第九章 宿命

 ディズムは議長室の回転椅子に座り、悠然として煙草を燻らせていた。

「何をしに来た?」

 彼は言い放った。彼の目の前には、マーンとカシェリーナが立っていた。マーンは少し怒りを露にしていた。カシェリーナはそんなマーンとディズムを見比べて、妙な感じを受けていた。

(この二人、何かある……)

「この戦争を止めさせに来た」

 マーンは言い返した。ディズムは煙草を灰皿に投げると立ち上がった。

「何をバカなことを……。お前が動くまでもなく、この戦争は終わる」

「あんたは月の力を過小評価している。この戦争は停戦協定でも結ばない限り、長くなるぞ」

 マーンは身を乗り出して言った。ディズムはニヤリとして、

「月に呼ばれた時、奴らの戦力を見せられたか。そんなものは張り子の虎で、ダミーだ。奴らの戦力は我が軍の三分の一以下だ」

「張り子の虎なのは、地球軍も一緒だろう? ろくに訓練も受けずに実戦に出されたため、月艦隊の倍以上の戦艦が沈められている」

 マーンのその反論にディズムはムッとし、椅子に戻った。

「それは司令長官の作戦ミスだ。次はそうはならん」

「それはどうかな」

 マーンの言い方は挑発的だった。カシェリーナは唖然としていた。

(先生はどうしてそんなに挑戦的な態度なのかしら?)

「どういう意味だ?」

 ディズムの鋭い眼がマーンを睨んだ。マーンはさらにディズムに近づき、

「月は地球にたくさんのスパイを送り込んでいる。その連中が地球軍の展開のことを逐一報告しているとしたらどうする?」

 ディズムは椅子の背もたれに寄りかかり、ムスッとした。マーンの指摘が当たっているのだ。ディズム自身、ガールスのスパイに対する無神経さに腹が立っていたのだ。

「恐らく、軍の上層部にまでスパイは潜り込んでいる。作戦ミスではない。情報の漏洩で地球艦隊は全滅したんだ」

 マーンの言葉にディズムは何も言い返さなかった。しばらく沈黙の時が続いた。

「そちらのお嬢さんは誰か? お前の婚約者というわけでもあるまい?」

 ディズムは話をはぐらかすようにカシェリーナを見て尋ねた。マーンはチラッとカシェリーナを見て、

「彼女は大学の教え子だ。そんな関係じゃない」

「まだ大学に行っていたのか。お前にしては長続きしているな」

 ディズムはフッと笑って言った。マーンはバンと机を叩き、

「話をそらすな! そんなことを話しに来たんじゃない」

 ディズムの眼がまた鋭くなった。

「戦争は終わるよ。スキュラ作戦でな。いくらスパイが月に情報を送っても、この作戦は阻止できん」

「スキュラ作戦?」

 マーンは眉をひそめた。しかしこの時のカシェリーナ達は、その作戦にレージンが参加することになるとは夢にも思わなかった。


 それから五分後、マーンとカシェリーナは議長官邸の外を歩いていた。

「結局無駄足だったかな」

 マーンが独り言のように言った。するとカシェリーナが、

「いえ、そんなことありません」

と言い、マーンの前に立つと、

「それより、先生はあのディズムという人と、どういう関係なんですか? ただの知り合いじゃないみたい……」

「奴は私の父親だ」

 マーンはまさに吐き捨てるように言った。カシェリーナは一瞬何と言われたのかわからなかった。

「父親ですか? 先生のお父さん?」

「そうだよ」

「で、でも、苗字が違ってますよ! あの人はディズムで、先生はマーンで……」

「マーンは私の母の苗字だ。私はね、父親がいない子なんだ。書類上はね」

 カシェリーナは混乱する頭を一生懸命整理した。マーンは歩きながら、

「私の母は十代の時、あの男と勤め先のファーストフードの店で知り合ってね。母は高校をやめたばかりで、あの男は士官学校の学生だった。二人は共に惹かれ合って、駆け落ち同然にニュートウキョウに来て、同棲を始めた」

