サイグラム・アベル

 中央塔の大広間、いわゆる大図書館。胸元に小さなランタンを掲げ、サイグラムは書架の一画で魔術書を手繰っていた。

 就寝時間の今は城内の灯火もほとんどが消え、中央塔も所々に足許燈があるだけで、膨大な書架を見渡す燈はなかった。

 闇の中に延々と続く、鱗のような背表紙の只中に、心許なく揺れる小さな灯。それを切り欠く影は、サイグラム自身だ。

 真夜中の図書館は、ブラウンシュタインでも度々彷徨っていた。サイグラムは自嘲して思う。

 ただし、ただ貪るように禁書を開いた以前とは違う。今は確かな目的がある。どうしても、捜し出したい秘密がある。

 それだけに、見通せぬ暗闇の中に本を探し歩くのは草臥れた。ランタンの僅かな燈に、書名を辿りながら、どうしようもない焦りと不安に駆られている。

 ふと見渡して、伸し掛かるような闇の大空洞に戦慄した。余りにも静かで、無音の耳鳴りがする。ごうごうと鳴るのは自分の鼓動の音だ。

 しばらくして無謀な捜索に見切りを付け、サイグラムは五冊ほど抱えて書架を降りた。両手を魔術書に取られたまま、足許を探るように長机を目指した。

 机上に荷を下ろし、椅子に腰掛けて一息ついた。

「あんた、またやってんの?」

 耳元の声に、サイグラムの身体が撥ねた。叫び声をは辛うじて喉に留まったが、動悸はしばらく鳴りやまない。

 振り返ると、いつの間にかレイズが忍び寄っていた。呆れているのか、面白がっているのか、紅い唇の端が微かに吊り上がっている。

「もうあの娘とも仲直りしたんだからさ、昼間に堂々と読めばいいじゃない」

 レイズは勝手に隣の椅子を引いて陣取った。無造作に身体を寄せて来る。

 サイグラムにとっては、レイズのからかいの言葉より、こうした無作為の子供扱いの方が、よほど始末に悪い。

 レイズの衣装は、頸と胸元を一続きに覆って、肩を剥き出しにしたものだ。その上に掛けた薄手の上着も、しどけなく引っ掛かっているだけだ。スカートの丈は足首まであるが、脚の切り込みは極端に深い。

 身形にも規律を求めるフィーアに対して、真っ向から喧嘩を売っている。

「これは、違うから」

 詰めていた息を吐いて、サイグラムは言葉を返した。レイズに深夜の徘徊が見つかったのは、これで二度目だ。

 最初は城に来てまだ間もない頃。ノインへの無作法な一件が恥ずかしくて、部屋に籠っていた時期だ。皆が寝静まった隙を見て、魔術書を読み漁っていた所を、レイズに見つかってしまった。

「またノインに迫って引っ叩かれたの?」

 そう言ってレイズは意地悪く笑った。

「迫ってなんか、いません」

 焦って頬が熱くなる。

 そう云うレイズは、また酒蔵を荒らしていたに違いない。どうやってか蔵の鍵を手に入れて以来、レイズは今でもたまに酒を目当てに徘徊している。

 酒はもちろん、食材や日用品は、主に麓の里で生産されている。城の住人には充分な量だが、大酒呑みが一人加わったために、供給体制は崩壊の危機にあった。

 フィーアとは相変わらずの攻防戦だが、ドライはとおに諦めて、安い酒ばかりを置くようになった。城の住人しか出られないのを逆手に取って、貴重な酒は里に保管しているらしい。

「ふうん」

 レイズは何か言いたげに鼻先を寄せる。まるで、サイグラムからノインの匂いを嗅ぎ分けようとしているようだ。もちろん、そんなことにはまだ至っていない。

 サイグラムは耳の先まで赤くなった。酒気を含んだレイズの吐息もよりも、ノインとの遣り取りを思い起こして恥ずかしくなった。

 当時のサイグラムは、城の十人の使用人が、使節団の誰よりも長く生きていると聞き知ったばかりだった。城の魔導機械が彼女たちを動かしている。そう思い込んで、頭に血が昇ってしまった。城の蔵書は奇跡を記しているが、奇跡そのものが目の前にある。

