セレン・ギースベルト

 登城より、およそひと月を経た。当初抱いたセレンの懸念は、晴れるどころかさらに暗澹と垂れ込めている。

 一時は胸を躍らせた無尽蔵の魔術書も、百冊を紐解いたところで絶望に変わった。

 こうして、いま読み進める折さえも、ともすれば意識は途切れ、文字を追う目線は何度も同じところを行き来する。

 これが何の役に立つと云うのか。

 この長閑な陽射しさえ、もはや今の軟禁生活を嘲る嫌がらせにしか思えなかった。

 城主の云う、時間に放逐されたこの城には、文字通り暦がない。

 彼ら使節団が訪れてようやく、城内に幾つかの日捲りが用意された。それさえも、月日の書かれた板を毎日、使用人が手で変えて廻る代物だ。

 今のセレンは、いっそ暦板を束ねて捲り飛ばしたい衝動に駆られていた。

 知らず吐息が漏れる。セレンの他に任を果たそうとする者がいないのも、彼の憂鬱の一因だ。

 セレンが書架の前で独り煩悶する間、ディースは城を彷徨い歩いて迷子になり、サイグラムは小間使いとの諍いで部屋に閉じ籠り、レイズに至っては、蔵を漁って酒を持ち出し、日がな一日、酔いどれて管を巻いている。

 そもそも、魔術師協会さえも忌避する場所に人を遣るのだから、何処も除け者、外れ者、立場の弱い者を選んで寄越すのは仕方のないことだった。それでも、これは度し難い。

 もっとも、彼らにとっては、生真面目なセレンこそが一番の厄介者かも知れない。

 アステリアナ使節団の発起人は、誰あろう、セレンの師のであり、義理の祖父であるロウエン・ギースベルトだ。協会が敢えて目を逸らし続けた古城に接触したばかりか、城主にその知識を公開するよう迫ったのは、彼に他ならない。

 ロウエンは、誰にとっても災厄だった。ワーデンラント屈指の工房主であり、宮廷魔術師会の筆頭に名を連ねる彼を、諌めることのできる者はいなかった。

 そして遂に、彼の災厄は国境を越えて拡大してしまった。

 無支配地帯は四ヶ国に国境を接しており、使節団が現実味を帯びると、協定上、他の国も参画しない訳に行かなかった。

 迷惑が延焼した各国の魔術院は、望まぬ出資と参加を強要された筈だ。この機乗じて扱い辛い人材を放逐したのも無理からぬことだろう。

 集中力の鈍ったセレンは、机上に放り出した紙細工を無意識に弄んだ。

 ロウエンは顔が広かった。魔術師に問わず、国の内外に問わずだ。一年の半分は工房におらず、家にも帰らなかった。話す事が好きで、聴く事が好きで、子供じみた説話が好きだった。

