続く。鎖に繋がれ、追随する他にないゼノにとっては、迷惑この上なかった。

 文句を言おうとしたものの、ひとつ踏み損なえば転倒する。口を開く余裕もなかった。知ってか知らずか、アリスは黙々と斜面を下って行く。

 夜明けより山嶺を越え、昼は谷河で脚を休めつつも、二人は目論見より良い按配で目的地に近づいていた。山道を向かいの山に見て、その口まであと少しの位置にいる。

「いい加減にしろ」

 とうとう鎖を引いてアリスを止め、ゼノは地面に座り込んだ。気付けば渓谷の底だ。

 アリスは訊ねるように目を遣り、休憩したいのかと勝手に解釈して頷いた。多めに休憩を挿んでも、まだ日暮れには余裕があった。

「俺じゃなきゃ、死んでるからな」

 続きの言葉を吐きだして、ゼノは地面に引っくり返った。

 アリスの結論は合っているが、思考の過程は間違っていた。アリスの歩調は常人には真似できない。調子に乗って、それを忘れている。

「おまえ、そのうち大怪我するぞ」

 ゼノは呆れたように言って、目を閉じた。しばらく動かないと云う意思表示だ。

 アリスは問おうと逡巡するが、結局、言葉にまとめ切れず諦めた。仕方なく、周囲に注意を払って隣に腰を下ろした。

 ゼノのアリスを呼ぶ声が、いつの間にかぞんざいだ。今になってアリスは気にし始めた。道を急ぎ過ぎただろうか。

 心なしか、辺りの気配が賑やかだ。植生が変わり、小動物の繁殖を前提とした被子植物が繁茂している。蒸れた緑の中には、甘い匂いも混じっていた。

 アリスはふと、気配を探って首を巡らせた。

 枝を掻き分け、揺らす音がする。まだ遠いが、幾つもが途切れ途切れに続いている。

 不意に、割れた破裂音が聞こえた。木霊が音を小刻みに引き延ばしている。アリスは全身を欹て、位置を確かめようとした。

「ここに来て鉄砲か」

 ゼノの声がした。面倒くさげな顔をして、向いの山を眺めている。

 アリスは背嚢の留め具を外して地面に落とした。携行できる最低限の装備を掻き出し、残りは封をしてゼノに押し付けた。

「重くなったら、捨てて」

「もう重いって」

 言い返しながら、背嚢の肩帯を引き出し、ゼノは羽織った前掛けの上に帯を掛けた。

 破裂音がもう一つ、二つ。幾つも連なって聞こえるが、元の音は少ない。場所は山道のある斜面の少し下、音は山道口に向かって移動しているように思える。

 最短の道筋を探ろうとするアリスを小突いて、ゼノが釘を刺した。

「馬鹿みたいに突っ込む算段はやめろ。鉄砲は獣用だが、当たると痛い」

 ひと息吸って、アリスは頷いた。

 盾壁術式の普及した現在、銃砲の用途は限られている。魔術を用いる対人戦では、およそ目眩し程度の武器だ。ただし、今のアリスには、肝心のその術式がない。立場は獣と同じだ。

 アリスはひとまず、山道口を目指しながら、状況の見通せそうな場所を探すことにした。

 広い弧を描くように、山道の下の急斜面を移動して行く。立ち止まり、身を顰め、気配を探る。

「あれ、余所のだろ」

 銃声を指すゼノの問いに、アリスは戸惑いながら頷いた。第八特技研鑽房も銃器は使うが、工作用の破砕筒だ。中途半端な対人用途はない。木霊する銃声は、明らかに自軍のものではなかった。