 カシェリーナはマーンを追いかけるようにして歩いた。マーンは前を見たまま、

「そんな中で私が生まれた。だが母の稼ぎとあの男が士官学校から支給されるわずかな金では、とても三人で暮らしていけなかった。母は夜の街に働きに出て稼ぎを増やし、何とか生計を保った」

 カシェリーナは息を呑んで話を聞いていた。

「だがやがてあの男は、士官学校を出て陸軍に配属されてしばらくすると、軍幹部の娘に接近してまんまと婚約までした。そして母は捨てられた。私が十歳の時だった」

 マーンの声が震えていた。カシェリーナの目は潤んでいた。

「それから先はまさに地獄だったと後で母は私に教えてくれた。でもね、カシェリーナ、母は一度もあの男のことを悪く言ったり、罵ったりしたことはなかったよ。仕方のないことよ、といつも言っていた」

「立派なお母さんだったんですね」

「立派過ぎたよ。だから無理がたたって、私が十五歳の時過労で死んでしまった。まだ三十三歳だった。今の私よりも若かったんだよ」

 マーンの目も潤んでいた。カシェリーナは涙を流して、

「ごめんなさい。先生にとって辛い話をさせてしまって……。ごめんなさい」

と立ち止まった。マーンはカシェリーナを見て、

「いや、いいんだよ。君に話して、何となくすっきりした。母はあの男を許していたけど、私はどうしても許せなかったんだ。でももう今はどうでもいいような気がしてね。あんな男のそばで育てられていたら、私は今頃何をしていたろうと思うようになった」

 マーンはフッと笑って、

「湿っぽい話になってしまったね。とにかく、帰ろう、ニューペキンに」

「はい」

 カシェリーナはハンカチで涙を拭って応えた。


 ディズムは官邸の中にある私室でソファに腰を下ろし、くつろいでいた。するとそこへ、いきなりドアを開いて一人の女が入って来た。年の頃は四十歳くらい、髪は茶、目はブルー。ネイビーブルーのツーピースを着込んだ、ちょっと険しい顔つきの女だった。ディズムの妻、エンプーサである。彼女はディズムの前に仁王立ちをして、

「貴方! さっきここにあの女の息子が来たんですって?」

と怒鳴り散らした。ディズムはうるさそうにエンプーサを見上げ、

「それがどうした?」

「何の用で来たんです? 今になって金をよこせと言って来たんじゃないでしょうね?」

「そんな話ではない」

 ディズムはエンプーサが大嫌いになっていた。若い頃は美人で理知的だったが、年をとるにしたがって、もともと嫉妬深かった性格に磨きがかかってしまったのだ。

「じゃあどんな話です? 確か女連れだったとか。家がほしいとか、結婚費用を出せとか言って来たの?」

「バカなことを言うな。あいつはお前と違って、金に執着などせん」

 ディズムは憤然として立ち上がり、エンプーサを睨みつけた。エンプーサは顔を紅潮させ、

「何ですって?」

と叫んだ。ディズムはエンプーサにグッと近づき、

「出て行け! この物欲の塊が!」

と怒鳴った。エンプーサはその迫力にびっくりして、よろけるようにして私室を出て行った。ディズムはソファに戻って、

「あの女、何故あれほど嫉妬深くなってしまったのだ? やはり、子がないせいか」

と呟いた。


 ララルはネオモントから月に向かう途中で、考え込んでいた。

(マレクの怠慢ぶりは目に余るものがある。と言って、奴以外にこの仕事を進められる者はいない。どうしたものか)

 マレクが自分以外にこの計画を遂行できる者はいないと思っていることが、彼の怠慢の原因になっていることは明らかであった。

「とにかく、閣下にお尋ねするしかあるまい」

とララルは呟き、前方に見える半月を見た。


 カロンとヒュプシピュレは、ヒュプシヒュレの家があるウラヤスに来ていた。ここは何百年も昔に遊園地があったところで、その建物のいくつかが改造されて、彼女の邸の一部になっていた。敷地は広大で、パイアの城であるアイトゥナより大きいであろう。

