第17話
あれから季節が幾つか過ぎ、同じようでいてまるで違う、新しい年を迎えた。
それでも僕の心は歪なままで、でも、僕はその歪さを保っていたくて海翔以外の誰かに逃げる事をしなかった。
叶うならずっと傍に……。けれど、いつかは終わりが来る。
その前に、して置きたい事があった。
「海翔、お願いが、あるんだけど……」
「ん?」
振り返り、僕を見上げた海翔は怪訝そうに眉根を寄せた。僕へと手を伸ばし、隣に座るようにと僕の右手を引くが、僕は立ったままでいた。座ったら、決心が鈍る。そんな気がしていたからだ。
「母さんの様子、見に行きたいんだ」
ずっと気になっていた事だった。
あの悪魔が、僕と言うちょうどいい相手を失って、次に目を付けるのは母しかいないと僕は思っていた。この事は海翔との事で悩み、苦しんでいても、頭の中を時々支配していたのだ。
海翔は明らかに嫌そうな顔をして僕を見つめた。
その目に僕のやましさが見抜かれているようで、きゅうぅっと胸が締め付けられる。
それでもどうしようもない。……好きだった。
「会いに行くの?」
僕は緩く首を振った。
「……遠くで見るだけ」
「そうか……」
「うん。それでね。一緒に来て欲しいんだけど……」
と、言う必要はなかったのかも知れない。海翔は僕の声を聞きながら立ち上がり、座っていた所為でずり上がっていた服の裾を下に引っ張った。
「早く済ませた方がいいだろ。……行こうか」
「今すぐ行きたい」とは言っていないにも拘らず、僕の心を読んだみたいに動き出した海翔に、僕は思わずぼうっとした。
「……今日はやめとくか?」
「……ううん。早く済ませたい」
半分本当。半分ウソだった。
だって、これが済んだら、僕の悩みは海翔の事だけになってしまう。
でも――。
外は桜で薄ピンクに染まっている。この景色を見られるのも今年が最後だ。
高校卒業後の進路は決めている。就職して、肩代わりしてもらった治療費(受け取ってくれないので先延ばしになっている)と生活費とを海翔のお母さんに返さなくてはいけない。本当は海翔と離れる理由が欲しかっただけ、なんだけどね。
一年と数か月ぶりのあのアパートは、こんなにボロボロだったかと目を疑うような汚れ具合だった。
ここに、あの悪魔と母がいる。
母は無事だろうか? そう案じる一方で、鉢合わせが怖くて体が震えている。
「真史? 大丈夫か?」
そっと触れられる海翔の体温に思わず身を預けた。海翔を見上げて無理に笑ってみせる。と、作り物の笑顔を見抜く天才は悲しげに眉を寄せた。
「大丈夫」
そう僕が頷いても、海翔は信じていない。信じていないのに、信じたフリをする。その優しさがどうしようもなく……。
母の笑い声を聞いたのはそれからすぐ後だった。
母はあの男と並んで歩き、幸せそうな笑みで頬を赤くしていた。その体は重そうで、すぐに身重なのだと知れた。僕の前では悪魔でしかなかったあの男も幸福そうに微笑んでいる。
よかった……、は、声にならなかった。
羨ましい、とも思わなかった。
ただ、
僕が邪魔だったんだ。
と、思った。
あの悪魔は「子供が嫌い」なんじゃない。愛した女と知らない男との間に出来た「僕」が嫌いだっただけなんだ。
そう考えるともなく考えていたら勝手に涙が零れていて、それに気づいたのは海翔の手が僕の頬を拭ったからだった。
僕は精いっぱいの笑顔を作って海翔に向けた。
「幸せそうでよかった」
「……そっか」
うん。と、頷けたか、は、よくわからない。
「帰ろっか」
笑って、海翔の手を引いた。
けど、海翔は僕の作った笑顔なんか見ていなかった。
僕も、無理に笑ってなんていられなかった。
唇に触れた柔らかい体温と、視界いっぱいの綺麗な顔とに、思考を奪われてしまった。
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