レイズ・バレンシア
下城のまでの折り返しを過ぎた。
セレン、ディース、サイグラムの三人は、熱に浮かされたような毎日を過ごしている。
以前にも増して、セレンは魔術書を読み耽り、ディースは動力室に入り浸り、サイグラムは二人に付いて回りながらも、ノインとのぎこちない時間を育んでいる。
夕食を終えて夜ともなれば、セレンとディース、時にはサイグラムや城主まで巻き込んで議論を始める。サイグラムはともかく、青臭い学生の如く騒いでいる。
鬱陶しいことこの上ない。
レイズはたいてい、誘いを足蹴にして逃げる。捕まれば彼女も只では済まない。
連中はレイズを仲間か何かだと思い込んでいるのだ。幾度、猫の尾を踏んだような騒動を起こしてやっても、懲りずに何度も引き込もうとする。
そもそも、ここは流刑の地だ。レイズが使節団に投げ込まれたのは、正魔術院の疵を隠すため。彼女を遠ざけようと仕組まれた罠に他ならない。
レイズが不在の一年で、彼女の帰る場所は確実に掃き清められてしまう。城に送られたその日から、レイズの居場所はもうどこにもない。この城で何かを得たところで、意味はないのだ。
もとより、無秩序に書き散らされたこの城の魔術書は、およそ実用的でなかったし、城を維持する技術は工業化に適さない特殊なものばかりだ。
レイズは早々に見切りをつけて、一年を無為に過ごそうと決めていた。
厨房のドライ夫人やツヴァイ、機械室のジーベン、アハト、執事のアインスまで、酒と無駄話に付き合わせて日々を過ごした。
たまに俗世の匂いを嗅ぎたくもなり、使節団の三人をからかうこともあったが、語ればいつの間にか魔術論になってしまう。
それが馬鹿ばかしくて、彼らを自分から誘うのは止めた。
俗世と云う点では、渉外で外に出るゼクスを付き合わせたこともある。彼ははレイズより見識が広かった。空間的にも、時間的にも。
ただし、彼の話は出鱈目が酷かった。事実と伝承が入り混じり、ともすれば百年単位で取り違えている。それなりに楽しい法螺話ではあったが。
ゼクスは長く城に居つかず、たまに見掛ければフィーアに叱られていた。
僕はこの城に繋がれていると、ゼクスは自嘲気味に溢していた。
酔い潰れたゼクスから拝借した酒蔵の鍵は、しばらくレイズの役に立ったが、そのうち、酒に規制が掛かり、安酒さえ隠されてしまった。
暇を持て余したレイズは、それ以来、日がな一日、怠惰な猫のように過ごしていた。
その気儘な放浪を経て辿り着いたのが、大図書館の長机だ。
レイズは、その一画を自分用に整えて居座った。心地の良い椅子を選んで運ばせ、敷物と照明と専用の棚を誂えた。フィーアとはひと悶着あったが、天蓋付きの寝具を妥協したのだと言い張り、おし切った。
大図書館の冷えた空気は、常に紙とインクと埃の匂いに満ちていた。ここで騒ぎ立てる者もいない。レイズの座る椅子からは、常に視線の隅に城主が入った。
数多の伝説や御伽噺に謳われる魔術師から、この城を受け継いだ男だ。
だが、その彼が日々何をしているかと云えば、ただ黙々と魔術書を紐解いているだけ。
ひたすら書いては、眺めて消して、また同じことを繰り返す。黒髪の美姫と竜を駆るわけでもなく、一国の軍隊を一瞬で焼く尽くすべく戦場に出掛ける気配もない。
それどころか、レイズに声を掛けることすらなかった。
ふと見上げると、書架の間に造り付けた明り取りが、広間に光の帯を投げ降ろしていた。
窓と反射が巧みに組まれた中央塔は、思いの外、明るい。まだ途中の魔術書を傍らに押しやって、レイズは大きく伸びをした。
城主はずっと魔術書に取り組んでいる。
レイズは何気に自分を眺めた。
身に着けているのは、頸と胸元がひと続きになった衣装だ。肩はつるりと剥き出しで、深く切ったスカートからは、少し余計に素足が覗いている。
素材や仕立ては変わっても、概ねいつもの格好だ。ここで魔術書を触るようになってから、精々袖付きの手袋を着けているくらいだ。
この城で彼女の身形を気に掛けるのは、皮肉なことに、規律でできたフィーアだけだ。あと、ノインとツェーンが時折覗き見る程度。張り合いがないこと、この上ない。
一方で、それが少しばかり心地よくもあった。