 アリスが危惧していたのは、自軍が追われる事態だったが、山道から外れた山中で、交戦しながら山道口に向かう状況など、果たして在り得るだろうか。

 ゼノが顎を行く先に振って、先を促した。無駄なこたを考えるなと云うことだろう。気配の道筋に交差する辺りへ歩を進める。

 辺りに注意を払いながらの行程だが、今度のアリスは、時折、ゼノの様子を振り返った。

 やがて山中の気配が明確になった。這うように駆ける音、枯れる寸前の呼吸音、祈るように交わされる声が、隙間に聴き取れた。

「兵隊だな」

 垣間見えた姿は軍服だ。男と云う時点でアリスの部隊でなかった。時折の発砲も彼らに違いない。だが、見えた限りの装備なら、武装はほとんどないに等しい。輜重兵だろうか。

 幾人もが、ばらばらに山道口へと向かっている。まるで何かに追われているかのようだ。

「面倒ごとだな」

 アリスがなおも目を凝らす横で、ゼノが呻いた。

「ここから離れよう」

 言って、ゼノは首を巡らせた。

 アリスの辿った道筋は、安定して駆けられると云う点では、ほぼ唯一の選択肢だ。野性的な判断も馬鹿にならない。

「でも」

 アリスが迷う。逡巡しているのは理由が分からないからだ。

「連中の行先は山道口の方だ。本隊か何かがいるんだろう。おまえの味方が馬鹿じゃなきゃ、とっくに逃げてる」

 ゼノは顰めた声でそう言って、山道口に背を向けた。兵士はもう、息遣いさえ届きそうな距離にいる。

 腕の鎖を手繰って急かされ、アリスも仕方なく思い直した。

 だが、ゼノが立ち止まっている。

 怪訝に思ってその視線を追うと、遠くの樹々の隙間に巨大な灰色の塊が揺れていた。

 膨らんだり縮んだりを繰り返しながら、その塊はこちらに向かって近づいて来る。瞬きで見失うほど速い。

「くま?」

 太く短い四肢のある灰色の獣毛の塊だ。多頭引きの荷車ほど大きい。頭部から背にかけて、枯れた蔦のような文様が絡みついている。

 魑魅株だ。鎮守の成れの果て、灰色熊の変異体に違いない。

 流れるように体躯をうねらせながら、灰色熊は近づいて来る。凹凸の激しい地面も、立ち塞がる樹木も、流水のように器用に縫って疾走する。

「おまえ、あれに勝てる?」

 ゼノの問いに、アリスは思い切り首を振った。

 アリスの装備はあくまで近距離の対人戦闘用だ。熊殺しのマリッサ・アンブラでさえ、この装備であれをどうにかするのは無理だろう。

「なら、走れ」

 振り返ったゼノが、アリスの横を擦り抜けて走った。反射的に後を追う。ゼノは山道口を、それも兵士たちの背後を目指している。

「そっちは」

 彼らもあの巨熊から遁走していたのだ。もしかしたら山道で襲われ、森に逃げ込んだのかも知れない。何れにせよ、このままでは兵士たちにも気付かれる。

 恐らくゼノの云う通り、山道口には彼らの本隊が駐留している筈だ。列車を襲った敵ならば、今もゼノを追っているだろう。

「連中を追い抜こう。何人か食えば巣穴に戻るかも知れん」

「ひどい」

 呆れて呟いたが、アリスには代案がない。

 今更方向を変えるにも、兵士に近づき過ぎていた。巨熊からすれば一括りだ。異なる方向に逃げても、こちらに向かって来ない保証はない。

 鎮守の境界はどこにあるのか。そもそも、管理されていない鎮守に守護範囲はあるだろうか。どこまで逃げれば良いのか分からない。追い付かれるのは目に見えている。

「追い立ててるだけだ。喰う気があるならもっと速い」

 アリスが気にしていると思ったのか、ゼノは振り返ってそう言った。

 鎮守の名残りがあるのなら、確かに、捕食より追い払う方を優先するだろう。だが、既に人を追っている以上、供え物えを出したところで見向きもすまい。

 振り返る兵士から発見されないよう、二人は斜め後方に距離を取った。できるだけ、間に多くの樹を挿みながら、遁走する兵士たちに並走する。

 巨熊は距離を詰めて来る。大型魔動機の排気音のような、定間隔の息遣いが聞こえる。

 先行する兵士が掠れた声を上げ始めた。大声で居場所を叫んでいる。

 ゼノは目を眇めて前後を睨むと、アリスに道を逸れるよう促した。

 樹々の隙間を埋めるように、前から大勢の人影が湧いて出た。皆、その間を転がるように抜けて行く。迎えの兵士だ。

 突然、ゼノはアリスを抱え込むように引き倒して、太い樹の幹に身を屈めた。巨岩のような灰色の塊が、もう眼前に迫っている。

 アリスは反射的にゼノを庇って身構えた。腰に手を遣り、硬質化装備の封印を探る。ゼノは何かを計っている。

「撃て」

 不意に、ゼノがアリスの耳許で叫んだ。だが、相手はアリスではない。

 破裂音が連なって宙を叩いた。

 駆けつけた兵士たちが、誰の号令とも知らず巨熊に向かって次々に発砲している。耳を弄する巨熊の唸りがすべての音を上書きした。

 手を伸ばせば届くような場所を、巨熊が突風のように駆け抜けた。硝子玉のような眼はアリスとゼノを捉えたが、巨熊は発砲する兵士たちに突っ込んで行く。

 背にした厚い樹の幹越しに、狂乱の様が伝わって来る。殺傷用の実包弾か鎮圧用の圧搾弾かは分からないが、何れにせよ銃砲では巨熊を止めるに足りない。むしろ怒りを募らせるだけだ。

 悲鳴と怒号と唸り声。叫び声が尾を引いて宙を流れ、何かに当たって途切れた。破裂音は間断なく続いたが、徐々に山道口に向かって遠ざかって行く。

「行くぞ」

 ゼノが唖然とするアリスの手を引いて立たせた。

 目の前に、男が蹲っていた。逃げ惑っていた兵士の一人だろう。熊に追い抜かれて腰を抜かしているのか、地面に座り込んだまま、呆然と二人を見つめている。

「あっちの騒動が収まるまで、しばらくここにいた方が賢いぞ」

 ゼノは男にそう言い聞かせると、アリスを促して駆け出した。

 男は何の反応もできず、樹々に紛れて消える二人をただ見送った。


 ◇


「もう一度、その男の容姿を話していただけますか」

 天幕の奥から進み出た青年が、委縮する工兵に向かって質問を繰り返した。

 漆黒の外套が足許まで覆い隠しているのは、白と金糸の協会服だ。目深に被った頭巾の奥には、暗い炎を湛えた双眸が強い光を放っている。

 名をヒメネス・ベイリンと云う。魔術師協会本部より派遣された正道監査官だ。

 本日未明、山道に鎮守の変異体が出現し、輸送隊が襲撃された。物資は全損し、兵員にも被害が出た。さらに、逃げ帰る運搬兵を追って変異体が駐留地に襲来。迎撃が裏目に出て、多大な損害を被った。

 変異体は駐留兵が総出で森に追い込んだものの、未だ仕留めるには至っていない。

 当面、追撃は控え、森林方面への警戒を徹底している。山道の往来も中断したまま、今も禁足の地の基地とは連絡が途絶えている。

 この事態にあって、バフェットの見るところ、ラルファスは点呼だの照会だの迂遠なことばかりを優先していた。幾度となく叱咤したが、ラルファスはのらりくらりと躱すだけだ。

