ディース・フォーベルガ
サハルの宮廷は奔放に見えて、王族間の牽制と圧力が目に見えるほど垂れこめている。息苦しいことこの上ない世界だ。
最初、ディース・フォーベルガはここでも腹の探り合いを覚悟していた。国を背負った魔術師が顔を突き合わせ、何もない筈がない。そう考えていた。
蓋を開けてみれば、権威とは無縁の、むしろはみ出し者の寄せ集めだ。みな変わり者だが、自分の嗜好に正直なだけだった。
害意がない。毒杯に気遣う心配もない。それだけで気が抜けた。ディースはこの城で自分なりの楽しみ方を身に付けようとした。
蒼い水面に、少し腑抜けたが自由な顔をした自分が映っている。
ディースがいるのは、幾つもの立方体を繋げて埋めた、石造りの棟の中だった。中央塔に隣接する地下の機械室だ。
さんざん城内で迷子になり、ついにはフィーアに散策禁止を申し渡されたディースだったが、近頃はここに入り浸っている。
機械室は、巨大な四角い空洞だ。床の半分を大きく丸く切り欠いた空間を、木と真鍮の機器が埋めている。その切り欠きは、遥か深くまで透明な水で満たされていた。
水の中に目を凝らせば、巨大な硝子球が燐光を放っている。内側には複雑に噛み合った大小の魔導器らしきものが一塊となって、緩やかに、忙しなく、そして美しく蠢いている。
蒼く撥ねた光が、室内に涼し気な文様を描いていた。
「よく飽きないねえ」
笑いを含んだ声が背中に掛かる。ジーベンかアハトか、そのどちらかだ。
城の魔導機械を管理しているのは、銀の蓬髪と無精髭を散らした二人の青年、ジーベンとアハトの双子の兄弟だ。
ただでさえ見分けのつかない容姿だが、本人も見分けさせる気がまるでない。同じ白の繋ぎを着て、同じような汚れをこさえている。たぶん、わざとだ。
名残惜し気に水辺を離れ、ディースは二人の所に歩いて行った。
「こんな代物、うちにないからな。他の国にだって、きっとない」
彼らによれば、照明、空調、調理器具など、城の簡易術式はすべてこれで賄っている。もちろん、こんな機構は他に例がない。一片の仕組みさえ、ディースには理解できなかった。
「王様なのに持ってないのか」
「王様じゃない。王様にもなれない。先にまだ五人ほどいるからな。まあ、殺し合って自滅すれば別だけど。俺はそんな面倒に付き合う気はないんだ」
羽虫を追い払うように手を振って、ディースは空いた長椅子に腰掛けた。
「でも、王族だろう。何で魔術の勉強なんかしなきゃならないのさ」
自身の事ながら、ディースは溜息まじりに相槌を打った。
「そうだよなあ」
サハルの王家は血統に於いて、稀代の魔術師ファンブリンと竜の末を称している。ゆえに、王族の務めは、秀でた政者、軍属、魔術師の他に選べる道がない。
もちろん、運が悪ければ、死と放逐が向こうからやって来る。
汎テランフロンタ十二ヶ国連邦は、自治圏それぞれが秀でた技能を持ち、それらを合わせ持って一国の経済圏を成している。統合と分裂は繰り返すが、あくまで初代債務王の盟約に従っている。国家総体が変わることはなかった。
サハル自治圏も、その主権を失うまでは国是として魔術を掲げ続ける定めだ。
「真面目にやらないと、追い出されるんだよなあ」
ディースは途方に暮れたように笑った。
魔術博士の末席には入れたが、自分の知らない所で鼻薬が撒かれていても、おかしくはない。ディース自身、魔術に興味がない訳ではないし、掛け値なしに成果を上げた研究もある。
だが、魔導工学は、制約、制限、束縛、枠から踏み出すことへの禁忌がことの外多い。ディースはそれが息苦しかった。
魔術改革を機に、無軌道な魔術はすべて排除された。魔導工学は発展したが、その成果の一方で、無意味な思索や突き詰めた研究、一線を越えることに非情に神経質になり、それらは邪道と切り捨てられて来た。
魔導工学の崇拝者たるセレンとは異なり、ディースにはそれがつまらない。口に出したことはないが、魔術院には悟られていたのだろう。政敵の目論見もあっただろうが、使節団への強制参加はそれも一因だ。
「面倒なことだな」
恐らくはジーベンが、苦笑いしながら厨房からくすねた酒をディースに注いで寄越した。
「下界なんて、こことは比べ物にならないほど忙しないよな」
ディースが杯を掲げて口を付ける。ジーベンとアハトは顔見合わせて笑った。
「そうでもないさ」