本来、レイズの天賦とは、資質と知性に他ならない。蠱惑的な外観は単なる付属物だ。ここでは、皆がそれを知っている。
魔術師の才と云う意味で、レイズは使節団の誰にも劣らなかった。むしろ、資質は誰より秀出ていた。
レイズは名も無い家の生まれだ。だが、持って生まれた資質のお陰で、幼い頃から工房に働き口があった。
工業化に至らぬ施術や、魔術開発の試験役を務める、下働きの魔術師だ。原理魔術師、原始魔術師と呼ばれており、身分は低い。資質さえあれば、術符を読める知識があれば勤まる職だからだ。
だが、レイズには知性があった。見い出したのは、工房主を務める魔術師だ。彼はレイズの導師として、自らの工房に彼女を招いた。
資質と知性、それは魔術の両輪だ。何より彼女が優れていたのは、知の探究に喜びを見い出せたことだ。
魔術書の要旨を読み解くなど造作もない。ゆえに、レイズは城の蔵書を無意味だと感じた。ここにあるのは、定石に従わず、基礎に囚われず、実用性をまるで無視した代物だ。工業化を前提としない研究など無意味だ。
彼女もまた、魔導工学に従事しており、その賢しさゆえに、セレンの越えた壁に気付かずにいる。だが、そう嘯くレイズに、城主は言った。
「赤子に向かって、おまえは何者だと訊くようなものだ」
腹を立てたレイズは、以来、事ある毎に城主に噛み付いていた。繰り返すうち、日課になった。あろうことか、サイグラムにじゃれていると揶揄されて、レイズはようやく我に返った。
とは云え、態度を変えた訳でもない。使用人に怠惰が染るとフィーアに責められたからでもない。何とはなしに、城主の手伝いをするようになった。
だらだらと過ごすのに飽きただけだ。
初め、城主の傍にはフュンフが控えていた。指示された本を探しに行ったり、記述道具を集めたりするだけの、手伝いだ。
活発な少年には懲罰的な役割だった。あまりに所在なげな姿が鬱陶しくなり、レイズはフュンフを追い出して、その役割を買って出た。
ただ、わざと椅子を軋ませたり、身体を伸ばす折に覗き込んでも、城主はなかなか用事を言って来ない。暇を持て余して魔術書を眺めるも、ふと我に返って、暇で本を眺めるなど焼きが回ったものだと、自分に愕然とした。
下界のレイズの行動には、冷笑と忌避と恐怖が常に付いて回った。ここにはその緊張感がない。それを取り戻したい訳でもないのに、何か物足りない。
自分はいったい何をしているのか。
椅子の背に撓垂れ掛かかり、ぼんやりと視線を彷徨わせる。中庭に続く硝子扉の向こうに、ドライ婦人と連れ立って歩くノインが見えた。
サイグラムが思い悩む以上に、ノインは苦しんでいた。レイズはそれを知っている。
日課を忘れたツェーンを追いかけ回し、方々散らかす客人の世話を焼き、皆に休憩の茶を淹れて廻る時も、ノインは無理に微笑んでいる。
夜の厨房に忍んだ際、レイズはドライに縋って泣くノインを見た。
どうすればよいのか分からない、どうしたいのかも分からない。そう言って泣くノインを覗き見るうち、運悪く巡回のフィーアと鉢合わせた。
声を出さぬよう指を立てたまま、フィーアはレイズを追い払った。鼻を鳴らして退散したものの、彼女の唇もまた、硬く結ばれていたのを知っている。
二人は生きる世界も、時間も違う。
レイズは振り払うように大きく伸びをした。四肢を突っ張ったついでに首を巡らせたが、黒と銀の髪は相変わらず動いていない。
体格は良いのに、机に向かえば猫背気味。積んだ魔術書を紐解きながら、まめに筆を走らせている。
この人も、使用人と同じ時間を生きている。人より長い人生を、ずっとこうしていたのだろうか。自ら望んだことなのだろう。だが、それは好んでのことだろうか。強いて生きることを選んだ者は、それが消えても、自ら強いる。人はそれを呪いと呼ぶのだ。
レイズはとうとう痺れを切らした。
椅子を蹴って身体をほぐしながら、ぶらぶらと城主の机に歩いて行った。城主の様子を眺めながら遠巻きに机を廻り込み、背中から覗き込む。
気付いているのに振り向きもしない。いつものことだ。
「なにその術符、面倒ね」
いきなり指摘して、城主の手から筆を奪った。押し退けるように身を屈め、勝手に術式を書き加えて行く。