 計画に甚大な齟齬が生じたものの、ようやく混乱が収束に向かった頃合いを見計らって、ラルファスはふらりとバフェットの天幕を訪れた。

 彼は山道から逃げ帰った工兵をひとり連れていた。

 何やら、逃げ帰ろうとした駐留地の付近で不審な二人連れを見たと云う。その報告に誰よりも感心を示したのが、バフェットの天幕を訪れていたヒメネスだった。

「彼です。城の生存者だ」

 バフェットとラルファスを振り返り、ヒメネスはそう断言した。その工兵の見た者こそ、古城の鍵であり、今も荒野に多数の騎兵を出して捜索する当人だ。

「どうして、ここに」

 バフェットがぽかんと口を開けている間、ヒメネスは辛抱強く待っていた。

 魔術師協会の最右派より派遣されたヒメネスの使命は、ゼノの捕獲と粛清だ。彼らの言葉では再教育と云うが。

 バフェットにとって協会の支持は、いつ切られるやも知れぬ本国より重要だった。もちろん、彼らの意図がマグナフォルツのそれと異なっているのは、互いに承知している。


 現代魔術は理性によって支えられている。それが彼らの信心だ。魔導工学は地に足の付いた哲学であり、そこに伝承や寓話の付け入る隙はない。

 だが、今も協会を苛む矛盾がある。古城の魔術師その人だ。

 汎歴四〇〇余年より稼働する魔術師目録は、協会の根幹であり、そのものだった。そこには、協会が任じた正当な魔術師が、ひとり余さず記録されている。

 ところが、その初めに刻まれているのが魔術師がフースークだ。古城の主にして伝説そのもの。未だその死が記載されない人物だ。

 寓話との決別を是とする協会は、それに触れることを極端に嫌う。ヒメネスの属する理性派は、その最端にあった。

 古城が存在し、古文書の類が眠るのこと自体は、協会も渋々容認している。あらゆる魔術知識は、やがて協会に還元される。そのことに変わりはないからだ。

 だが、それが魔導哲学を汚すものであってはならない。彼ら理性派の目的は、協会最大の汚点である不確かな伝承の根絶だ。即ち、フースークの実在を抹消することだった。


「そりゃあ、あたしたちと同じ理由では?」

 面倒になったのか、ラルファスが横から口を挿んだ。ヒメネスが頷き、先のバフェットの呟きに応える。

「衛士らしい女が一緒だったとのことですから、軍務として行動しているのでしょう。ここで本隊と合流する予定だったのではありませんか?」

 ヒメネスの推論に、今度はラルファスが片方の眉を上げた。

「単独なのが解せませんが、なくはない。やれやれ、荒地に行かせた捜索隊は無駄足ですか」

 ラルファスは肩を落として見せる。

 確かに、山道口に大部隊が駐留していたため、身動きが取れず森に潜んでいたのかも知れない。それが変異体の騒動で炙り出されたのだとしたら。有り得ない話でもない。

「い、今すぐ兵を。わざわざ出向いてくれたのであれば、歓迎しよう」

 バフェットが意気込んで、気の利いたつもりの科白を口にした。

 ラルファスは大袈裟に顔を顰め、しかし熊が、と聞こえよがしに呟いた。駐留地の混乱も兵員の立て直しも、まだ儘ならぬ状況だ。

「相手は獣だ。銃を持たせればよい。駐留隊の全員で鍵の捕獲に当たる。全員だ。ここで逃がすわけには行かん」

「ここが丸裸になりますが」

 ラルファスが渋る。渋りながら思案する。変異体の騒動の直後だ。森に兵を遣るのは骨が折れるだろう。それこそ完全武装、大人数の遂行でもなければ納得しまい。

「優先すべきは、あの者の確保です」

 ヒメネスの進言に、ラルファスは退路を断たれた。余計なことを言うなと目線を送るが、若い正道監査官の表情は揺るぎもしない。

 名目上、今回の作戦はバフェットの独断だ。軍やラルファスへの支払いも、直接は彼を経由している。議会や魔術院が、無支配地帯で軍の運用を認める筈がないからだ。

 故に、バフェットには自国の後ろ盾がない。

 バフェットの公的な拠り所は魔術師協会本部、即ちヒメネスだ。彼の意向は無視できない。目的が合致している間は、尚更だ。

「鍵が連れて来られたということは、奴も城を復元する術を得られていないと云うことだ」

 バフェットの言う奴とは、リースタンで古城の復活に取り組む魔術師だ。位はバフェットより低いが、若く、著名だった。

 認めはしないだろうが、バフェットは彼に対抗心がある。あるいは、もっと生理的な反発か。あの城から生還し、名声を得た。それが腹立たしいのだ。

「もうすぐ陽か隠れます。明けてからの方が効率的かと」

「今すぐ、山狩りの準備を」

 最後の抵抗も退けられ、ラルファスは溜息混じりに頷いた。ヒメネスの後ろ盾を得て、バフェットは調子に乗っている。

 協会の支持は現代魔術の正義だ。無支配地帯で事を起こした後始末さえも、本国より遥かに頼りになるだろう。

「仕方ありませんな。全力をもってあたりましょう」

 それならば、こちらは勝手に後の面倒を省こう。敢えてそうは語らず、意気込むバフェットに首を垂れて、ラルファスは用兵を練りながら天幕を出た。

 一緒に辞したヒメネスと並んで歩きながら、ふと声を掛ける。

「貴方も大変ですな」

 ヒメネスは、その言葉が労いか皮肉かを測るように、ラルファスの目を覗き込んだ。

「いえ、貴方の方こそ」

「司令官殿の理由は分かるが、協会があの山奥の城を元に戻して何をしようってんです?」

「我々は、城そのものに興味はありません。あれは遺物だ。日々研鑽された魔術に敵う筈などない」

 ヒメネスはそう言い放った。その遺物から隣国が発展した手掛かりを絞り出すと云う、バフェットへの皮肉とも取れた。

「伝説などと云う世迷言を砕く、我々の目的はそれだけです」

 頭巾の下に覗く眼は、炎のように苛烈だった。だが、狂信者の目ではない。信念とも少し違う。ラルファスの表情に気づいて、ヒメネスは視線を外した。

「くれぐれも、あれは殺さぬように。訊かねばならないことがある」

 そう言うと、ヒメネスは軽く会釈して自分の天幕に歩いて行った。

 その背を見送りながら、ラルファスは暫し思案に耽った。

 さて、自分は何を落とし所に行動すべきだろうか。


 ◇


 陽も暮れようとする森の中、マグナフォルツ軍の駐留する山道口に距離を取りながらも、アリスは未だ踏み切れずにいた。山道を使わず禁足の地に至るのは、楽ではないが、不可能でもない。むしろ、訓練時にその道筋を辿っている。