 その性癖は、孫に曾孫に受け継がれている。ギースベルトはそう云う血なのだと、彼は言った。そして、今ではセレンもそうなのだと。

 陽気で優秀で変人だった。なのに、教え子を散々振り回した挙句、馬鹿げた使節団の実施が決まるや、さっさと自逝してしまった。

 魔術書の文字を追うのを諦めて、セレンは固まった背を伸ばした。

 紙細工のひとつを栞のかわりに魔術書をに挟んで、冷めた茶を啜った。最初の一杯は身の回りの世話をしてくれる小間使いが淹れてくれたものだ。

 溌剌とした少女がノイン、茫洋とした少女がツェーンと云う名だ。フュンフと同じ頃合いか、少し歳上の少女たちだ。

 確か、どちらかがサイグラムと揉めて、彼が部屋に引き篭もる原因になった。ディースと顔を合わせた折、彼が笑いながら教えてくれた。

 思えば、自分も書架を漁るか、こうして、ただ意味のない魔術書を読んでいるだけだ。皆の過ごし方を責めるのは、筋違いなのかも知れない。

 自分のこうした性格は、幼い頃に刷り込まれたもので、ロウエンにさえ解けない呪いだった。もちろん、探究心は唯一の原動力だ。それを忌む訳ではない。

 ただ、それだけに、この城に対するセレンの失望は大きかった。壁を埋める魔術書が、無尽蔵の知識がすべて、悪書に他ならなかったからだ。

 ここには一冊として実利になるものがない。およそ魔導工学の理念に反する代物ばかりだ。四〇〇年前の改革を経て一掃された筈の遺物が、この城を埋め尽くしている。

 敢えて意義を問うなら、歴史的、あるいは考古学的な価値はあるのだろう。だが、進化、研鑽し続ける魔導工学に、この歪んだ知識が役立つとは思えなかった。

「鳥だ」

 欝うつとした思考の中に、不意に陽気な声が割り込んだ。

「紙でできた鳥ですね」

 机に落ちた影を辿って顔を上げると、フュンフが机の上に散らばった紙細工をしげしげと眺めていた。

「ああ、うん」

 咄嗟に会話の仕方を思い出せず、セレンは間の抜けた顔で頷いた。

 フュンフは、あちらこちら、部屋の中を物珍し気に見渡してから、セレンと紙細工に目線を戻した。

「これに、その作り方が延々と書いてあるんだ」

 セレンはようやくそう言って、傍らに積んだ既読の魔術書をフュンフに見せた。

 背幅の厚い本が五冊ほど。実にその全巻に渡って、紙の折り方、飛ばし方、滞空時間の伸ばし方が記されている。

 紙の鳥をただ長く、遠く飛ばすためだけに、紙と釉薬の生成、微細な整形の自動化、圧搾による推進力の増加について有効であろう術式が連なっているのだ。

 フュンフは上の一冊を手に取って開き、すぐにうへえと呻いた。

「よく飽きませんね」

 無邪気に身も蓋もないことを言う。確かに、この魔術書で身に付くのは知識ではなく忍耐だ。

「これが君の主人のお勧めなんだ」

 それのせいで、こうして生真面目に読み進めている。

 まるで工房の課題のようだ。ロウエンが何を望んでこの計画を興したのかは解らないが、これは彼が最も忌み嫌っていたやり方だ。

「城主は主人じゃないですよ。どちらかと云うと、上司かな」

「その上司は、君たちに本を読ませないのかい?」

 セレンは半ば八つ当たりのようにフュンフに訊ねた。彼はしばしきょとんとして、ようやく何を問われたのか理解した。

「フィーアは読みますね。機械室の二人もたまに。厨房の小父さんは料理本を読んだり書いたりするかな」

 フュンフが本を弄ぶ。確かに扱いは読み手のそれではない。

「本も時間も沢山あるのに、魔術には関心がないのかい?」

 勿体ないと思わず呟く。例え山と積まれたものがどれほど無意味な魔術書であっても、この城の環境なら、急かされることなく自由に学ぶこともできるだろうに。

「読み書きはできますよ。でも、勉強は苦手で」

 フュンフが少し困ったように笑う。セレンもつられて微笑んだ。

「勉強が好きな子供なんていない。僕だってそうだったよ」

 セレンの家は凡庸で、親もまた凡俗に過ぎなかったが、何故か息子は非凡だと信じていた。学びたいものはあったが、すべてを急かされ、強いられた。

 子供時代を卸し金のような理想に削り潰され、切れ端になって棄てられる所をロウエンに拾われたのだ。好きだったのではなく、ただ、それしかできなかっただけだ。

