第四章 暗躍

 月の政府の中枢はコペルニクスクレータに集中している。北緯10度、西経20度にある、直径91キロメートル、深さ3・3キロメートルの巨大な穴である。

 この穴をこれもまた巨大なドームが覆い、クレータの中は地球と同じ比率の大気が存在している。但し重力は地球の六分の一なので、埃が立つとしばらく漂っている。ただその反面重量のあるものの移動が容易で、地球では考えられない高さ3キロメートルのビルがたくさん建てられている。大統領官邸はその一角に巨大な敷地を占めているのだ。

 昼と夜はドームが二重になっていて、その間にある特殊な気体によって明るくなったり暗くなったりして作り出されていた。

 そのコペルニクスクレータからやや南東にある直径250キロメートルの平地が、中央の入り江と呼ばれる場所である。ここにはいくつものドームが建設されており、工業地帯、商業地帯、住宅地帯と造り分けられていた。

 その商業地帯のドーム群の一つにある銀行のロビーに、ゲスの部下である官僚がいた。彼は誰かを待っているようである。手には大きなジェラルミン製の鞄を持っていた。酷く重そうなのだが、彼は床にその鞄を置くつもりはなさそうだった。大事なものが入っているようだ。

「失礼。口座を開設したいのだが、どこに並べばいいのかな?」

 官僚に、彼より少々年上の、角刈りの頭にがっちりとした体格の、濃紺のスーツを着た、実に精悍そうな男が声をかけた。官僚はビクッとして、

「あ、それなら私が案内しましょう」

と言ってその男を先導し、ロビーの隅の人気のないところに行った。彼は男に、

「カロン・ギギネイさんですね?」

と尋ねた。男は無言で頷いた。そして、

「報酬は?」

「ここにあります」

 彼は鞄を指し示した。カロンは再び頷き、

「で、相手は?」

「総帥閣下です」

 カロンはその名を聞くとニヤリとした。そして、

「何もこんな回りくどいことをしなくても、堂々と話したところで、ディズム暗殺が地球側に漏れる心配はあるまい?」

「まァ、一応はスパイがいるかも知れませんので……」

「スパイはいないよ。地球は自惚れている。むしろ月のスパイの方が地球にたくさんいるはずだ」

「はァ……」

 カロンは鞄を受け取ると、

「それでいつまでに殺ればいい?」

「できるだけ早くです。一週間以内に。地球の主力艦隊が、コペルニクスクレータを攻める前にです」

「ならば明日にでも地球へ降りよう。でなければ間に合わない」

「やって頂けるのですね?」

「無論だ。私は月に味方するつもりはないが、地球の連中は嫌いでね」

 カロンは言った。官僚はニッコリして、

「わかりました。お願いします」

 カロンは無言で頷き、ロビーを出て行った。

 官僚はそれを見届けると、逆方向に歩き出した。

「あれは確かギギネイだな。もう一人は誰だろう?」

 二人のやり取りをたった一人だけ見ていた者がいた。金髪を肩まで伸ばした端正な顔立ちの若い女だ。服装はレザージャケットにレザーパンツ。身体の線を強調するようなコスチュームである。

