第七章 謀略
朝になった。
カシェリーナはすぐにシャワーを浴びてサッサと化粧を済ませ、服を着替えた。そしてショルダーバッグを肩に掛け、マーンのアタッシュケースを手にするとスイートルームを出た。
(何か、一人で泊まるのもったいないくらいの広い部屋だったわね)
カシェリーナは廊下を走り、エレベーターに飛び乗ってロビーを目指した。
その頃マーンは空港のロビーのソファに寝転んでいたが、周りが明るくなり、ざわついて来たので起き上がったところだった。
「朝か。痛た……」
マーンは首を左右に振り、立ち上がって伸びをした。
「学生時代以来だな、こんな所で寝たのなんて」
彼はカシェリーナのところに行って、レストランで朝食を食べようと思い、歩き出した。すると、
「先生!」
カシェリーナが右手を大きく振りながら走って来るのが目に入った。
「おはよう、カシェリーナ。早いね」
「先生をこんな所で寝させたのに、私の方がゆっくりしてたら、バチが当たります」
カシェリーナはニッコリして言った。マーンは時計を見て、
「まだホテルのレストランは始まっていないな」
「空港の反対側に、ファストフードのお店が並んでいましたよ」
「ハハハ」
マーンは頭を掻いた。カシェリーナはそんなマーンを見てニッコリした。
レージンの乗る軍のバスはニュートウキョウに入っていた。朝日がバスを照らしている。
「もうすぐ軍本部に到着する。全員降りる用意をしておけ」
バスの最前列に座っていた上官らしき中年の男が、立ち上がって言った。バスの一同は、眠い目をこすりながら、ゴソゴソと動き出した。
「スーパーエクスプレスも、メインステーションが人工衛星の直撃を受けちゃ、動かしようがないよな」
とリカスが言った。レージンは窓の外を見たままで、何も言わなかった。
(カシェリーナ……。今頃どうしているかな。大学は閉鎖されたし……)
ヒュプシピュレ・カオス。
カロンが別荘の地下通信室で話していた美女のフルネームだ。彼女は地球中の繁華街にある売春組織の全てを取り仕切っている歓楽街の女帝であり、カロン・ギギネイとはビジネスパートナーであり、恋人同士でもある。二人共互いを必要とし、本当に信頼し、そして愛し合っている。カロンが女好きで、あちこちでつまみ食いをしているのは知っていたが、最後は自分の所に戻って来るという自信から、ピュプシピュレは決して彼を責めるようなことはしなかった。
彼女がいるのは、ニュートウキョウの中心からチバ方面へ向かう途中で、歓楽街の真只中の地下である。彼女の経営するスナックやバー、そして売春組織のいくつかも、人工衛星の雨で焼失していたが、まだまだその経済力は衰えていなかった。
「本当か、それは?」
ヒュプシピュレは自分の部屋の大きな回転椅子に沈み込んで、一人の若い女の報告を受けていた。
「はい、本当です。ピュトンが寝物語に話したことです」
と答えているのは、イスメネ・アテレという二十五歳のエージェントである。彼女はヒュプシピュレの命を受けてケパロス・ピュトンの愛人となり、ピュトンから情報を引き出している。ヒュプシピュレは、
「あのコウモリが……。カロンの命が危ないかも知れない」
と立ち上がった。イスメネはヒュプシヒュレを見て、
「いかがいたしましょう? ギギネイ様にお伝えしましょうか?」
ヒュプシヒュレはしばらく思案していたが、長い髪をバサッと後ろに振り、
「まァいい。今日カロンに会うことになっている。その時私が話す。御苦労だった。ピュトンにはくれぐれも怪しまれないようにな」
「はっ!」
イスメネは深々とお辞儀をして、ヒュプシピュレの部屋を出て行った。
カシェリーナとマーンはようやくオオサカステーションに着いたところだったが、スーパーエクスプレスが動いていないのを知ってがっかりしているところだった。
「どうします、先生? 飛行機も列車も動いていないんじゃ、ニュートウキョウに行きようがないですよ」
マーンはしばらく黙って考えていたが、
「軍のカンサイ支部に行って、航空機を借りよう」
「ええっ? そんなことできるんですか?」
カシェリーナはマーンのあまりにも大胆な計画にびっくりしてしまった。マーンはニッコリして、
「できるよ。私は軍に強力なコネクションがあるって言ったろう?」
「はァ……」
カシェリーナは唖然としていた。
カロンはダークグレーのスーツに着替えて、屋敷を出ようとしていた。するとパイアの部下の三人の女が、半分裸のような下着姿のまま、玄関のロビーに現れた。
「あの、どちらへ?」
赤毛が尋ねた。カロンは三人を見て、
「仕事だ。お前達はここにいろ。動くんじゃないぞ」
と言い残すと、玄関から出て行ってしまった。三人の女は顔を見合わせた。
カロンは庭の一角にあるガレージに行き、黒のスポーツカーに乗り込むと、屋敷を離れた。
(ディズムには影武者がいると聞いている。それも一人ではなく何人もだ。一体どうやって本物を見分けるか、だが……)
カロンは思索に耽りながら、車を走らせた。
「ヒュピーがどこまで段取りをしてくれているかで決まるな」
彼はそう呟くと、ボックスからサングラスを取り出してかけた。そのサングラスに朝日が輝いていた。
ゲスは自宅の居間のソファにドリュアスと向かい合って座っていた。二人の間にあるガラスのテーブルには、離婚届が置かれていた。ドリュアスは年のわりには短いスカートをはいており、きれいな脚を組んで座っていた。
「朝からこんな話を持ち出してどういうつもりだ?」
ゲスはソファにそり返ってドリュアスを睨みつけた。ドリュアスは組んでいた脚を組み換えて、
「もう限界ですわ。貴方、昨日もあの女のところに行っていたのでしょう? ちゃんとわかっていますのよ」
ときわめて冷静な口調で言った。ゲスは目を伏せて、
「ではもうテスの命を狙うのはやめるということか?」
「何のことです?」
ドリュアスの声には抑揚がなかった。芝居臭いのである。ゲスは目を上げて、
「とぼけても無駄だぞ。それにな、お前が頼んだ殺し屋だが、あの男は動かんぞ」
「……」
ドリュアスは無言でゲスを睨み返した。ゲスはフッと笑って、
「カロン・ギギネイは、お前とお前の愛人が用立てた報酬を私に送って来た。お前に返してくれとメッセージを添えてな」
「……」
ドリュアスの顔が少しこわばった。ゲスは続けた。
「離婚はせんぞ。別に私は世間体を気にしているわけではない。お前がお前の思うように生きるのを阻止したいだけだ」
「何ですって?」
ついにドリュアスは大声を出した。ゲスは立ち上がって、
「それからな、お前の愛人の地位を奪って、明日から失業者にすることも可能なのだぞ」
ドリュアスは蒼ざめた。
(まさか……。この男、ガリーのことを知っているの……?)
