第十二章 密約
パイアは部下からの報告で、カロンの行方がわからなくなったことを知った。ヒュプシピュレのところにもいないというのだ。
「あの女、カロンをどこかに隠しているわね」
パイアはソファに横になって天井を睨んだ。
「ピュトンを殺したのは多分カロンね。とすると、潜伏している可能性もあるわけか。それに……」
彼女は頭の方に置いてあった書類を手に取り、
「この情報、月の政府の連中に一体いくらで売ろうかしらね」
と呟いた。その書類の表紙には「核融合砲作戦」と印刷されており、「TOP SECRET」と赤字で判が押されていた。何故パイアがこんな情報を手に入れられたかと言うと、彼女の部下の一人が、ジョリアス・ダロネンの秘書として軍内部に潜入しているからであった。パイアはページをパラパラとめくりながら、
「月は消滅してしまうかもね。地球人は本気で月を割るつもりのようね」
と言って、書類を放り出した。
カシェリーナとマーンは、タクシーでシノンの家に到着していた。
「大きな家だなァ。教授の本は、何冊かベストセラーになっているからなァ」
マーンは感慨深そうにシノンの家を見渡して言った。カシェリーナはニッコリして、
「まァ、それだけじゃないんですけどね」
と言って、玄関のチャイムを押した。
「いらっしゃい、カシェリーナさん」
ナターシャが玄関の扉を開いて言った。その時、マーンの顔色が変わった。ナターシャもカシェリーナの後ろにいるマーンに気づき、ハッとした。
「あらっ?」
カシェリーナは二人の様子に気づき、マーンとナターシャを交互に見た。
「あの、お知り合いなんですか?」
カシェリーナはマーンに尋ねた。マーンはハッと我に返って、
「あ、ああ、彼女は大学院で一緒だったんだ」
「えっ? だってナターシャさんて、私より三つ年上なだけで……」
「君が中学校に入った時、ナターシャは大学院を卒業して、助手をしていたよ。そして、シノン教授の手伝いをするようになったんだ」
「え、でもそれじゃあ……」
カシェリーナは頭が混乱してしまいそうだった。マーンは笑って、
「ナターシャは十歳で大学に入学して、十二歳で大学院に入り、十六歳で博士号を取得したんだよ」
「まァ、すごい。でもそんなこと、全然知らなかったわ」
カシェリーナは感心してナターシャを見た。ナターシャは照れ笑いをして、
「そんなこと、自分から得意そうに話すことではありませんから。別に隠していたわけではありません」
「でもすっごいなァ。私なんか、大学の講義なんて、今の歳でもよくわからないのに」
ナターシャは微笑んだままで何も言わなかった。
「ディズムを暗殺?」
カロンはエンプーサとベッドで楽しんでから、自分の目的を彼女に話したところだった。さすがにエンプーサは、自分の夫を殺しに来た月の男と快楽を共にした自分に驚いていた。
「そうです。ベン・ドム・ディズムは、今と言う時代には存在してはならない男なのです。排除すべきです」
カロンはさも主義主張のある男のように言った。エンプーサはシーツからはだけた胸を見つめて、
「さすがにそうねとは簡単には言えないわね。いくらあの人のことが憎いとは言っても……。一応、夫ですものね」
「あの男が生きている限り、貴女は死人同然ですよ。完全に自由を束縛され、何も望めない」
カロンの言葉にエンプーサはギクッとした。
(確かに……。父も亡くなった今、私の後ろ盾となってくれる人は誰もいない。あの人が野心を抱き始めたのは、父が逝ってしまってからだったわね)
「どうです? 我々に力を貸して下さいませんか? 真の自由と平和のために」
カロンは、我ながら歯の浮くような台詞だ、と思っていた。エンプーサはしばらく黙って考え込んでいたが、
「で、私はどうすればいいの?」
とカロンを見た。カロンはニヤリとした。
ゲスはテセウスとヘルミオネの三人で、夕食をとっていた。
「テス、もう少ししたら、お前を政界に出す。私の後継者としてな」
ゲスはフォークとナイフを置いて言った。ヘルミオネによく似た美しい顔立ちの少年は、ゲスをしっかりと見て、
「はい、お父さん」
と答えた。ヘルミオネは涙をこぼして喜んでいた。やっと報われた、と彼女は思っていた。
「その前に、あの愚か者が始めた戦争のケリだけはつけておく。平和だけをお前への遺産として、遺しておくつもりだ」
「はい」
テセウスは実に賢い子であった。ゲスの全てを受け入れるだけの許容力があったのである。ゲスはテセウスにすっかり満足していた。その時、電話が鳴った。
「はい、アスです。はい」
ヘルミオネは受話器をゲスに渡し、
「情報局からです」
「うむ」