「一応首領のお耳に入れておくか」

 女はロビーを出て行った。


 カシェリーナとマーンは、マーンのアパートからさほど遠くないところにあるファーストフードの店にいた。

「いつもこんな食事なんですか?」

 テーブルに並べられたジャンクフードの数々に、カシェリーナは目をパチクリさせて言った。マーンは苦笑いして、

「ハハハ。三十も半ばの男が一人暮らしをしていると、大概こんなものしか食べないよ」

「よく栄養失調になりませんね」

「まァね」

 そうは言いながらも、カシェリーナもこの手の類いの食べ物は嫌いではなかった。マーンはハンバーガーを頬張りながら、

「さっきの話の続きだけどね」

「はい」

 カシェリーナは身を乗り出してマーンを見た。マーンはハンバーガーをトレイに置き、

「戦争が本格化する前なら、何とか止める方法があるかも知れないよ」

「どんな方法ですか?」

 マーンはアイスコーヒーを飲んで、

「ニュートウキョウへ行く」

「ええっ?」

 カシェリーナの大声に周囲の人々がいっせいに彼女を見た。カシェリーナは恥ずかしそうに身を縮めて、

「ニュートウキョウに行って、どうするんですか?」

「ディズム総帥に会う」

「ええっ? どういうことですか? 会える訳ありませんよ。いくら先生が政治学の教授だからって無理ですよ!」

「カシェリーナ、この前私は、忌ま忌ましい偶然で、この戦争が起こることを一年も前から予測していたと言ったよね」

とマーンが言うと、カシェリーナはハッとした。

「まさか先生、軍にコネクションがあるんですか?」

 マーンはそれに黙って頷いた。

「とにかく君は一旦アパートに戻って出発の準備をしたら、空港に向かってくれ。私もすぐに後を追うから」

「でも……」

「迷っている暇はないよ。あと何日かで、地球の主力艦隊が月に到達してしまう。そうなればこの戦争は、地球と月の全てを巻き込む大戦になる」

とマーンは言った。カシェリーナは大きく頷いて同意した。


 一方ゲスは、連邦軍の中央作戦司令室で会議中であった。

「地球軍は我が国の防衛ラインを少しずつ破り、月に向かっております。何か手を打たなければ、あと三日でコペルニクスクレータは地球艦隊の主砲の有効射程内に入ってしまいます」

 イリアンド・ララルはパネルスクリーンに地球艦隊の展開予想図をシミュレートしてみせながら説明した。ゲスは、

「三日あれば、ギギネイがディズムを始末してくれるよ」

「ですが閣下、もしギギネイがディズムを暗殺しても戦争が終わらなかったら、どうするおつもりですか?」

 ララルは本気で心配していた。所詮ゲスは政治家で、戦略のことなどよくわかっていないのだ、と。しかしゲスはそれを軽くかわした。

「終わるよ。地球の連中だって、好きで戦っている訳ではない。停戦や休戦になれば、我先に帰還して行く。そういうものだよ、組織というのは」

「はァ……」

 ララルはそう言われれば返す言葉がなかった。

(ならば我らは何のために戦っているのだ?)

 彼はそうも思った。ゲスはニヤリとして、

「違うぞ、ララル」

と言った。ララルはその言葉にギクリとしてゲスを見た。ゲスはまるでララルの心を見透かすかのように、

「我々には大義がある。地球人共は地球を汚染するゴミだ。ゴミは処理しなければならぬ。ただ我々は殺人が趣味の訳ではないから、投降者や亡命者は歓迎する」

と言った。ララルはその時改めてゲスの底知れぬ恐ろしさを感じた。

(政治家とは、こうも大局的に物事を見られるものなのか……)

 その時ゲスの手元のインターフォンが鳴った。

「何だ?」

「外線からお電話です」

「わかった」

 ゲスはインターフォンから手を放すと、

「作戦は私抜きで進めて良い。ちょっと席をはずす」

と言うと、司令室を出て行ってしまった。

「また愛人か」

 ガルガロイが誰にともなく言った。サランドとララルは顔を見合わせた。

「六十過ぎてますますお盛んのようだな。奥方に子がなく、愛人に子があれば仕方ないか」

 ガルガロイはさらにそう言ってニヤリとした。他の者は何も言わずに互いに顔を見合わせたり、手元の資料に目を通したりしていた。


 月の南半球に、神酒の海という場所がある。

 ここは月のスラム街とも言うべき所で、強盗や殺人犯などの様々な前科者が集まっている。その中の一角に、個人的に巨大なドームを造り、ヨーロッパ中世を思わせる鉄の城を持っている者がいた。名前はパイア・ギノ。二十六歳になる彼女は、二千人ほどもいる女盗賊団の首領であり、月の暗黒街の顔役でもある。いつも黒皮のつなぎに身を包み、足下に届かんばかりに伸びた黒髪と、鋭いが美しい目をした美人である。何故彼女がここまで組織を大きくできたのかは誰も知らない。口さがない連中は、その美しい肢体に金持ちの男達を溺れさせてパトロンにし、そこから吸血鬼のごとく金を吸い上げ、今の自分の地位を築いたのだと言っている。半分は当たっているかも知れない。

「ギギネイが政府の男と会っていただと?」

 パイアは皮敷の大きなソファにゆっくり横になりながら、部下からの報告を受けていた。

「はい。確かディズム暗殺を依頼されていたのだと思います」

 報告しているのは、カロンと官僚が中央の入り江の銀行のロビーで会っているのを見ていた女である。

「ディズム暗殺か。カロンには、この前の大統領暗殺より大変かも知れないね。逃げ場を失うかも知れないよ」

 パイアはフッと笑って言った。そして女を見て、

「下がっていいぞ」

「はっ!」

 パイアは女が出て行ったのを見届けてから、

「ヒュプシピュレに連絡をとれ。カロンの動きが知りたい。それにピュトンにもだ」

と傍らにある通信機に言った。

「さて。どうなるか見物だね」

 パイアは声にならない笑いを口元に浮かべた。


 カシェリーナはマリンブルーのスリーピースのスーツに着替えて、空港に向かっていた。

(先生……。レージン……)

