クラウス・カイエン

 セレンは石造りの箱に囲まれた中庭を見下ろした。突き抜けた眼前の空の青に、鳥の影が点々と見える。ここは良い風が吹いていた。

 セレンの荷作りは他より早く終わっていた。むしろ、早々に諦めたと言うべきか。今はただ、明日の下城を待つだけだった。明日の今頃は、再び堀を渡っている筈だ。

 気付いた課題は未解決のままだが、形のあるものは城から持ち帰れない決まりだ。それでも、例えどんな手段を使っても、答えは見つけるつもりだった。

 セレンは中央塔の物見台を後にして、中庭に降りた。

 隅の畑にドライが見える。珍しくツヴァイと一緒に野菜を摘んでいる。この城の食事も、当面は、忘れられないだろう。食事は味の記憶だけではない。

 渡した石を踏んで広前の階段を登ると、言い争う声がした。テラスに人影がある。サイグラムとノインだ。

 緊張し、ぎこちなく歩み寄り、やがて寄り添うようになった二人にも、期日が迫っていた。

「城から出たら、この子たちは死ぬよ。でも、それが自然の理だろう?」

 いつかゼクスはそう言って、セレンやサイグラムを乾いた不安に包んだ。

「でも君は、何度も城の外に出ているんだろう?」

 渉外の役割について訊ねると、ゼクスは肩を竦めて見せた。

「そんな身体だ。仕方がないじゃないか。世界で僕だけが理に反しているんだ」

 何とも云い様のない顔をして、笑った。

 以来、サイグラムは焦りを隠せずにいる。

 この城に住まう使用人は、人と異なる時間を生きている。それは如何ともし難い事実だ。

 二人の会話は聞こない振りをして、セレンはテラスを横切って大広間に入った。

 ところが、ここにも諍いがあった。

 天まで抜けた大広間は、余りに高く、声こそ余計に響かないが、レイズが城主に向かって一方的にまくし立てているのは見て取れた。

 下城の日が迫るにつれ、レイズの荒れ方は酷くなっていた。夢見が悪いと言って酒に溺れ、それが一層の悪夢を呼んで、余計に眠れぬ夜が続いていた様子だ。

 フィーアに風呂桶に蹴り込まれ、レイズは辛うじて正気を保っていた。

 もっとも、一番の犠牲者は城主だ。彼はレイズの支離滅裂な世迷言を辛抱強く聴いている。じゃれて齧り付く猫をあやすような慈愛だろうが、もはやレイズは虎だ。

 レイズがここに来た理由は察している。帰る場所がないことも。皆、彼女に居場所を申し出たのだ。この城以外は。無論、それには理由もある。

 アインスがセレンに会釈して通り過ぎた。主に噛み付くレイズを止めも諌めもしない。もはや、彼女に慣れている。

 いつもなら、フィーアがレイズを諌めて連れて行くのだが、今は下城の準備もあって忙しいのだろう。奥の柱の日捲りには、もう一の数字が残っているだけだ。

 中央塔、食堂、大浴場。日捲りは城に幾つかあるが、正確な暦は機械室の機器の中、つまりはこの城自身にしかない。時のない住人には必要がないからだ。

「レイズ、何にしたって僕たちは、明日にここを出て行かなきゃならない」

 腹を括って、セレンが割って入った。魔女の意外な為人は知っているが、荒れたレイズは扱いが難しい。

「放っておいて。役に立たない魔術書でも暗記していなさいよ」

 案の定、噛み付かれた。

「セレン、彼女の問いは興味深いものだ」

 城主は、大丈夫だと応えるように、セレンに頷いて見せた。

「目的のない魔術の追求に意味はあるのか、だったね」

 城主は黒と銀の混じる髭を、拭っても取れないインクの沁み込んだ指先で弄んだ。

「自己満足以上の意味はないな。ただ、ここでは誰の同意も必要ない」

 レイズが詰め寄る。幅の広い城主の机に、伸し掛かるように半身を乗り上げて迫る。

「本当に自分で望んだこと? 望んで続けていること?」

 言葉を重ねるレイズの背中に、不意に鐘の音が降った。中央塔の柱壁のありこちから、重なるように響き渡った。

 セレンは思わず辺りを見渡した。レイズさえも、訝し気に首を巡らせる。

 計算して配置すれば、音はこうも響くのか。呆然としながらも、セレンは割れるような大音響に思索を彷徨わせた。

 茶器のワゴンを押したアインスは、はてと耳を傾けてから、徐に城主の方に踵を返した。ワゴンもそのまま押して行く。

 城主の机の傍には、金属管を束ねた柱が立っていた。それは各所に配置された伝声管だ。ひとつは機械室に繋がっている。

 尾部の震えた鈍い音は、そこから鳴った。

「誰か外に出た者はいないか、客人の中で」

 ジーベン若しくはアハトのくぐもった声がした。

 セレンとレイズが顔を見合わせる。

「俺は機械室にいる。皆は」

 同じ場所からディースの声がした。

「何があったんですか?」

 テラス側からサイグラムが声を上げた。鐘の音を聞いて大広間に駆け込んで来る。蒼褪めたノインの手を引いていた。後ろには、ツヴァイとドライの顔も見える。

「広間に行って来る」

 伝声管の奥でディースの声がして、声が途切れた。背後で微かに声が飛び交っている。