「おまえが正しく思案しているとも思えないが」

 アリスの表情を伺うでもなく、ゼノは相変わらずの面倒くさげな口振りで言った。

 視界の悪くなった足許を探りながら、ゼノはアリスの隣を歩いている。アリスが行く先を迷っている分、進むのはゼノの歩調だ。

「本来なら、俺を城に連れて行くべきじゃない」

 本隊との合流は隊長の命令だ。アリスはそう言おうとして、言葉を探した。

「おまえらの隊長は、俺を置いて行けと言っただろう?」

 アリスの台詞に先んじて、ゼノは答えを返した。アリスの長考にも、いい加減慣れている。

「たぶん、俺は餌だ。時間稼ぎの」

 アリスが微かに眉根を寄せた。困惑も少し混じっている。

 ゼノの確保と搬送の最中、舞台では絶えず臨戦待機が続いていた。ミストもエルルも、聞こえないように溢していた。その理由に繋がる気がした。

「セレンは城なんだろう? なら、ようやく課題の準備が整ったってことだ。そこに俺がいちゃ、意味がないからな」

 また、分からなくなってしまった。ゼノに問いたい言葉は幾つもあるのに、問い方を考えているうちに話しがどんどん進んでしまう。

「邪魔が入ると思ったんだろう。まあ、現にこの通りだしな。だから、俺に目を向けさせたんだ。嫌な奴だ」

 ゼノはそう言って、頭の後ろで手を組んだ。右手の鎖が音を立てた。地面や枝葉に擦れないよう、アリスが左手に鎖を手繰っている。その分、二人の間は近かかった。

「大方、俺があの城を解凍できるとでも吹いて回ったんだろう」

 ゼノが歩調を決めているだけに、彼には話をする余裕もあるようだ。愚痴でもからかいの言葉でも、ゼノの声が聴けるのは心地よかった。もっと早くこうすれば良かった。

 ただ見つめているアリスに、ゼノが問うような目を向ける。

「解凍って」

 焦って出たのは、よく分からないがどうでも良いことだった。ゼノは意表を突かれたように唸った。

「例えだよ。あの城は見たか? あれは時間が停滞しているんだ。氷漬けになったみたいだろう。だから、元に戻すのを解凍って言うんだ。原理は聞くなよ。喋るのが面倒だから」

 ゼノは口許を顰めて、ひらひらと掌を振った。

「セレンに協力する気はないが、今更、ここの連中に捕まるのも面倒だしな。このまま逃げ続けた方が、おまえの任務にも合ってるだろう」

 ゼノはアリスに顔を寄せて言った。

「おまえの役に立つのも癪だけどな」

 その距離にたじろぎながら、アリスは表情を作れず憮然とした顔を向ける。

 ゼノは笑って、鎖の付いた右手を振った。

「こいつが問題なんだよなあ。勝手にできれば、俺は煤熊亭に戻るし、おまえは本体に合流する。お互い自由にやれたのに」

 鍵を失くしたのはアリスだが、元はと云えばゼノの仕掛けた悪戯だ。アリスはますます憮然として、心持ち歩調を速めた。頬に血が昇る。

 内心、アリスは驚いていた。自分でも意外だった。鎖をどうにかしようなど、何故か一度も考えたことがなかった。

「何にせよ、痛い思いをする以外は、こいつを外せるのはおまえの本隊だけなんだろう? 城が元に戻るまで、逃げ切る以外にないんだろうな」

 ゼノの口調は投げやりだ。

「痛いのは嫌いだからな」

 溜息と一緒にそう呟いた。

「ともかく、ここの兵隊を適当にあしらって時間を稼ぎながら、裏道を通って里に出るか。あとは城の連中がどうにかするだろう」

 今更ながら、すっかりゼノに行く先を委ねていることに気付いて、アリスは焦った。これではまるで立場がない。しかも今、ゼノは裏道と言った。山道以外の道筋があると云うことだ。

 アリスの目線に察して、ゼノは岩陰に背嚢を降ろした。

「地図を」

 二人は頭を突き合わせてしゃがみ込んだ。

 地図の下絵は魔術による観測図だ。書き込まれた範囲はそれほど広くない。ほとんどが人の越えられない断崖だからだ。

 ゼノの示した道筋は、尾根を巡る山道を掠めて、大小の渓流が走る谷の淵だった。

 ここからはまだ距離がある。山道を越える場所もあり、発見される可能性も高い。何より、渓谷の底に至るには、縁を大きく迂回する必要がある。降りるには深すぎる。

「案内と荒事は任せたからな。ちゃんと、俺を護れよ」

 辺りは急激に闇に包まれて行く。昨日は陽が隠れるのを機に休んだが、さすがに今夜はそうもいかないだろう。

 見えなくなった地図に慌てるアリスを放り出して、ゼノはくすねた携帯食の封を切った。

 アリスを眺めてゼノは思案する。

 彼が唯一の鍵だと信じているうちは、兵隊は二人を追って来るだろう。セレンが城を開放すれば、彼に価値はなくなる。無駄な追跡に兵員を割くより、城攻めに一人でも多くの兵を割こうとする筈だ。

 だが、無駄を省こうと思うなら、何処に逃げたかも知れぬ二人の探索に力を割くより、逃げようのない城を確保するだろう。錠あってこその鍵だ。

 気付けばアリスがぱたぱたと、服や背嚢を探っていた。ランタンを探しているわけでもなさそうだ。ゼノははたと持っていた小瓶を思い出し、アリスに渡した。

 怪訝そうにアリスが手に取る。視覚拡張の点眼薬だ。

「車の中で拾ったんだ。昨日、渡しそびれてた」

 恐らく、手錠の鍵を探してあちこち引っ掻き回した時に落としたのだろう。アリスは小瓶を持って天を仰いだ。点眼薬の鼻に抜ける痛みに堪えながら、ふと気になってゼノに訊ねる。

「昨日?」

 滴を拭って瞼を開けば、色調は平板だが周囲は十分に見通せた。傍らを振り向くと、しくじったと言いたげなゼノ表情がはっきりと見て取れた。


 ◇


 陽が隠れて時が経ち、山道口に残留する兵士は僅かな歩哨だけになった。

 昼間の騒動が収束する間もあればこそ、夕刻には輜重兵を含むほとんどの兵員が、大量の装備を持って森に分け入った。

 昼間の獣を追っての山狩りか、若しくは嫌な可能性がもうひとつある。

 遠視鏡を仕舞って夜陰と同化したミストは、踵を返した。

 隊長と殿下の機動部隊が身を顰める野営地に向かって、駆け出した。


 ミストとエルルは、最悪な形で隊長一行と合流した。

 状況を聴くに、隊長らを乗せた暴走列車が停車したのは、明け方近くだったと云う。脱線回避に思いの外手間取り、気付けば相当な距離を走っていた。カーラが伝信器を失ったのは、その折だ。

