汎歴一四四三年
宵闇
夜の帳が天辺の陽を覆い隠すと、鉄の軌道の脇に立つ外灯が、徐々に灯を燈し始めた。
空は完全な黒でなく、地平の先は薄ぼんやりと蒼い。古い詩からから詠み替えて、天中の黒を月、地平の蒼を星と呼ぶこともある。毎日の夜の風景だ。
無支配地帯の南西に位置するこのサテラ・バンドゥーンは、界隈でも最大の車両基地だった。発着、換装、車両の整備は、この時間でもまだ間断なく続いている。
とは云えこの頃合いにもなれば、貨物の仕分けは夜便を除いて仕事を収め、手の空いた駐留組も飯と酒を求めて流れ出している。これより暫く、基地周辺の食事処は何処も一杯だ。
第八操車場の外れにある煤熊亭も、そんな飯場のひとつだった。ダンカンと云う名の羆の如く厳つい主人が厨房を仕切り、数人の店員が皿を掲げて走り回っている。
主人の見掛けに依らず、料理はそこそこ質が良く、酒も甘味も一通りあって、旅客に穴場を訊かれた折には、取り敢えず名の挙がる店だった。
汎テランフロンタにほど近いバンドゥーンだが、それも広域地図でのこと。国境を接するネイエ自治圏にさえ、二日は掛かる岩山の原野にある。
バンドゥーンの周囲には何もない。施設も勤務者の生活維持が目的で、けして旅客に優しくはない。だが、代り映えのしない車内食に飽きた客には、気晴らしが必要だ。
その日も嵐のような書き入れ時を過ぎ、呑み客が主になり、彼らもまた、ひとりふたりと帰る頃。店には噂を聞いたと思しき早朝発の旅客が、ちらほらと居残っていた。
店の片隅に陣取り杯を傾ける女も、どうやらその一人らしい。若く身形も良いのに連れがおらず、退屈か鬱憤か、呑み方は相当に荒かった。呑む内に襟元が着崩れ、傍目にも危うく見え始めた。
普通の店なら人だかりもできようが、あいにく、煤熊亭の厳つい主人はその辺りが厳しい。女娼男娼も店内での客引きは禁止だ。もし騒動を起こそうものなら、裸に剥かれて始発路線に放り出されてしまう。
ところが、どうやら女は尻に根が生えたようで、帰り時を狙っていた他の客も、遂には痺れを切らして引き揚げ始めた。客はあらかた常連だけになり、走り回っていた店員も、住み込みの一人を残すだけとなった。
客席に出ていたその店員は、怠けはしないがゆるゆるとテーブルを片付けている。長身だが、背を丸めるのが癖のようだ。四肢が細く長いせいもあって、風で曲がった案山子のように見える。
名をゼノと云う。所持金不足のため働き手になった、元は客だ。物知りで要領も良いのだが、少々惚けたところがある。まめまめしく店を片付けている風に見えて、実は厨房の皿洗いから逃げ出していた。
空の盆を片手に、ゼノは独り呑みの女の傍を通り過ぎた。不意に、ゼノの襟首に白い手が伸びた。喉元が締まって咽返る。後ろにたたらを踏んで、引き摺り倒されるように尻餅をついた。
襟が締まって声が出ない。じたばたともがくゼノの肩に、酔った女は顎を載せた。身を寄せ、酒気を含んだ吐息を洩らす。
「ねえ、列車まで送ってくださらない?」
酒精で目元を朱に染めた女は、そう言った。吐息が火のように熱く、生の酒の匂いがする。酔った頬が火傷しそうなほど近かった。
ゼノがかくかくと必死に頷いたのは、ともかく息ができなかったからだ。突き飛ばされるように放されても、しばらくは床で息を整える必要があった。
「外は寒いし危ないもの」
女が言葉とも吐息とも分からない囁きを投げる。寒いのは関係ないよね、とは口に出さず、ゼノは曖昧に応えた。立ち上がり、襟元を整えようと伸ばした腕が掴まれた。酔っているせいか、女の力は意外なほど強い。
「それにね。お財布が列車の中なの」
必要以上にお顔を寄せて女が言う。濡れた上目遣いが艶めかしいが、それどこれではない。今、とんでもないこと告白された。
「店長、店長」
しな垂れ掛かる女を半ば引き摺るように、厨房に向かう。管を巻く常連客がゼノの有様を見て囃し立てるが、彼にしてみればそれどころではない。債務の肩代わりに働く身の上だ。降って湧いた災難に、余計な荷まで負うのは御免だ。
ダンカンが何事かと厨房から顔を出した。伸し掛かるようにゼノを見おろす目つきが既に怖い。
ゼノは早口で状況を喋った。女の吐息に咽て何度か咳き込んだ。ダンカンの手にした杓文字が折れそうだ。思わず自分の腕と見比べた。
「行って来い。取り逸れたら借金に上乗せするからな」
バンドゥーンを一週するほどの間を置いて、ダンカンはそう言った。
ランタンを手に二人が店を出た頃、天中はとおに暗闇で、地平の陽炎は遠い稜線を微かに浮き上がらせていた。濃い闇の落ちた地上には、点々と続く外灯の光り溜まりと、燃え立つように揺らめく操車場の照射灯だけが浮かんでいる。