「これ、飛ぶんですか?」

 フュンフが紙細工を手に取って、不思議そう眺める。少年の手に支えられて宙を舞う紙の鳥の向こうに、疲弊して捨て鉢になった子供時代の戯言を思い出した。

「魔術で空は飛べますか?」

 それは最初で最後の反抗だ。

 鞭打たれて得た推薦状を手に、似合わないお仕着せで投げ込まれた工房の面談の場で、セレンはそう訊いたのだ。

 卑屈と苦心と恐らくは幾らかの裏金を使って両親が設えた晴れ舞台だった。居合わせたロウエンに向かって、セレンはそう愚にも付かないことを訊ねた。

 母に打たれて鼓膜が破れ、その後の大人たちの会話はよく聞こえなかった。気付けば自分はロウエンの下で学ぶことになっており、以来、両親とは疎遠になった。

 結婚を機にギースベルトを名乗ったのも、それが理由だ。

「これは持ち方があって、こう」

 セレンは記憶を辿って魔術書を引きながら、記載された図説を真似て手首を捻って見せた。

 ふと我に返って、フュンフに問う。

「君、何か用じゃなかったのか?」

 フュンフは紙の鳥を片手に、悪気もなく笑って見せた。

「セレンが暇そうにしているから見て来いって」

 声を落として囁く。

「自分がフィーアに小言を食らっている間に」

「ああ」

 ゼクスだ。渉外が役目で、唯一里の外まで足を延ばすことのできる使用人だ。何かと粗相をするらしく、城で見掛けると、いつもフィーアに叱られている。

 フィーアは美しいが厳格だ。同じ美女の括りでも、見た目も性格もレイズとは正反対だった。

 当初から二人は馬が合わず、口論が絶えない。セレンも幾度かフィーアとレイズの応酬を目の当たりにして逃げ出したことがある。

「魔術師じゃなくても飛ばせますか、これ?」

「もともと飛ぶようにできているんだ。施術はそれを助けるだけだよ」

 その考え方は魔導工学も同じだ。ただ、人の役に立たないだけのこと。

 無意味で危険な魔術の時代は駆逐されて久しい。魔術は今、人の生業を助成するものとして存在している。それが正しい在り方だ。

「どれくらい飛ぶんだろう」

 フュンフの呟きに応えてセレンが魔術書を繰り始めると、少年は驚いて言った。

「試していないんですか?」

 虚を突かれて、手を止める。

「この本に書いてあるから、確かめる必要はないよ」

「飛ばしてみましょうよ。面白そうじゃないですか」

「面白い?」

 魔術を学ぶには好ましくない言葉だ。享楽や個人の嗜好、ただ力を振るうことは、魔術改革以前の無秩序な時代のやり方だった。

 魔術師協会や工房は、その姿勢を頑なに忌避し、今の次代を築いたのだ。

「魔術に面白さなんて必要ない。むしろ面白がっては駄目だ。魔術は人の生活のためにあるものだから。この城にある本は、それが分かる前の物なんだ。ここにあるような荒唐無稽な魔術は受け入れられない」

 セレンは、ロウエンがその傾向にあるのを知っていた。ゆえに、工房を別って行った弟子も少なくはない。偉大な実績がその身を立てるも、彼は決して理想的な魔術師ではなかった。

「これも駄目ですか」

 紙の鳥を手に取って、空を飛ぶように動かしながらフュンフが呟いた。

「地に足の着いていない魔術は無意味だ」

「鳥だけに?」

 フュンフの勝ち誇った顔を呆然と見つめて、セレンは頬を引き攣らせた。

「術を使わなければ良いんでしょう? 飛ばしに行きましょう。中庭なら広いし、風もある」

 セレンは言葉を呑みこんだ。そのきらきらとした目には見覚えがあった。

 諦めたようにフュンフを見上げて、セレンは口許を顰めた。

「いいさ。だけど、君も作るんだ。どちらが飛ぶか競争しよう。これに作り方も飛ばし方も書いてある」

 下に積まれた魔術書を抜いて、フュンフに振って見せる。書付用の紙を何枚か取って、セレンは椅子を引いた。

 並んで戸口に歩き出した。

「子供だからって手加減はしないからな」

 フュンフは手渡された魔術書を抱えて笑った。

「僕たち、セレンよりずっと歳上ですよ」

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