 その後、隊の合流に向けて動いたが、山道口に駐留するマグナフォルツの軍勢は、予想以上に膨らんでいた。先行したヨハンナ副長の部隊は、接触を避け、既に古城に展開して作戦を実行中だ。

 隊長にとっても予想外だったのは、サハルのディース・フォーベルガとその機動部隊が、潜伏する隊に合流したことだ。

 そもそも、彼らは先のゲイレンに密かに駐留していたらしい。マグナフォルツによる身柄の拘束が、ゼノのみならず第八特技研鑽房に及んだ際、第三勢力として仲裁に入る予定だったと云う。

 しかし、マグナフォルツの作戦指揮、主席魔術師バフェット・アンブラの急な計画変更により、列車は何事もなくアステリアナ近郊まで運行してしまった。

 止むなく機動部隊も列車を追っていたが、それらは隊長も知らされておらず、ディースの気まぐれに近い行動だった。

 最悪だったのは、襲撃で列車に取り残された三人が、駆け付けた機動部隊を敵と見誤り、自行車を鹵獲して逃走してしたことだ。


 こうした状況とは知らず、のこのこ引込線の停車場にやって来たミストとエルルは、潜伏する自軍の手であっさりと捕獲された。

 みっともなく拘束されたまま、二人は大勢の前で叱り飛ばされた。そもそも命令に従っていれば、起こり得なかった事態だ。

 隊長に思い切り張り飛ばされ、まともに立っていられないところに、副長が二人の前髪を掴んで顔を捩じり上げた。

「おまえら、殿下の部隊の慰み者になって詫びて来い」

 ロタの冷えた一言に、ミストとエルルは真っ青になって縮み上がった。

「と、言いたいところだが」

 舌打ちして突き放す。

「ミストの胸は男のようだし、エルルは子供と変わらん。身体だけが取り柄のうすらでかい馬鹿は、男と一緒にお散歩と来た」

 ロタは二人の頬を張って吐き捨てた。

「おまえらは女としても役立たずだ。殿下の部隊に特殊な嗜好の方がいらっしゃれば、まだ少しは役には立てたものを」

 安堵するやら情けないやら、二人は立ち尽くしして号泣した。

 隊長に連れられ謝罪に回る頃には、ミストもエルルも泣き顔で酷い有様になり、むしろ相手から慰められる始末だった。


 思い出しただけでも足が止まりそうになる。

 ミストは身震いしながら懸命に走った。アリスには無事でいて欲しいが、いっそこのまま逃げた方が良いのではないかとさえ思う。

 野営地は既に準備の終盤だった。自行車すべてに盾壁施術を展開したカーラの後を、術具を担いだエルルが小走りに付いて行く。

 ミストは斜めに並んだ車列の中に指揮車を探し、見つけた大型車両に駆け寄った。巨大な車輪と八本の歩行脚を積んだ自行車だ。出力は列車の魔道機に近く、戦車と呼ばれる規格に入る。