 サイグラムは、部屋の片付けに訪れたノインに興味を抑えきれず、思わず身体を診せて欲しいと懇願した。

 ノインに頬を打たれて我に返り、自分の言葉がどう捉えられたか思い当たるも、既に逃げ出したノインの背中は遠かった。

 フィーアに懇々と説教をされ、必死に弁解を試みたものの、恥ずかしくて部屋を出られなくなってしまった。

 それでも、魔術書を読みたい気持ちが抑え切られず、夜中にこっそり大図書館を徘徊していたのだ。

「何これ。あんた変な趣味をしてるわねえ」

 サイグラムの魔術書を弄びながら、レイズは眉を顰めた。

 サイグラムにとってのレイズは、人が悪くてへそ曲がりな姉だ。繊細な心配りがない上に、執拗なからかい癖がある。

 前の徘徊が見つかった折も、無理矢理に原因を訊き出した挙句、皆に大声で触れて回った。

 その後、何故かセレンとディースがサイグラムの勇気を讃えると云う、訳の分からない展開になり、引き籠るのが馬鹿ばかしくなってしまったのだ。

「あんた、自分がどうにかできると思ってんの?」

『自律機械の構築』『簡易思考体の研究』『魔導人体生成術式』。レイズは勘が良かった。

 サイグラムには、ノインの視線がある中で、この類の魔術書を紐解く勇気はない。

「一年しか、ないんだよ?」

 本当の痛みを感じるくらい、レイズは的確だった。サイグラムは俯いて、わかりませんと正直に応えた。

 城の十人の使用人は、何れも魔術師に造られたらしい。入れ替わりはあるが、名は継いでいるいると云う。古参はアインスとフィーア、そしてゼクスの三人だ。

 この城の影響下にある限り、彼らは齢を取らず、死ぬこともないが、城の外では長く生きられない。渉外が役職のゼクスを除いて、城の影響は麓の里が限界だ。

「実は里の住人も、この城の力で動いてるんだ。だけどあっちは、人形に近い。その点、城の使用人は高性能だ。むしろ人と変わらない」

 サイグラムに教えてくれたゼクスは、そう言って笑った。

「死なないこと以外はね」

「あんたはノインの仕組みを知りたいの? それともノインを知りたいの?」

 不意にレイズは強い目で、サイグラムを見つめてそう訊ねた。

 サイグラムは目を逸らせずにいた。瞬きもできず、乾いた空気にやられて涙を零した。

 レイズはばつが悪そうに視線を長机の奥に向けた。

「城主はさ、何も教えてくれないわけ?」

 少し怒ったように呟く。レイズがいまひとり反目する相手が、その人だ。

 レイズは好き嫌いが明確だ。四角四面の堅物や、超然と振舞う者に強く反発する。前者がフィーア、後者が城主だ。レイズは城主によく絡む。揺らがないその表情を崩そうと、ことあるごとに噛みついている。

「この城と同じで、城主がノインたちを造った訳じゃないそうです」

 サイグラムも問うてはみたのだ。それは蒐集した技術のなせる業で、城主も専門分野ではないのだと云う。

 彼らの出自は、むしろゼクスの方が詳しい。使用人の元となる素体は、彼が城の外から拾って来るらしい。

「何よそれ。あの、見掛け倒し」

 レイズの鼻息が荒くなった。何故か城主を嬉々として責める。嫌っているのか好いているのか、サイグラムにはよく解らない。

「でも、術の当りは付けてくれましたよ」

「自分が知らないんじゃ、城主の資格なんてないでしょ」

 容赦のないレイズに、サイグラムは苦笑した。

「知らなきゃいけないのは、僕だから」

 レイズは呆れたようにサイグラムを見つめて、不意に彼の髪を乱暴に掻き回した。

「真面目な子。もう少し狡くならないと駄目よ」

 ぐりぐりと頭を振り回されながら、サイグラムは苦笑を深めた。

 これでも、少しは狡く生きて来たのだ。

 サイグラム・アベルが、ブラウンシュタインの王立魔術院で魔導准学士になったのは、まだ十一の齢だった。

 祖国の一般的な学位は、準学士、学士、修士、博士、導師とあって、サイグラムのそれは最下位だが、通例に比して十余年は先行していた。

 正直なあところ、両親が魔術師協会本部の重鎮だったことも影響したのだと、サイグラムは考えている。

 だが、そうやって得た地位の先は、理不尽な嫉妬と筋違いの怨嗟に満ちていた。

 そうした中で、サイグラムは、自身が望まざるとに関わらず、自制を学んだ。従属し、無知を装い、我を捨てる。彼らも尾を振る犬は打たない。

 その反動か、サイグラムはひとつだけ身の破滅をも招く危険な遊びを覚えた。

 禁書の閲覧だ。

 ブラウシュタインは、ワーデンラントがまだリースタンの国名の頃、封印王の傍系が興した国だ。その折、最古の血統は我が国にあると公言した。

 汎国家機関を優遇することで世界の中心を演出した結果、都心には、自国の施設よりも魔術師協会を始めとする各種公社の本部が犇めいている。

 ブラウンシュタインは見栄と虚飾でできていた。

 その象徴が、巨大な王立大図書館だ。

 理の御代より蓄積された膨大な知識が、周辺国随一の蔵書となって書架を埋めていた。総数を競えば、古書はこの城よりも多いだろう。

 魔術師たちの自我は強く、他国の崇拝は当然のものと考えている。

 現代魔術の基礎理論、魔導工学の多くはブラウンシュタインが起源と信じ、ワーデンラントの先進性、マグナフォルツの邁進力、汎テラフロンタの先鋭化した技能力は、すべて本来、自国に帰属すべきだと考えている。