「私がそんなことを実行に移す前に、無謀な計画は諦めることだ。出かけるぞ」
とゲスは言い捨てると、屋敷を出て行った。ドリュアスはそれを見届けてから離婚届をクシャクシャに丸めて、部屋の隅に投げつけた。そしてソファに顔を埋めて大声で泣き出した。
「悔しいィッ! あの男、殺してやりたいィッ!」
そんな奥方の様子を、キッチンのドアから家政婦と執事がそっと見ていた。
カシェリーナはもうすっかりびっくりしていた。マーンはカンサイ支部で高速ヘリを借り受け、その上自分で操縦しているのである。カシェリーナは後部座席から、インカムを着けたマーンを尊敬の眼差しで見ていた。マーンはその熱い視線に気づいてカシェリーナに目をやり、
「どうしたの?」
「あっ、いえ、その、先生って、政治学の大家だけの方ではなかったんですね。ヘリを借りたのもすごいですけど、まさか操縦できるなんて……」
「大学を卒業してから何年か、陸軍にいたからね。軍にいると、ただで全ての航空機、船舶、車両の免許が取れるんだよ。だからそれが終わると、さっさと軍をやめたんだ」
マーンは答えた。カシェリーナは、
「まァ……」
と驚いてから、先生らしいな、と思って笑った。マーンは前方を見据えて、
「このヘリならスーパーエクスプレスより速いから、二時間もあればニュートウキョウに着ける。お昼はニュートウキョウの陸軍本部の食堂で食べることになるだろうね」
「はい」
カシェリーナはマーンと一緒なのが、何故かとても楽しかった。
(先生って、顔が素敵なだけの人じゃなかったんだわ)
カシェリーナは本気でマーンのことを好きになり始めている自分に気づき、ハッとした。
(私ったら、レージンのことが心配でこうしているっていうのに……)
彼女は一人赤面した。
ディズムは議長室の椅子に座り、軍からのメールを見ていた。
「何故今になって奴が来るのだ……。何のつもりだ……?」
ディズムはそう呟くと、机の横にあるシュレッダーにメールを印刷した用紙を放り込んだ。そしてインターフォンに、
「ピュトンに連絡して、その後殺し屋の方はどうなったか調べさせろ」
「はっ!」
ディズムは立ち上がって窓に近づき、焼け野原と化したニュートウキョウを見渡した。
「この街は今まで何度も灰燼に帰しているが…。遷都した方がいいということか」
と彼は自問した。
カロンは地下街にある駐車場に車を駐め、煙草に火を着けた。そしてその明かりで腕時計に目をやった。
「十時か……」
時間である。しかしヒュプシピュレの姿はどこにもない。
(時間には正確なヒュピーが、どういうことだ?)
カロンは妙に思って車を降りた。すると後ろに人影が立った。カロンはハッとして振り向いた。
「私よ、カロン」
そこに立っていたのは、ショートヘアを逆立てたヘアスタイルに変えた、ヒュプシヒュレだった。服装も赤系のスーツ姿で、キャリアウーマンを思わせた。カロンはフッと笑って、
「どうした? 自慢の髪を随分思い切ってカットしたな」
「あの女も髪が長いんでしょ? パイアと同じじゃ嫌なのよ。特に今日はね」
「乗れ」
二人はカロンの車に乗った。カロンは車をスタートさせ、地下街を出て郊外へと向かった。
「ピュトンがディズムに貴方のことを喋ったらしいわ」
「何?」
カロンの目が鋭くなった。ヒュプシピュレは前を見たまま、
「どうするつもり? 情報が漏れているとなると、一筋縄ではいかないわよ」
「……」
カロンは黙っていた。ヒュプシピュレはこんな時のカロンには話しかけてはいけないのをよく知っているので、何も言わずにいた。しばらく沈黙の時が流れた。
「口が軽い奴がどうなるか、思い知らせてやる必要があるな」
カロンはようやく口を開いた。ヒュプシピュレはフッと笑って、
「ピュトンはまだニュートウキョウの支社ビルにいるはずよ。本社に帰れなくなったから」
「わかった」
カロンは車をピュトンビルに向かわせた。
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