 厚手の装甲は複層の開閉式で、今は一部を畳んで座席を剥き出しにしていた。上部の座席は二列、計六席あり、サハルの副官に交じってラーズとロタが並んでいる。

 ミストは外装を登って枠越しにラーズを見上げ、駐留地の状況を報告した。隣で猫のように笑うロタの視線を感じて、また背筋が寒くなる。

「貸与車に搭乗、殿だ。逸れるなよ」

 ラーズの指示に答礼して、ミストは逃げるように駆け出した。

「いいの?」

 ミストを視界の隅で見送りながら、ロタは隣のラーズに囁いた。訊いたのは、アリスについてだ。

「本隊への合流が優先だ」

 一瞥してラーズが応えた。そう、とロタは一言返して呟いた。

「まあ、山ん中であの娘と追い掛けっこして、勝てる奴もいないでしょうけれど」

「大丈夫さ。あれが一緒にいるのだろう?」

 前の席から身を乗り出すように振り返って、ディース・フォーベルガが口を挿んだ。

 汎テランフロンタ、サハル自治圏の王族で宰相の一人。今はサハル魔導工業会の会長だ。

 武人のような体格で、容姿は男くさく整っている。王族を名乗るには印象が少々粗野で、魔術師の基準からも大きく外れていた。

「失礼ですが殿下、あの男が役に立つとでも?」

 ロタが挑むように問う。側近たちも、その遠慮のない口調に慣れていた。

 そもそも、宮廷の外のディースは格式を嫌う。いちいち咎め立てもしなかった。

「そうだな」

 ところが、ディースは考え込んだ。答えに迷っているようだ。

「まあ、大丈夫ではないかも知れん」

 あっさり、先の言葉を翻した。会話の外にいたラーズさえ、呆れたような顔を向ける。

「帰還して以来、ずっとあれを追っているが、正直、自由過ぎて検討がつかん」

「殿下も相当、自由ですが」

 側近が小さく口を挿んだが、ディースは聞こえぬ振りをした。

「牧童、行商、皿洗い。気まぐれに戦場に出たりもする」

「前線ですか?」

 言葉を測ってラースが訊ねる。その目は不審と得心が鬩ぎ合っている。

 ロタが鼻に小皺を寄せた。

「少し捻っただけで泣き言を言ってたのに。戦なんて耐えられるかしら」

「痛ければ泣きもするだろう」

 あからさまなロタの台詞に、ディースは肩を竦めて見せた。

「死ねないのだから、泣き喚こうが耐える他ない。セレンは言わなかったのか?」

 ロタはしばしディースを見つめ、それが冗談でないことに気づいて、頬を強張らせた。

「死ねない?」

「そうか。知っていれば役に立ったのに。あれを二つに裂いて、片方をマグナフォルツにくれてやれば、事はもっと簡単に済んだのだ」

 ディースはそう言って、乾いた笑みを浮かべた。


 ◇


 岩影に身を潜め、アリスは辺りの気配を探った。張り出した樹の根が、まるで老いた手のように岩を握り締めている。

 樹々の向こうに、山狩りの灯が瞬いていた。敵は辺りを一辺も洩らさず、一列になって探り潰している。

 その隊列に先行して、灯を持たず、二人の跡を追う狩人もいる。

 夜間の視覚と、恐らく臭覚追尾の仕掛けを持つ追手だ。魔術師が加わっている可能性もあった。追跡し、発見し、網に追い込もうとする手合いだ。

 できるだけ、彼らは先に潰しておきたかった。

 不意に、アリスの肺からきゅうと息が洩れた。待ち草臥れたゼノが、アリスに背中を押し付けて、伸し掛かるように蹲る。

「支度に時間が掛かるところは、一丁前の女だな」

 そう言って、猫がじゃれるように気を紛らわしている。

 アリスはそれどころではなかった。背中も頬も、ちりちりと熱い。

 手早く喉まで服を留め、腰の封を切って栓を引いた。簡易術式が瞬時に甲殻繊維を圧し固める。背中のゼノが硬化した外衣に滑って落ちた。

 頸や手首の隙間から、余計な空気が搾り出された。アリスの肌を締め付けながら、甲虫のような外殻が作られる。胸甲に絞められ、口からも息が洩れた。

 この格好は脱ぐ時が辛い。ゼノの前では到底、無理だ。何としても、本隊に合流しなければならない。

 だが、鎮守の騒動に紛れて稼いだ距離も、包囲の人垣で徐々に削り取られていた。夜明けも間近な今はもう、明確に跡を追われている。

 山中に人が越えられる場所は多くない。それほど一帯は峻険だ。二人の辿る道筋も、自ずと範囲が限られていた。

 しかも、相手には人員があり、魔術がある。アリスにあるのは、身に着けた装備と生来の体力だけだ。しかも、鎖に繋がれた大きな枷がある。

「あいつら、里に追い込む気だな」

 ゼノが呻いた通り、二人はおよその範囲で禁足の地に向かって追われている。

 いっそ、本隊がいるだろう城まで行く手もあるが、それでは開城の時間を稼ぐ意味が失せてしまう。

「行き先は同じなのに、道が違うとは面倒な」

 口を開けば愚痴を云う癖に、ゼノの行動はまるで違う。否応なく連れ回されている筈なのに、蹲って足を留めることもない。

「何見てる」

 言われて、アリスは目を逸らした。ゼノは捻くれている。

 ここで時間を稼ぐと決めて、アリスは背嚢を捨てた。

 闇に眼を眇める。ゼノの鼓動はもう憶えた。気配を探るのは二人を除いた世界のすべてだ。

 アリスは身体を撓めた。

 気づいたゼノが腰を上げる。数本の幹の先、二人の近くを行く影がある。

 ゼノへの合図もそこそこに、アリスは闇に飛び出した。

 追跡を見越して、アリスは先んじて長い痕跡を付けて歩いた。岩山を迂回して廻り込めば、辿られた軌跡は真っ直ぐに目の前を横切っている。

 相手は四人だ。まだ追う側だと油断して、無警戒に身を寄せている。銃を手にしているところを見ると、鎮守も合わせて警戒しているのだろう。

 それとも、こちらに盾壁術式がないことに気付かれたか。

 アリスは地を這うように身を伏せて駆けた。ゼノにはただ突入まで付いて来るよう身振りで示した。アリスが自由に動けるのは左手に繋がれた鎖の範囲だ。相手が展開する前に懐に入らねばならない。

 アリスの靴音に気付いた兵士が、弾かれたように銃口を上げた。

 最初に兵士と目が合ったのは、惚けた顔の男だ。生かして捕えるよう命じられた相手だった。

 不意に、明後日の方向から鋼糸を渡した石弾が飛来し、銃に絡んで持ち手を打った。装備の鳴る音と鈍い打撃の音が響く。寄り過ぎていた兵士が隣を巻き込み、もつれて地面に転がった。

 一人がようやくアリスを捉えた。アリスは相手に武器を持ち替える隙を与えなかった。構えていたのは長尺の銃だ。既にアリスが近すぎた。焦ってアリスを追う銃身が、滑稽なくらい逆さに立った。

 眼前に生え伸びた影に打たれ、兵士の手元から銃が消えた。真上に上がった銃把を無意識に目が追い、振り下ろされたその銃で首筋を打たれて昏倒した。

 銃を放り出し、もつれて倒れた二人の兵士に寄って、アリスは脚の一振りで意識を砕いた。

 四人目は駆け出していた。

 首を巡らせる前にアリスの全身は気配を追っている。だが、鎖の範囲外だ。駆け出そうとした刹那、軽い破裂音が散った。四人目がもんどりを打って倒れ込んだ。

「鉄砲で殴るな。この型は破裂するぞ」

 面倒くさそうにそう言って、ゼノは銃を放り出した。貫通痕がないところを見ると、炸裂して全身に衝撃を拡げる類の弾頭だ。獣の勢いを止めるため、あるいはゼノの捕獲を目的とした装備なのだろう。