少なくとも、ここでは混ぜ物を気にせずに酒が呑める。
「退屈だぞ?」
「かといって、だらだらしてると叱られるしな」
ジーベンとアハトは互いに零した。
城内をぶらつく、中庭で寝転がる、厨房に忍び込んで食料を掠め取る。それ以外の二人の日常は、大半がこの機械室にある。
彼らの個室は他にもあるらしいが、ここに勝手に椅子や寝床や持ち込んで、半ば住み着いていた。フィーアとノインの二人には、いつもそれで小言を貰っている。
「それはどこでも同じですよー」
不意に間延びした声が二人を跳び上がらせた。
ツェーンだ。小間使いの片方で、黒髪は長く艶があり、目許が濃くてくっきりとした、人形のような少女だ。菓子と茶器を載せた四つ足のワゴンを従えて、長椅子の後ろに立っている。
ツェーンはジーベンとアハトの肩越しにテーブルを覗き込み、酒瓶と杯を目敏く見つけた。
「ドライがまたお酒がなくなったって怒ってた」
ドライは城の畑と厨房を仕切る大柄で気風の良い女性だ。料理人でもある夫のドゥーは細身の優男で、見た目に対照的な夫婦だ。
「拾ったんだよ、これは」
「落ちてたんだ、廊下に」
さすがの二人も焦った。
一頃レイズが蔵を荒らしたおかげで、酒瓶の管理は非常に厳しくなっていた。フィーアの小言かドライの鉄拳か。どちらを選ぶか問われているようなものだ。
ツェーンは長椅子の背に顎を載せ、二人を見てにやにやと笑っている。
「叱られそうになって逃げて来たんだろう、ツェーン」
ディースが助け舟を出すと、ツェーンは舌を出した。
「また暦を替え忘れたの、ノインに見つかった」
「おまえ、それは駄目だろう」
ジーベンとアハトが声を揃えて言った。
「だって朝は眠いんだもの」
拗ねるツェーンを頃合いと見て、ディースが再び声を掛ける。
「ツェーンも一緒にお茶にしよう」
いつから自分は、こんな役回りが板に付いたのか。
「はあい」
期待通りの展開に、ツェーンは嬉々と返事を返してワゴンを呼んだ。
菓子の皿を目の前に置いて、一通り茶器を並べると、ジーベンとアハトの間に身体を割り込ませた。
「皆さん、休憩の時間です」
少々おっとりして天然の怠け癖あるツェーンは、立ち位置が機械室の二人に似ている。
そのせいで、相方のノインやフィーアから小言を貰うことも多かったのだが、城の賓客の相手であれば、少々のことは目を瞑って貰えると覚えたらしい。
ゼクスあたりの入れ知恵だろう。
「休むも何も」
「何もしてなかったけどな」
テーブルの端に追い遣られた酒瓶を恨めし気に眺めながら、ジーベンとアハトが呟いた。
ディースに同意を求めて目を遣ると、古城の賓客は四つ足のサービスワゴンを興味深げに突いている。ワゴンは突かれてよろめき後退るが、トレイを水平に保ったまま健気に立ち直る。
段差や階段を無闇に登り降りするこの城の中では、車輪の固定された台車は移動が難しい。ワゴンの四つの脚は、先にキャスターの付いた四本が個別に屈折して自在に動く。段差や敷居も越えることができた。
自律し、自走する。気の遠くなるような魔導工学の産物だ。
「良くできているだろう」
「ここまで来るのは大変だったな」
「たくさん、食器を壊してましたよねー」
ツェーンの一言に、双子の自慢げな表情は顰め面に変わった。恐らくフィーアの叱責を思い出したのだろう。
「君たちが造ったのか」
ディースが掠れた声で訊ねる。自制したつもりだが胸の内は騒めいていた。
「寄せ集めて組み立てただけだぜ?」
「ここにはいろいろあるからな」
ジーベンとアハトが部屋を、城を指して言った。
「一つ土産にくれないものかな」
ディースが言うと、二人して腕組みで唸った。それを見て、ツェーンも意味なく腕を組んだ。
「動力も制御もあれでやってるからな」
ジーベンが、部屋の半分を占める水の中、蒼白く光る魔導工学の硝子球を指した。
「そもそも、橋を渡ったら凍結するぞ」
アハトが言う。
凍結と云う言葉に、ディースは唸った。この城は、歴史の中で幾度もそれを繰り返している。氷の城、鏡の城と史書に刻まれている。
「期日の前に俺たちが城を出たらってやつだな」
セレンやサイグラムあたりなら、心当たりもあるだろう。だが、ディースには、この城の知識も十分にない。
「氷みたいに冷えて固まるのか?」
「少し違うな」
「ぜんぜん違う」
ディースの呟きに応えたジーベンとアハトが顔を見合わせた。