 タクシーの中で彼女は震えていた。運転手がそれに気づき、

「お客さん、寒いんですか?」

とルームミラー越しに声をかけて来た。カシェリーナはハッとして、

「いえ、違います。大丈夫です。ごめんなさい」

と応えると、窓の外を見た。戦争は始まったが、地球での被災地は首都であるニュートウキョウのみなので、ニューペキンの町並みは何も変わっていなかった。軍すら動いていないのだ。本当に戦争をしているのだろうかとカシェリーナは疑問を抱いたほどだった。

(こんなものなのね、戦争って……。自分達に被害がなければ、何もしないんだわ)

 カシェリーナはそんな今の現実がとても悲しかった。自分もその一人だったということも含めて。

「お客さん、着きましたよ」

「はい」

 カシェリーナは運転手の声に我に返った。精算をカードですませて、彼女はタクシーを降り、トランクから大きなショルダーバッグを取り出し、空港のロビーに向かった。

「人があまりいないわね」

 ロビーの中は閑散としていて、寂しいほどだった。

「カシェリーナ、待ったかい?」

 彼女がロビーを歩き始めた時、マーンが後ろから声をかけた。彼はダークグレーのジャケットにグレーのスラックスを履いており、右手にはアタッシュケースを持っていた。カシェリーナはニッコリして、

「いえ、私も今着いたところです」

「そうか、良かった」

 マーンは息を切らせていた。カシェリーナはスーツのポケットからハンカチを取り出して、

「先生、汗すごいですよ」

とマーンに手渡した。マーンは、

「あっ、すまないね」

とハンカチを受け取り、額の汗を拭った。

「後で洗って返すよ」

「いいですよ。お持ちになっていて下さい。私はまだ何枚か持っていますから」

とカシェリーナは応えた。マーンは苦笑いをして、

「すまないな、カシェリーナ」

とハンカチをジャケットの右ポケットにしまった。

「先生、ニュートウキョウは爆撃を受けたのでしょう? 便はあるんでしょうか?」

「直行便はないようだ。出る前に空港に問い合わせてみたんだがね。仕方がないから、オオサカに飛んで、そこからスーパーエクスプレスでニュートウキョウに行くしかない」

「……」

 カシェリーナは今さらながら、自分が危険かも知れない場所に行くのだと思い、身震いした。

「怖いのかい、カシェリーナ?」

 マーンが気づいて尋ねた。カシェリーナは頷いて、

「ええ、何か、その……」

「大丈夫だよ。月側は人工衛星を墜落させて議長官邸を潰そうとしたらしいが、官邸は核の直撃を喰らわない限り破壊されないからね。もう攻撃はないと思うよ」

「はい……」

 マーンの言葉にカシェリーナは少しだけ安心した。


 パイアは驚いていた。自分の部屋にいきなり現れた男を見て。

「カ、カロン。地球に行ったんじゃなかったの?」

 彼女は少し赤くなりながらカロンに近づいた。カロンはフッと笑って、

「月から地球に行く通常の交通機関は、地球艦隊に進路を制圧されて使い物にならない。だからお前に助けを借りに来たんだ」

 パイアは頷いて、

「それもそうね。それで、どうすればいいの? 船を貸すだけ? それとも部下を何人か連れて行く?」

「その前に……」

 カロンはパイアに近づくなり、唇を重ねた。パイアはそれに応じた。しばらく二人は互いの唇をむさぼり合ったが、やがてカロンが離れて、

「報酬を払わんとな」

「待って」

 パイアはカロンから離れ、椅子の肘掛けにあるボタンを押した。すると部屋の入り口が全て閉じられ、照明が暗くなった。カロンはニヤリとして、

「お前、結構ロマンティストなんだな」

「ええ」

 二人は皮敷のソファに倒れ込むようにして寝そべり、抱き合い、激しくキスをした。カロンの右手がパイアのつなぎのファスナーを下げた。パイアはうっとりとした瞳でカロンを見上げて、

「嬉しいわ、貴方が私に頼ってくれて。もう、ピュプシピュレとは会わないでね」

「ああ、約束するよ」

 カロンは心にもないことを言ってのけた。

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