 カロンはその中の一室に通され、派手な模様のシーツがかけられたソファに座って煙草に火をつけた。

「どうぞ」

 召し使いらしい若い女というより少女が、ニッコリしてカロンに水割りを出した。

「ありがとう」

 カロンはサングラスを外して礼を言った。少女は少し赤くなって会釈し、そそくさと部屋を出て行った。

「あんな娘にまで、色目を使わないでよ」

 ガウン姿のヒュプシピュレが入って来た。カロンはにやりとして、

「まさか。礼を言っただけだよ」

「そうかしら?」

 ヒュプシピュレはカロンの右に座って、寄り添った。

「ピュトンを殺したことで、ディズムの周囲が動き出す恐れがあるな」

「ええ。前より難しくなるわよ」

「ああ」

 カロンはグラスを手にしてヒュプシピュレを見、

「ディズムには影武者が何人もいるそうだが、本物の見分け方、わかるか?」

「ええ。本物の愛人は私ですもの」

 ヒュプシピュレが言うと、カロンの目がギラッと光った。

「本当か?」

「嘘よ。私じゃないわ。カリュア・アソスっていう、私の組織の中でもナンバー1の娘よ」

「そうか」

 カロンがグラスを口にするのを見て、ヒュプシピュレは、

「今、ヤキモチ焼いたでしょ?」

「誰が?」

 カロンはとぼけて水割りを飲んだ。ヒュプシピュレは悪戯っぽく笑って、

「へへーっ、いいわよ、別に。とにかくね、カリュアは本物としか寝てないわ。影武者が何人いるのかも知っているのよ」

「何人だ?」

「六人。一週間に一回しか、本物は外の公務に姿を現さないのよ」

「そのローテーションはわかるのか?」

「わかるわ。カリュアが総帥と楽しむ夜の次の日が、本物が外に出る日よ。つまり今度は明日ね」

 カロンはニヤリとし、ヒュプシピュレにキスをした。そして、

「俺はいい女と巡り会えたな」

と言った。ヒュプシピュレはフッと笑って、

「私もいい男と巡り会えたわ」

と応えた。


 カロンの予想通り、ディズムは議長室でピュトン殺害の報告を受けていた。

「一撃でか?」

 ディズムはモニターに映る警察庁長官に尋ねた。

「はい。捜査官からの報告によりますと、プロの仕業だということです」

「つまり、カロン・ギギネイという殺し屋がすでにニュートウキョウの、しかもこの官邸のすぐ近くにまで来ているということか?」

「そのようです。申し訳ありません。全くこちらの警戒網にかからなかったので……」

 警察庁長官は蒼ざめていた。ディズムはフッと笑って、

「まァいい。奴は月の大統領以下、ゲスの反対派をことごとく暗殺したほどの男だ。ピュトンなど殺すのは造作もないことだよ。ただし、私の場合はそうはいかんということを知ってもらわねばならんな」