城主の知識は使節団の遥か先を行く。レイズがそこに辿り着くのは不可能だ。だが、城主が城に引き籠っていた間も術式は進歩している。
雁字搦めに縛られた魔術体系であれ、こちらは生きた魔術を学んで来たのだ。術式の分解、簡易化や自動化、複合化については分があった。
城主はレイズの無作法を許して、筆の先を目で追っている。
「それでは難度の高い術符が五つも入る、確実性が落ちてしまう」
レイズは鼻で笑った。古城の魔術師はけして人知を超えた存在でない。ただ、酷く長い歳月の引き籠りだ。
「これくらい詠めないで、魔術師だなんておかしくない?」
城主が呆然とレイズを見つめる。
レイズは唇の端で嫣然と微笑んだ。
レイズは自身が魅惑的であることを知っている。下界では同性にその腕を振るったが、職務に愚直な筈の男も、他愛無く色情に壊れる様は見て知っている。
閉ざされたこの城で女と云えば、心まで氷でできた女と子供と人妻だ。自分に比べるまでもない。
「力を削ぐのは精緻さを加えるためだ。この記述は優美さに欠ける」
城主はそう言ってレイズからあっさり筆を奪い返した。
レイズは呻いて目を閉じた。この男はきっと石でできているのだ。
城主を骨抜きにされては困るだろうに、皆がレイズに何も言わないのは、これが理由だ。女嫌いと云うよりも、城主の堅さが度を越しているのだ。
城主の焦った顔が見たいばかりに、いっそ直接的な行動に出ようかと思案したレイズは、ふと肩越しに目を留めた。
レイズが乱暴に書き加えた術符が、一部だけそこに残っている。少しだけ効率的に、少し優美さを欠いて、術式が機能している。
気付いたレイズは、知らず微笑んだ。くすぐったくて声を洩らした。城主は変わらず顔を向けようともしないが、それを良いことに、背中で思い切り相好を崩した。
だが、その日からレイズは繰り返し悪夢を見るようになった。
英知に目覚めて以降、レイズ・バレンシアの課題は常に自分が女であることだった。師に見出され、地位を得たが、彼女に対する品のない陰口は止むことがなかった。
自分の価値は知性にあり、魔術への探究心にあると信じたかった。むろん、思い上がっても、いたのだろう。
それでも、毒を捲く輩への抵抗は、見い出してくれた師に実力を持って応えることだと信じていた。純粋に知を信奉するレイズの理解者は、師より他にいなかった。
その日、師はレイズに博士の認可と工房副主任の地位を提示した。
加えて、レイズには、これ以上の地位は相応しくないと告げた。
「このまま私の庇護下にいれば、例え醜聞が事実であっても、攻撃する輩はいない」
レイズはその言葉の理解に努力を要した。
「これ以上学ぶ必要はない。女に磨きを掛ければよい。おまえを見初めたのは間違いではなかった」
レイズの身体を抱き竦める師に、混乱と絶望と怨嗟が吹き出した。
なぜ今なのか。いっそ、右も左も解らぬ頃に、それが目的だと言えば諦めたのに。
レイズは怒りに任せて師を突き飛ばした。自ら胴衣を引き毟り、レイズは刻呪用の鉄筆を自分の胸に突き立た。
抱けるものなら抱いてみるが良い。呪いの言葉を吐きながら、鮮血を吹く乳房を師に突き出して、昏倒した。
治療院で目を覚ましたのは十日も後だ。
レイズはその地位のほとんどを失っていた。師を誘惑して地位を迫り、叶わぬと知るや自害しよう企てた。そう云うことになっていた。
正魔術院は醜聞を忌み、レイズに任意の退院を迫った。
だが、レイズは既に壊れていた。正魔術院が表沙汰にできないことを逆手に、魔術師であり続けた。
レイズは疵を誇示するように、胸元の深い黒衣の施術衣を着た。豊満な双丘を割る引き攣れた傷痕を、衆目に晒して歩いた。
当然の如く孤立したが、やがて、同様に虐げられた女たちが彼女の許に集うようになった。レイズは彼女らの伝手を辿って、高名な為政者や魔術師の奥方、娘、愛人を次々と仲間に引き入れた。
その様はまるで伝承の女魔術師会のようで、ここに至って、レイズは魔女と囁かれた。
急所を握られた正魔術院は、ひとりの魔女の前に無力だった。
そんな折、ワーデンラントの高名な魔術師と、さも気の乗らぬ様子の使者がマグナフォルツを訪れた。今にして思えば、それはゼクスだ。