砂利を踏む音、混凝土を踏む音。普段ならばこの辺りは、土埃と鉄と油と木屑を焦がしたような触媒の匂いだけだ。今はゼノの右手を絡め取った女の甘苦しい香りが鼻腔に痛い。
「ここには長いの? 店員さん」
我儘な酔客が身を寄せて来る。これ以上くっつけないくらい、くっついている。普段なら役得と喜ぶところだが、酒代を盾にされては気が重い。
これ以上、馬鹿げた借金は負いたくなかった。汎テランフロンタを起こしたのは、借金返済のために身を立てた英雄だが、自分に債務王ほどの才覚はない。
「半年ほどかな。店長に拾って貰ってから」
「拾って貰ったって何さ、猫みたいに」
女がころころ笑った。艶だが品は悪くない。むしろ強いて崩している気がする。
「当ての財布が消えちゃって、自分の餌代を稼いでいるところ」
肩に頬を預けるほどに近く、女がゼノの眼を覗き込む。
「なら、私が飼ってあげましょうか?」
女は酒精の吐息でゼノの前髪を悪戯に吹いた。癖のないゼノの髪は、目に掛かるほど伸びていた。その下にあるのは、子供のような瞳だ。
それを見たくて、女はゼノの前髪で遊んだ。顎に無精髭はあるものの、造作は悪くない。調えればむしろ目を引くだろう。
動力車が蒸気を空に吹いた。夜間便の発車調整だ。
「急がないと、拙くない?」
「そうね。外は寒いし、ここで寝るのは硬くて厭だわ」
内心、ゼノは途方に暮れていた。
抱え込まれた右腕を包む柔らかさ、寄せた頬の温もりと熱い吐息。これは重大なトラブルの前兆だ。だが、どうせ逃げ場がないのなら、いっそ甘美な毒餌だけでも喰わねば損ではなかろうか。
ゼノがそう思い始めたとき、不意に背後の闇から手が伸びた。それがゼノの首筋に触れるや、小さな破裂音と火花が散った。
ゼノの身体が糸の切れた人形のように落ちた。砂利が乾いた音を立てる。酔っていた筈の女は、寸前に絡めた腕を解き、引き摺られることもなく平然と傍らに立っていた。
「アリス、早い」
女が闇に向かって舌打ちした。つい今しがたの酔った風情、甘えた仕草は何処にもない。砂利の上に転がったランタンの光り溜まりに、無骨な長靴が進み出た。上背のある人影だ。闇の半分が彼女を余計に大きく見せている。
まだ一〇代後半の少女だが、同性はもとより、大抵の男に並ぶ長身だった。胸や腰の肉付きは良いが、四肢が長いため全身の均整が取れている。威圧感のある体躯だが、獣ようにしなやかだ。
「副長が、近かったので」
少女の訥々とした声は、低いが齢相応だ。副長と呼ばれた酔客の女が、アリスと呼んだ少女を睨め付ける。
アリスの差し出した外套を羽織りながら、「副長」は引っくり返ったゼノを見おろした。爪先で小突いて意識を確かめる。
「近いって?」
再度、アリスを見上げて言った。踵を上げて鼻先を突きつける。
野戦専門にも関わらず、アリスの肌は真っ白だ。眼は怜悧で切れ長。美人だが無口で無表情。その体躯も相まって、初見は例えようもなく威圧感がある。
だが、その見掛けとは裏腹に、アリスは控え目で奥手で温厚だ。長考が過ぎて目を開けたまま寝ているのかと思う時すらある。
信じられないが、これが拳で相対せば上官の肌も粟立てるほどの猛獣だ。
「いいかげん、酒にも男にも慣れな」
酒気に後退るアリスを鼻で笑って、「副長」は囁いた。演技とは云え、酒は存分に楽しんだ。標的は思いの外可愛らしくて、アリスが手を出さなければ、先を考えなくもないほどだった。
伸びたゼノを見おろして呟く。
「しかし、こいつが本当に、あの城を氷漬けにしたってのか?」
無支配地帯の深部にある魔術師の古城は、この男のせいで誰も立ち入れぬ有様だ。その麓の集落さえも、今は滅びて廃墟を晒している。
一帯は今や禁足の里と呼ばれていた。表立っては何人も立ち入れぬ場所だ。
一〇年前、当時その城には周辺四ヶ国の魔術師がいた。彼らは故国発展の礎となったが、この男の起こした災禍によって、帰らぬ者さえ出たと云う。
アリスが憮然と喉の奥で唸った。人目に付かないうちに引き上げようと云うのだろう。
「あんたが列車まで運びな」
「え?」
目線の上にある肩がびくりと跳ねる。男に触れたこともないのだろう。
「無駄にでかいんだから、それくらい役に立ちな」
アリスを見上げて「副長」は猫のように笑った。
急かすように、闇の向こうの発着場から短い警笛が鳴った。
「ほら、さっさと担げ。これから長旅だからね」
「副長」は踵を返して歩き始める。その背中と、砂利に拉げた男を交互に見て、アリスは独り途方に暮れた。
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