 だが、彼らのこうした見栄と虚飾は、同時に矛盾を生んでいた。

 王立大図書館は、魔術改革以前の放埓な魔術師たちが記した悪書を大量に抱えていた。他国の学者ならば、それを歴史と割り切っただろう。

 だが、ブラウンシュタインの魔術師たちは、自国の歴史に誤りを認めない。自分たちは常に正道であったと主張する。

 かくして、古来の魔術書は、歴史を誇示するために展示されているのに、正当性を保持するために閲覧を許されていない。ただの飾りだ。

 サイグラムの徘徊癖、真夜中の書庫の散策は、つまるところこの禁書の閲覧が起源だった。

 今となっては切っ掛けも思い出せない。勉学を強要されたことへ反発か、抑圧され続けた冒険心の発露か。サイグラムは真夜中の大図書館で禁書を開き、その奔放、背徳、荒唐無稽な内容の虜になった。

 彼は幼くも賢しく、自分が如何に危険を侵しているか知っていた。

 散策は常に細心の注意を払い、彼を陥れんとする数多の敵に覚られまいと気を配っていた。密告したのは、サイグラムの母だ。

 彼は更生を迫られたが、工房はどこも受け入れを拒んだ。

 魔術師としての居場所を失い、良家であるがゆえに腫物のように扱われ、遂にはアステリアナ使節団に放逐された。敢えて知識の真贋を見極めることが、その建前だった。

「あの生真面目と能天気の王様を利用しなさいよ」

 セレンやディースを巻き込めと、レイズがまた毒を吐いた。

 今では確かに、彼らへの相談も苦ではない。

 当初は城内で擦れ違うことさえ稀だったものが、近頃は強いられもしないのに一緒に夕食を取っている。レイズさえ、渋々ながら参加しているほどだ。

「聴いてくれるかな」

 呟くと、レイズが背中を叩いた。

「あいつら、何にだって興味津々でしょ。あんたより子供なんだから」

 子供かどうかはともかく、城への関心が高いのは確かだ。傍目にも正反対のセレンとディースが、夜を徹して議論するほどには。

 サイグラムもたまに、そしてレイズも無理矢理に、その議論に巻き込まれることもあった。

 ここでは、魔術改革以前の歪んだ知識も咎められない。セレンさえ、もう眉を顰めたりしない。ブラウンシュタインのサイグラム自身もだ。

「知りたいこと、多いですからね」

「そう? あたしはそうでもない」

 うんざりしたように、レイズは顔の前で手を振って見せた。

 きっと嘘だ、何故かサイグラムはそう思う。

 最初、この城は得体の知れない場所だった。サイグラムにとっては、懐かしくも注意すべき罠だった。

 なのに、ここには祖国より居心地の良い日常がある。あまりに凡庸で、けれどずっと届かなかった日常だ。

「でも、きっと間に合わないな」

 一息吐いて、サイグラムは魔術書を抱えやすいよう積み直した。

 この日常は、壁ひとつ向こうの魔動機で人工的に造られた、狂気にも似た非日常に支えられている。サイグラムの理解が、せめて彼女にあるべき命が、この手に届く日を今はまだ想像できない。

 そろそろ部屋に戻る潮時だろう。

「勉強熱心よね、あんたたちって」

 小さく笑って、レイズも椅子を引いた。酒蔵を荒らした帰りなのだから、彼女こそ長居は禁物の筈だ。

「一年なんて。思ったよりずっと短いですね」

 俯いて呟いた。レイズはもう一度、サイグラムの髪掻き回した。

「ほら、さっさと寝床に帰って寝ちまいなさい」

 言い知れない不安がある。自分はただの子供だ。このままではきっと、ここでも大切なものを失ってしまう。

 レイズに軽く背中を押されて、サイグラムは魔術書を抱え直した。

 レイズの目線は、長机の向こう、今は暗闇の中にある飴色の革でできた椅子を見つめている。

 サイグラムはランタンを持ち直し、道筋に掲げた。いくら高く翳しても、この広間の闇の中ではどこにも届かない。

 ただ、ぼんやりと足許を照らしながら、サイグラムは蹴躓かないよう歩き出した。

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