彼女の師と、静謐なる正魔術院を望む一団は結託し、渡りに船とばかりに、レイズをアステリアナ使節団へと投げ込んだ。
「お加減は如何?」
夜も明けて昼も間近な辺り、寝崩れた寝具の上で呻くレイズを訪れたのは、選りに選ってフィーアだった。
出て行けと声を上げる気力もなく、ただ追い払うように手を振って見せたが、フィーアは冷めた目で無視した。散らかった部屋を見渡し、鼻で笑う。
「魔女が二日酔いとは」
腹は立ったが、口を開けば胃液が喉を焼きそうになる。魔女と呼ばれる自覚はあったが、それは下界に置いて来た。
いわゆる、女魔術師会と呼ばれる、為政者に取り入って禁忌の施術を振った集団は、今となっては都市伝説のひとつだ。
レイズはそれに準えられたに過ぎない。確かに、この城の御伽噺よりは、まだ現実味のある話だが。
レイズが苛立ちを募らせる中、フィーアは悠然と振舞った。
足許に転がるグラスを拾い上げ、空いた酒瓶を纏めて脇机に置く。小間使いを寄越せば済むことを、嫌みな女だ。
もっとも、朦朧とする中、幾度かノインとツェーンの顔を見た気もする。
「放っておいて」
「仰るまでもありません」
フィーアが蔑むように微笑んで応えた。レイズが唸る。体調さえ万全なら、押し倒してひいひい鳴かせてやるものを。
「言あって来ただけのこと。城主が見舞いに来られる前に、そのはしたない姿をどうにかされた方が宜しいのでは?」
フィーアが淡々と告げる。
「ここへ?」
「私は見舞いなど不要だと忠告したのですが」
昨夜のことはよく覚えていない。何となく夕食の折から杯を重ねたような気がする。きっと城主も呆れるほどだったのだろう。
フィーアは胸で腕を組み、溜息と同時に視線を逸らせた。
頭の痛みに顔を顰めながら、レイズは改めて自分の姿を見た。裸だ。脱ぎ捨てようと足掻いたのか、寝返りで捩じれたのか、下着がずれておかしな具合に絡み付いていた。
赤黒く引き攣れた醜い胸の傷痕が剥き出しになっていた。
ノインとツェーンは、これを見てフィーアの所へ行ったのかも知れない。
「知らなかった?」
レイズの問いに、フィーアは肩を竦めた。
「あの娘たちは大人の醜態に慣れていないだけです」
「上司がお堅い感じだもんねえ」
フィーアは嫌味を聞き流し、徐に床に蹴り飛ばされていたシーツを拾い上げると、軍旗を振って舞うように、シーツを片手で宙に拡げて、ベッドの上に放り投げた。
おかしな特技にレイズが呆気に取られる。
「さっさと支度なさい」
のろのろとシーツに絡まり、一通り悪態を吐いてから、レイズは緩慢な動作で起き出した。フィーアは嵐の後のような部屋を手際よく片付けて行く。
「あんたらの城主さまは、何を考えてるのさ」
二日酔いの苦痛か後悔か、欝々とする気持ちを吐き出すように、レイズは独り言ちた。
フォウは一瞥をくれることも、手を止めることもなく、予め用意された答えのように応じた。
「城を出れば解ります」
レイズが鼻を鳴らした。取り払った下着をわざと床に放り投げ、衣装棚を掻き回した。
一通りの片づけを終えたフィーアがレイズに向き直る。
「魔術師の端くれなら、貴方にも」
「わかりたくもない」
魔術師が知の探究に惹かれるのは本能だ。そこには知的な興奮がある。レイズが求めているのは知識だ。混沌の澱から掬い上げた小さな駒を一つひとつ積み上げて行く興奮だ。それは何物にも替え難い。
課題を投げかけた時の悪戯な目、意表を突かれた時の惚けた口許、言葉を返された時の拗ねた表情。城主と話すのは楽しい。
だが、そんなものは副産物だ。レイズの身体と同じ類のものだ。肉塊が生み出す脳の毒素は知の足枷に過ぎない。
不意に胸の疵が疼いて、レイズは息を詰まらせた。込み上げた胃酸が喉を焼く。フォウの手の水差しを奪い取り、何度も呷って嚥下した。
「否が応にも、その時が来れば」
フィーアは静かにそう言って、レイズから水差しを取り上げた。
「ごめんなさい。これ、花瓶用の水でしたね」
レイズはフィーアに殴りかかろうとして、シーツに足を取られて転んだ。
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