 正面の扉を抜け、フィーアが飛び込んで来た。大広間を見渡しながら、城主に駆け寄る。目礼で許可を得て、伝声管を掴んだ。

「試験認証は揃っています。橋を渡った者はいません。機械室、報告を」

「境界侵犯の凍結の警報だ。あれとは違う、と思う」

 双子の一人が早口で応えた。フィーアが眉を顰めて先を促そうとする。

「ちょっと、どうなってんのよ。あたしたち、ちゃんと帰れるんでしょうね」

 レイズが噛み付いた言葉は、皮肉以外の何物でもなかった。いつもの調子て食って掛かかったのは、案外、フィーアの顔を見て安堵したからかも知れない。

 伝声管に耳を傾けたフィーアが、レイズに声を抑えるよう、唇に指先を当てて示した。鐘の音は随分控えめになったが、いまだ警鐘は鳴り続けている。

「皆、いるって」

「じゃあ、誰が外に出たんだ」

 伝声管から双子の会話が響いて来る。階下からディースとツェーンが駆けて来た。

「今、二人が原因を調べてる。誰かが外に」

 ディースが皆を見渡して、言葉を呑み込んだ。

 使節団は全員揃っていた。問うような目を向けるディースに、セレンをは首を振った。

 鐘の音が鳴り止んだ。唐突に訪れた静寂が、却って耳を痛いほど圧迫した。

「止められるやつで良かった」

 ジーベンもしくはアハトの声が、伝声管を震わせた。

「時計が狂ったかと思ったよ。でも、誰も外に出ていないとなると、よく調べてみないと」

 誰かが詰めた息を吐き出した。微かに空気が緩んだ。

「止められるやつって、どういう意味ですか?」

 ふと、サイグラムが不安そうな顔で訊ねた。

 セレンは城主に、次いでフィーアに目を遣って、彼女が誰かを探しているのに気付いた。

「何があったんですか、今の警報ですよね?」

 フュンフが息も絶え絶えに広間に駆けこんで来た。

 一斉に集まった視線に驚いて立ち止まる。困ったように辺りを伺いながら、歩調を落として近づいて来た。

「皆さんが帰るの、明日ですよね。凍結するの、早くないですか?」

「皆さま、お茶になさいませんか?」

 アインスが何事もなかったように声を掛けた。

 この騒動さえ、せいぜい強い風が吹いたほどにしか受け止めていない様子だ。右手には、既に湯気の立つポットを掲げている。

「まさか」

 サイグラムが声を上げた。城主の机に向かって駆け出そうとする。ノインが察してサイグラムの腕を掴んだ。縋って激しく首を振る。

 セレンとディースは密かに顔を見合わせた。レイズが気づいて眉を顰める。

 その時、二度目の鐘が鳴った。

「ジーベン、アハト」

 打ち鳴らされる鐘の音の下、フィーアが伝声管に向かって呼んだ。怒号のよう反響が、管の向こうにも飛び交っている。

「本物だ。ここから皆を出して、早く」

 伝声管から飛び出した言葉に、フィーアが息を呑んだ。

 城主が腰を上げた。セレン、ディース、サイグラム、そしてレイズに視線を渡して声を上げる。

「城を出なさい。最初で最後の課題だ」

「早く」

 鐘の音に立ち尽くす四人の頬を張るような声で、フィーアが退出を促した。

 身体が酷く重くなったような錯覚を覚えながら、セレンは足を引き摺るように後退った。使用人たちが口々に四人を急かしていた。

「厭だ」

 サイグラムが言い放った。

「だめ。早く、行って」

 ノインが絞り出すように言った。必死にサイグラムの身体を押し遣る。

「ノイン」

 サイグラムは口を開いた。開いたのに続きの言葉が出ない。一緒に行こう。僕はここに残ろう。ひとつの喉が両方の言葉をに詰まって引き攣るような音を立てた。

 ノインはセレンとディースに目を向けて、サイグラムを連れ出すよう懇願した。

「聞き分けろ」

 ディースが叫んでサイグラムの腕を掴んだ。暴れるもう一方をセレンが抱えた。

「レイズ、きみも早く」

 叫んでサイグラムを引いて行く。

「さあ」

 城主がレイズを促した。レイズは胸元で腕を組み、正面から城主を睨め付けた。

「あなたも一緒に」

「馬鹿なことを。早くしないと、この城に囚われるぞ」

「そう」

 レイズは挑むように城主を睨んだ。

「あなたみたいに?」

 セレンが最後に大広間を振り返ったとき、ツヴァイとドライはアインスの指示でテラスの扉を閉めているところだった。フュンフも同じく指示を受け、書架の梯子をよじ登り、フィーアの指す窓の封を確かめていた。

 ジーベンとアハトは機械室で奮闘しているようだ。伝声管からひっきりなしに音が聞こえている。

 ノインは床に伏して泣いていた。ツェーンはその肩を護るように寄り添っている。

 城主とレイズは対峙して言い争っていた。その傍にいるフィーアは、何故かレイズを止めようとしなかった。

 フィーアはセレンに気が付くと、目礼を返して微笑んだ。その唇は、ここにいない者の名を呟いた。

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