「はっ!」

 ディズムはコンピュータの電源を切った。そして、

「しばらく外へ出るのは控えた方がいいようだな」

と言うと、椅子に身を沈めた。


 マーンとカシェリーナは高速ヘリでオオサカに向かっていた。

「先生、いいんですか?」

「何が?」

 カシェリーナの唐突な問いかけに、マーンは振り向いた。カシェリーナは、

「このままニューペキンに帰ってしまっていいんですか? 何とか、何とかしないと」

「……」

 マーンは前を見た。しばらく沈黙の時が流れ、ヘリの爆音のみが聞こえた。

「レージンに会ってみよう。何かわかるかも知れない」

「はい!」

 カシェリーナはにっこりして返事をした。マーンもにっこりした。高速ヘリは反転して、陸軍本部に向かった。


 カロンはヒュプシピュレの屋敷の中にある通信室で、ゲスと連絡をとっていた。

「ピュトンが情報をリークした。情勢が変化した。ターゲットは動かないかも知れん」

 カロンが言うと、モニターの中のゲスが、

「無理はせんでいい。お前には今死なれては困るのだ。ほとぼりが冷めるのを待て」

「いや。俺にも切り札はある。まだあきらめたわけではない」

「そうか。とにかく急ぐことはない。ネオモントが展開完了するまで、時間が稼げれば良いのだ」

「わかった」

 カロンはコンピュータの通信回線を切った。その傍らにいたヒュプシピュレが、

「どうするの? カリュアは今夜の子作りの儀式をキャンセルされたそうよ。総帥は警戒し始めているわ」

「まだカリュアが疑われたわけじゃない。策はある」

とカロンは言った。


 ゲスは官邸の天窓を見上げた。人工の光が眩しい。

「ディズムめ。動かんのか。しかしそれならそれで、こちらにも策がある」

 ゲスは机の上の報告書に目をやった。それには「スキュラプラン」と書いてあった。地球軍の起死回生の作戦である「スキュラ」の情報が、すでに文書となってゲスの手許にある。地球はまさに月のスパイの天国になっているのである。

「軍人上がりの男が考えそうな、先を見通しておらぬ作戦だな。愚か者が……」

 ゲスは呟き、椅子に座った。そしてインターフォンを押し、

「作戦会議を開く。三十分後に最高幹部会議室に集まるよう、各員に伝えよ」

「はっ!」

 ゲスは椅子を回転させ、思索に耽った。

「さて、どうするか、だが……」


 レージンは本部の面会室で、カシェリーナとマーンに会ってびっくりしていた。

「帰ったんじゃなかったんですか」

 レージンはカシェリーナの向かいに座りながら、その隣のマーンを見て言った。マーンは、

「ディズムに会った時、妙なことを聞いてね。君なら知っていると思って、来てみたんだ」

「妙なこと?」

 レージンは今度はカシェリーナを見た。カシェリーナは頷いて、

「スキュラ作戦て知ってる?」

 レージンの顔が蒼くなったのをカシェリーナとマーンは気づいた。マーンが、

「知っているんだね? どんな作戦なんだ?」

「しかし……」

 レージンは顔を俯かせた。カシェリーナが、

「軍事機密だっていうの?」

「ああ」

「その心配は無用だ。スキュラ作戦の内容は、すでに月に伝えられているよ。スパイによってね」

とマーンが言ったので、レージンは仰天してマーンを見た。

「本当ですか?」

「証明はできないが、確かなことだ。だからここで君が私達に話したところで、何の差し障りもないよ」

 レージンは少し考え込んでいたが、やがて目を上げて、

「スキュラ作戦とは、核ミサイルを搭載した爆撃機で月を叩くというものです。あまりにも無謀ですよ」

「何だって?」

 マーンはつい大声を出してしまった。カシェリーナはあっと息を呑んだ。

「まさか、レージンもその作戦に参加するんじゃ……」

「ああ、そうだ。参加する」

「やめてよ、そんな危ないこと!」

 カシェリーナは涙声で言った。レージンはカシェリーナを見て、

「まだ参加するつもりだというだけで、選ばれるかどうかわからないよ」

「……」

 カシェリーナはもうすっかり涙で顔がクシャクシャになっていた。マーンは、

「具体的なことはわからないのか?」

「わかりません。訓練が始まるのは明日ですから」

「そうか。相変わらず、行き当たりばったりな作戦だな」

「ええ。俺もそう思います」

 マーンは立ち上がった。

「とにかく私にできることはやってみる。考えがあるんだ。そんな無謀な作戦、必ずやめさせてみせるよ」

「ええ」

 レージンも立ち上がった。カシェリーナはまだ泣いていた。レージンは彼女の隣に回り込んで肩をそっと抱き、

「カシェリーナ、まだ俺が死ぬと決まったわけじゃないんだから。もう泣くなよ」

「うん」

 カシェリーナは涙を拭ってレージンを見上げた。

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