 アリスは半ば呆気に取られて頷いた。ゼノはそのまま昏倒した三人に這い寄り、装備を漁り始めた。取り回しの良さそうなものを選んで攫って行く。

 今まで銃を扱える素振りなど見せなかったのに。

「うそつき」

 ゼノは食わせ物だ。

 アリスの呟きに、ゼノは軽く一瞥を返した。嘘はついていない。話していないだけだ。

 ゼノは立ち上がって土を払い、辺りを探るようにアリスに言った。何ら特別な装備がある訳でもない。単にアリスの感覚を頼りにしてのことだ。

 深々とした夜の森だ。格闘や銃の音は辺りに響いた。騒々しい山狩りの隊列はともかく、彼らのような狩人の部隊は捉えているに違いない。

 相手が方向を定めるまで少し、施術で銃の痕跡を探るのに少し、昏倒した友軍の安否を確認するために少しだけ、時間は稼げるだろう。

 今すぐここを離れ、各個撃破が望める位置を取らねばならない。見込みの場所は目星をつけてある。ゼノが銃を使えるのなら、別のやり方もある。

「おまえの仕事なんだから、俺を当てにするなよ」

 アリスが口を開く前にゼノが釘を刺した。ラーズのような言い様に、アリスは一瞬、身を竦める。少し口を尖らせて、アリスは駆け出した。


 ◇


 天中に陽の欠片が現れた。硝子越しの空はもう白み始めている。最後尾の車両が峠を越えて、全機が俯いて斜面を下り始めている。禁足の地まで、もうそれほどの距離はない。

 夜半、サハルの機動部隊は夜陰に紛れてマグナフォルツの駐留地を突破した。兵員を欠いた駐留地からの追撃はほとんどなかった。

 山道は一本道だ。行き着く先は禁足の里と古城だけだ。武装した自行車を相手に、危険を犯してまで追う判断はないだろう、そう踏んでいた。

 裏を返せば、いずれ必ず、まとまった兵を寄越す筈だ。

 ミストは、揺れる車両の窓から眼下の森を見つめていた。操縦桿を任されていなければ、エルルもそうしていただろう。

 最後尾の車両には、ラーズとロタを除いた第八特技研鑽房の四人と、サハルの女性士官が乗っている。ディースの側近の一人で、褐色の肌と銀の髪、豹の目をした美しい女性だ。

 車両を強奪して乗り回したエルルたちに対し、ディースは面白がって車両を下賜した。女性士官はお目付け役と云うより、操縦補佐として乗り合わせている。

 際どい道幅のすぐ外は、垂直に落ちた断崖。空を仰ぐような傾斜に、人頭程の岩塊が転がった路面。エルルは幾度か車輪の他に備えられた脚を使って、斜面を這い登らなければならなかった。

 乗り合わせた皆の口数は少ないが、欝々としている訳ではない。路面の粗さにげんなりしていた。ミストは多少の慣れもあったが、フェリアとカーラは既に目が虚ろになっている。

「明るくなってきた」

 ミストが呟いた。

 ロタがこの車両に乗り合わせていないのは、判断を自分たちに任せたのだ。ミストはそう考えている。それが正解であろうと正反対であろうと、ミストは自分に従うと決めていた。

 フェリアとカーラは反対するかも知れないけれど、それでも、アリスを見つけたら助けに行く。

 しかし、アステリアナの樹々は濃く深く、二人の人影はもちろん、山狩りの隊列も見い出せなかった。

 時折、エルルが問うように振り返るが、ミストは小さく首を振ることしかできなかった。

 このまま陽が現れれば、逃走はますます不利になるだろう。

 計画を聞いたミストとエルルは、唯一の救いを知っている。逃げ延びるのは場所でなく、時間だ。城が復活するまでの間だ。

 だが、ゼノと云うお荷物に繋がれて、アリスは逃げ延びられるだろうか。


 ◇


 耳を澄ませば呻き声が点々としている。脚を蹴り砕かれた追手たちの悲鳴だ。

 今のアリスに不殺を通すほどの余裕はないが、負傷者で相手の兵員を割くのが狙いだ。

 既に、森の中でも裸眼で充分な明るさがあった。敵兵の姿も遠目に伺える。

 罠を仕掛ける猶予はもうなかった。先程からの連戦も、岩場や樹々の密集する場所を勘で選んで、襲撃を繰り返している。

 アリスの戦闘は、何より敵との距離を縮めることが必須だ。ゼノを軸に、鎖と身体と腕の円周がアリスの行動範囲だからだ。当然、各個撃破に徹しなければならない。

 相手が距離を取ったら逃げ時だ。盾壁術式の無い二人は、銃砲に対して無防備だった。

 アリスは手近の集団に、幹を挿んで回り込み、待ち伏せて懐に飛び込んだ。

 長包を構えた相手は却って御し易い。こちらの得物を持っていてくれるようなものだ。捻って銃尻で顎を打ち、突いて転かせて鳩尾を踏む。

 長包を捨てマチェットを抜いた相手を目の隅に捉え、アリスは辛うじて刀身よりも近くに飛び込んで叩いた。

 上背も厚みもアリスより上だが、相手は軽々と跳ね跳んだ。体躯や剛力が成すよりも、弧を描いて撓るアリスの長い四肢が力を生んでいる。

 頸の逆立つ感覚に、アリスは咄嗟に身を翻してゼノを覆った。アリスの左の二の腕が弾る。銃火の衝撃を受け流せずに甲殻が砕けた。

 甲殻繊維は使い捨ての装甲だ。許容値を超えれば区切られた一節が分離する。圧し固められた硬質の殻は、反動的に瞬時に分解した。

 身体の部位ごとに硬質化しているため、縁に僅かな内着の切れ端を残して、アリスの二の腕は剥き出しになっていた。

 アリスの脇の下から短銃が突き出し、丸めた掌を打ち合わせるうな音を立てた。

 こちらに向いた銃口が震えたのは、兵士が思わず身を竦めたせいだ。兵士の盾壁術式は人の目に追えない弾をすべて止める。

 だが、安堵して笑みを浮かべた兵士の顔に、短銃そのものが飛来した。術式に阻止されない速さで当たって、昏倒させる。

「撃ち合いは野蛮だな」

 ひっくり返った兵士を眺めて、ゼノが言い捨てた。アリスには応える言葉がない。

 正真正銘、野蛮な雄たけびが轟いた。

 唸り声とも鼻息ともつかない音を立て、全身鎧の大男が迫って来る。およそ山狩りに向かない重装備だ。

 同様の鎧姿が数名、かなり後ろに続いていた。さすがに、こちらは息を切らしている。大きな長筒を杖代わりにしているところを見ると、鎮守に対抗する部隊かも知れない。

 対峙したその鎧の男は、長身のアリスでさえ子供のようだった。

 しかも、分厚く暑苦しい。鎧の隙間から湯気立つ熱気を吹いている。流石のアリスも口許を引き攣らせた。

 巨躯の兵士は、アリスに駆け寄りざま槌を振るった。端から加減する気はないようだ。身を躱したアリスの頬を風が殴る。樹の幹が抉れ、木片が散った。

 身体を折り、転がるように両手を地に着いて、アリスは大男の膝横を蹴り上げた。自ら動いたのか、蹌踉めいたのか、大男が傾ぐ。だが、そのままの勢いでアリスに向かって槌を薙いだ。