ゲスはしばらく電話の相手と話していたが、やがて立ち上がり、
「ちょっと人と会って来る。一時間ほどで戻る。遅くなるようだったら、先に休んでいていいぞ」
「はい」
テセウスも立ち上がった。ゲスはそれを嬉しそうに見て、
「テス、お母さんのこと、頼むぞ」
「はい、お父さん」
ゲスは満足そうに頷き、玄関に向かった。
(パイア・ギノが会いたがっているとは…。一体どういうつもりだ、あのメギツネめ)
ゲスの眉間に深い皺が寄った。
一方ディズムは、エンプーサがフィットネスクラブに行って以降消息不明であることを情報部から報告されていた。
「ついに姿をくらましおったか。この大事な時に、どこまで愚かな女なのだ」
ディズムはエンプーサの只の我が儘だと思って、あまり気に留めなかった。これが彼の失策の一つだった。
「それより、核融合砲の情報はうまく月に漏れたか?」
ディズムは机の向こうに立っている情報部員に尋ねた。情報部員は、
「はい。ダロネン様の秘書の中に、あのパイア・ギノの配下の女がおりまして。多分、そこから月政府に伝わるかと……」
「そうか」
ディズムはニヤリとした。
「ゲスめ。スキュラと核融合砲と、どちらが本命と思い、食いついて来るかな」
ディズムの戦略は、恐るべきものであった。
パイアの部下三人は、ヒュプシピュレによって彼女の家の地下室に監禁されていた。
「あの女共がカロンと楽しんだかと思うと、イライラして来るわ」
ヒュプシピュレはそう呟き、テーブルの上の水割りをあおった。
「その上、今頃カロンはエンプーサとお楽しみだし……」
ヒュプシピュレは空になったグラスを床に叩きつけて粉々に砕いた。
「忌ま忌ましいったらありゃしない!」
あまり嫉妬深くないつもりでも、彼女は今非常に嫉妬心を掻き立てられていた。
「どちらへ?」
ヒュプシピュレが玄関に向かうと、メイドが尋ねた。ヒュプシピュレはキッとしてメイドを睨みつけ、
「カロンのところよ!」
と言うと、荒々しくドアを閉めた。メイドはビクッとしてから、ホッと息をついた。
マーンは食事の後シノンから彼が調べたことを聞き、かなり驚愕した。ディズムがそこまでする男だとは思っていなかったのだ。
「どちらも本命に見えるな。奴め、何を考えている?」
マーンはバルコニーに出て、丸椅子に腰を下ろした。そこへナターシャがやって来た。
「変わってないわね、ダウ」
マーンはナターシャを見て微笑み、
「君もね。いや、以前より綺麗になったかな」
「まァ」
ナターシャはマーンの隣に座った。
「私を振った男性に褒められたら、これは喜ぶべきなのかしら?」
「他人聞きの悪いことを言わないでくれよ。私は君を振った覚えはないよ」
「私の気持ちを知りながら、全く私を見てくれなかったのは、振ったも同然です」
ナターシャはマーンを真直ぐ見た。マーンはそんなナターシャをまともに見ることが出来なかった。
「あの時君は、まだ十四歳だった。あれは恋とか愛とかではないよ。年上の男に対する、単なる興味だ」
マーンは夜景を見たままで応えた。ナターシャも夜景に目をやり、
「私、早熟です。十歳で大学に入ったんですよ。十四歳は普通の女の子ではまだ子供でも、私はもう立派な大人の女でした。心も、身体も」
「……」
マーンは何も言い返さなかった。ナターシャはクスッと笑って、
「今はカシェリーナさんに夢中なんですか?」
「バカなことを……。彼女は私の教え子だよ。別に恋愛感情なんてないさ」
「そうですか。シノン教授は、カシェリーナさんが貴方を連れて来るというので、何か覚悟していたようですよ」
ナターシャはマーンの顔を覗き込んだ。マーンはすっかり驚いて、
「ええっ? シノン教授、私とカシェリーナのことをそんな風に考えておられるのか?」
「それはそうです。だって貴方はカシェリーナさんと二泊三日の旅行に行っていたのですよ。父親としては、当然の反応ですわ」
「参ったな」
マーンは前髪を掻き上げて、本当に困った顔をした。ナターシャはまたクスッと笑って、
「冗談ですよ。ちょっと昔振られたお返しをしただけです。教授はそんな風には考えておられません」
マーンはホッとしてナターシャを見た。
「今のはちょっと強烈だったよ、ナターシャ」
ナターシャはニコッとして、マーンに唇を押しつけて来た。マーンは一瞬身を引きかけたが、バルコニーが邪魔して動けなかった。しかもナターシャの両手が、マーンの首にしっかり巻きついていたのだから、尚更だった。
「ごめんなさい。でも私、今でも貴方のこと、好きです」
ナターシャはサッと身を翻すと、バルコニーを去って行った。マーンはしばらく唖然として立っていた。
(え、ええっ? どういうこと?)