ジーベンが徐に腰を上げ、水際の端、無数の配管がうねうねと壁を這う一画にぶらぶらと歩いて行った。硝子盤や操作盤、大小さまざまな形状の箱や球が並んでいる場所だ。
ジーベンが手招きをした。ふた抱えほどありそうな真鍮色の球を何箇所か弄って、上半分を割って見せた。
「これが凍結だ」
歩み寄って覗き込むディースに、ついてきたアハトが言った。
球の内側には、幾束もの管に繋がれた硝子の瓶があり、その中には、鏡の薄膜で造られた一輪の薔薇があった。
「俺たちは外の連中に比べて何倍も長く生きているけれど、その理由の半分はこれだ」
ジーベンが言った。
「金属に換わるのか?」
「いや、こいつは金属じゃない」
説明に窮したジークスがアハトを見る。アハトは察知して目を逸らした。ジーベンは舌打ちして宙を睨んだ。
「ええと、あんたたちの施術に、大砲の弾を撥ね返すのがあるだろう」
「盾壁術式のことか? 荒事には必ず使う施術だ」
ジーベンは、鏡のように周囲を映す薔薇の花弁を指さした。
「こいつは、その術を極端にしたようなもの、らしい」
ディースが首を捻る。アハトにも目を遣ると、彼はこれ以上訊くなと肩を竦めた。
「これは、まだ生きているのか?」
「生きてる。時間が停まっている。ずっと、このままだ」
「こんな風になっているのねー」
男三人が首を突き合わせている懐に、ツェーンがぐりぐりと潜り込んだ。
「私、前にこうなった時、丁度お菓子を摘んでいるところだったの。口の中が埃だらけで大変だったなー」
「ツェーンはいつも何か食べてるよな」
二人の遣り取りを聞き流しながら、ディースの眼は鏡の花弁に千々に映った自分に吸寄せられていた。
ジーベンは盾壁術式に関連すると言ったが、一定以上の速さの物を弾くだけの障壁が、この薔薇の何に繋がると云うのだろう。
何故だろう。ふと、セレンのことを考えた。
まだ登城してひと月も経たぬ頃、既に幾冊もの魔導書を読み漁ったセレンは悲嘆に暮れていた。
ここの知識は邪道に過ぎる。自分勝手で協調性がない。染まれば魔導工学の哲学を見失ってしまう。それは、サイグラムの国なら火炙りにさえされ兼ねない。
セレンはそう言って困り顔をした。
ブラウンシュタインの強固な原理主義はともかく、ワーデンラントの魔術師が言うなら、本当のことなのだろう。
なのに、彼は今も魔術書を読み耽っている。
目の前のこれを理解するのは難しい。だがそれは、協会の容認とは関係がない。自分たちに技術的な筋道が足りないだけだ。
セレンはそれを知ったのだ。知って、頑なに知識を求めている。あの神経質で生真面目な男は、案外、自分の好奇心に図太いのだ。
火炙りにされる前に、誰かが守ってやる必要がある。拗ねた目の少年も、酔どれた魔女さえも。
「何にしても、この城から何か持ち出そうなんて無理な話しだ」
ジーベンがそう言いいながら、真鍮色の半球を戻し始めた。
ディースは、ずっと以前に亡くした後見人を思い出した。
ダリルと云う名で、実直な男だった。
普段口数が少ないくせに、月下草の鉢について語り出すと、話が止まらなかった。彼はディースに忠誠を尽くし、生涯その職務に実直だった。実直であろうとして、恩義ある親族との板挟みになって自害した。
「なあ、あの酒瓶を貰って良いか?」
ディースは、何処となく心ここに在らずと云った面持ちで、ジークスに訊ねた。双子は揃って情けない顔をした。
「いや、あれは」
不意にツェーンがあっと声を上げ、二人を突き飛ばすようにワゴンに駆け戻った。トレイの下の棚に手を入れて、奥に隠していた敷布の包みを引っ張り出した。
「ディースに渡してって、ゼクスに言われてた」
包みを抱えて駆け戻るツェーンに、アハトが呆れたように言った。
「そう云うの、先に言わなきゃ駄目だろう」
「またフィーアに叱られるぞ」
その名を聞いて、ツェーンの動作が鈍くなる。溜息か悲鳴か判然としない声を漏らしながら、のろのろとディースに包みを手渡した。
ディースは笑いながら包みを解く。そこに覗いた酒瓶と二つのグラスに虚を突かれた。
「どうした?」
黙り込んだディースに、ジーベンが問い掛ける。
ディースは顔を上げると、少々困惑した表情で微笑んだ。
「いや、独りじゃ呑み切れないと思ってね」
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