 弾かれて退るアリスの右脚から破片が散った。堪らずそのまま膝を着く。腿の甲殻繊維が裂け飛び、脚の付け根から膝までが剥き出しになっていた。

 槌を振りながら大男が追る。鎖が張るのを感じたアリスは、咄嗟にゼノに向かって転がった。

 振り下ろされた槌の火花は、岩と鎖に飛び散った。ゼノが何気に右手を振って、手錠の鎖を槌に絡めた。

 鎖が張っても、大男は槌を離さない。それどころか、力任せに振り払った。

 ゼノの身体が宙に浮く。アリスは引き摺られる前に跳んだ。重さの方向が異なる二つの錘が鎖を捩じり上げ、大男の手から槌を弾き飛ばした。

 アリスは地面を擦って降りたが、ゼノは勢い転がった。

 大男が振り返りざまアリスに飛び掛かる。転がるゼノが鎖を引いて、アリスの半身を引き倒した。大男の腕が宙を掻く。アリスはそのま身体を捻って地面を突いた。大きく踏み込んで大男を擦り抜ける。

 立ち上がろうとしていたゼノは、鎖に引かれて踏鞴を踏んだ。飛び跳ねるように引き摺られる。身体は大男にぶつかって止まった。鎧の隙間から見下ろす男と、目が合った。

「こっち見んな」

 ゼノが左手を振ると、飛んだ土塊が大男の目を直撃した。

 男が罵声を上げて目を擦る。兜の下には手が届かない。見えないままゼノを追って闇雲に腕を振り回した。

 アリスが背後から飛び込んで、大男の頸に掌底を叩き込んだ。火花が散る。振る腕を避けて、もう一打。獣のように吠える大男に三打目を叩き込んだところで、出し抜けに男は脱力した。

 巨体がようやく地面に落ちた。

 ゼノの許に駆け寄りながら、アリスは空になった魔導管を手首から振り落とした。

 息を切らせた全身鎧の後続が、歩くような速さで近づいて来る。見渡せば、四、五名から成る部隊が、幾つも樹々の合間に蠢いている。

 不意に、ゼノが宙を見上げた。枝葉に覆われたそこに空はない。何かの気配を嗅ぎ取るかのように、辺りを見渡している。

 傍らの幹が破裂して煙った。いよいよ、盾壁術式がないことを気取られたようだ。

 アリスは鎖を引いて走り出した。最初の音を追うように、破裂音が意気込んで重なる。二人に意識が集まって来るのを感じる。

 背中に樹の幹を挿みながら、包囲を排して戦える場所を探した。その焦りが、アリスの目測を誤らせた。遠くに聞こえた風と水音を忘れていた。

 二人の耳を瀑声が打った。重なる枝葉を潜り抜けた先は、地面が垂直に立ち消えて、そのまま空に繋がっていた。岩から吹く水が遥か眼下に落ちて、白い水煙を上げている。

「これは少しばかり覚悟が要るな」

 アリスを盾にするように、ゼノが肩越しに滝壺を覗き込んだ。

 アリスは荒い息を吐きながら、呆然と切り落とされた足許を見た。ゼノの示した場所は近い。地図の上なら目と鼻の先だ。この高低差を無視するならば。

 地図で見た通り、およそ人が降りられるような足掛かりはなかった。伺うと、頬が触れるくらい近くで、ゼノは崖下を覗き込んでいる。

 この鎖で繋がれた状態で、底の知れぬ滝壺への投身は、助かる確証がまるでない。崖の縁を樹々に隠れて這い進めば、あるいは逃れることも可能だろうか。

 だが、見つかれば逃げ場がない。アリスは無意識に唇を噛んだ。

 足留めする者がいれば別だ。

「逃げて」

 囁くと、アリスは喉で呼吸を抑えた。ゼノを押し退け、岩の足場に膝を着く。左腕を肘から岩に押し当て、背のマチェットを抜いて切っ先を腕の向こうに突き立てた。

 鈍い音がして、弾かれたマチェットが宙を舞った。

 黒い刀身がひらひらと滝壺に消えるのを、アリスは呆然と見送った。

 蹴り上げられた右手が痺れている。頸が反った。ゼノがアリスの束ねた髪を掴んで、無造作に引き摺り上げた。

「痛いのは嫌だって言っただろう」

 間近でゼノが囁いた。何処にこれほどの力があったのだろう。アリスは苦しくて声が出ない。何より、静かに怒るゼノが怖かった。

 無数の足音が近づいて来る。

 ゼノは舌打ちしてアリスの身体を掻き抱いた。

「生きていたら、お仕置きだ」

 身体ごと胸に強く押し付けられ、アリスは呼吸さえままならなかった。ただ、ゼノの声を虚ろに聞いている。不意に、足許の失せる感覚に震えた。


 ◇


 落ちた水滴が散るように、空に鳥影が拡がって行った。辺りは一瞬、仄暗くなり、その暗さがいつまでも続いた。それが、この場所の本来の明るさだった。

 鏡の塊は既になく、光を吸って固まったかのような、石造りの古城が眼前にあった。音が、水気が、風の流れが、先ほどまでと全く異なっていた。

 城は、動き出していた。嘆息とも歓声ともつかぬ声が、周囲から洩れ聞こえた。

 ヨハンナさえ、その光景に震えた。顧問官は操作盤に手を添えたまま佇んでいる。夜を徹した施術は際限なく身体を苛んでいる筈だ。だが、その痛みさえ彼を祝福している。

 顧問官は石橋に向かってゆっくり歩き出した。左手の袖を少したくし上げ、手首を確かめる。十年前から掠れもしない印がある。最後の課題が確かなら、ここを通れる筈だった。

 耳を澄ませ、聴こえない鐘の音を確かめると、彼は小さく息を吸って石橋に踏み出した。

「顧問官」

 ヨハンナが珍しく冷静さを欠いた声で呼んだ。彼女は石橋の前で立ち止まり、探るように手を前に出したまま立ち止まっている。やはり、ここを通れるのは印のある者だけのようだ。

「副長、計画通りに」

 振り返り、セレン・ギースベルトはそう言った。

「殿下が着いたら来るように言ってくれ。私たちは時間を取り戻さねばならない」

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