カシェリーナがその二人のことを、物陰から見ていた。彼女はマーンを探しに来たのだった。胸が高鳴るのがわかった。何かこう、キリキリした感じがした。
(私、ナターシャさんに嫉妬しているのかしら?)
自分の感情を計りかねるカシェリーナであった。
ナターシャは涙をぬぐいながら自分の部屋に戻った。
(バカね。あんなことしたら、余計避けられてしまうのに……)
ナターシャはベッドに倒れ込み、声をたてずに泣いた。
(教授と暮らし始めて、貴方のことを全て忘れていたのに、どうして今になって私の前に現れたのです、ダウ?)
シノンはベッドに腰を下ろして、水割りを飲んでいた。
「ナターシャとマーン君が会ったのは、ちょっとまずかったかな」
シノンはグラスをベッドの脇にあるテーブルに置き、横になった。
「まァ、仕方ないな。運命というものかも知れん」
とシノンは呟き、目を閉じた。
ゲスはホテル・ルナの最上階にあるスイートルームで、パイアと会っていた。二人きりというのが彼女の条件だったので、ゲスはSPを外に待機させ、一人で中に入った。
「ようこそ、上院議員。私のような下賤の者の申し出たこと、よくお聞き届け下さいました」
パイアは黒のイブニングドレスを着て、大きな真珠のネックレスを着けていた。テーブルの上には、最高級のワインのボトルが置かれており、グラスが二つ、添えられている。
「用件を聞こう」
ゲスは椅子に腰を下ろしながら切り出した。パイアも向かいに座り、
「私の部下は、地球政府内部にも数多くおります。その中の一人がとても興味深いものを手に入れたのです」
と彼女は、核融合砲計画の書類をテーブルの上に出した。ゲスはそれを手に取り、
「ほォ。地球はこんな計画を展開していたのか」
と言ってから、パイアを見た。パイアは微笑んで、
「どうです、それを買って頂けませんか?」
「いくらだ?」
「一億です。安いものでしょう?」
パイアはニヤッとした。ゲスはフンと鼻を鳴らして書類を投げ出し、
「この作戦が実際に行われているかどうかも確認していないのに、そんな大金を出すことはできんな」
「それはそうですわね」
パイアは別の書類を出した。それはシノンがパソコンで調べていた、運送会社の見積書と、解体業者の見積書のコピーだった。
「それが証拠となりましょう。地球軍は原発二十基余りを解体して、中央太平洋に集めているのです。そして、その目的が核融合砲です」
「……」
ゲスはパイアの話が嘘でないことを悟った。
(そうか。スキュラ作戦は陽動で、こちらが本命か)
「どうなさいます? 嫌なら私、このまま帰りますわよ」
パイアは書類に手をかけた。するとゲスは、
「わかった。買おう。ただし、手付けとして五千万。そしてその計画が真実とわかったら、さらに一億出そう」
「結構でしょう。商談成立ですわね」
パイアは右手を差し出した。ゲスはその手を握った。細くて柔らかい手だ、と彼は思った。
「一つ聞きたいことがある」
「何ですの?」
「カロン・キギネイのことだ。奴は今どうしている? 奴に宇宙船を貸したのは、お前であろう?」
ゲスの問いに、パイアはフッと笑い、
「私もわかりませんわ。彼、地球に着いてから全く音信不通ですの」
「そうか」
ゲスは立ち上がった。パイアも立ち上がった。彼女は小さなカードをゲスに渡し、
「ここへ五千万お振込み下さい。入金が確認出来次第、この書類をお送りいたします」
「わかった。送付先は、私の別荘にしてくれ。他の者に見られたくないのでな」
ゲスはカードを胸のポケットに入れた。パイアはニッコリとして、
「わかりました。私も月を消されては商売になりませんの。是非ともこの作戦、阻止して下さい」
「言われるまでもない」
ゲスはそう言うと、振り向きもせずスイートルームを出て行った。パイアはそれを見届けてから、ニヤリとした。
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