第13話
暫く外を歩いてから押し込まれて乗ったタクシーが向かったのは病院だった。
医者と話している海翔の声が少し荒っぽかったが、何を言い争っているのかまでは僕の耳には入って来なかった。
ぼうっとしている僕に看護師が「どこか痛い所は?」と訊いて来たけど、どこも何も、身体中痛くて上手く答えられなかった。代わりに口を突いて出たのは、
「海翔は……?」
だった。
「連れて来てくれた人ね? 今先生と話してるからちょっと待ってね」
内容は判らなくても会話しているらしい声は聞こえているから、そんな事は判っている。
でも、ぼろぼろと溢れ出す涙のように、声は勝手に出て行ってしまう。
「かいと……」
その声はどれだけの哀れな響きを持っていたのだろう。看護師が慌てたように部屋を出ていき、入れ替わりに海翔が僕の傍に駆け寄って来た。
「真史……、大丈夫か?」
いや、そうじゃなくて。と、海翔は口の中でもごもごと訂正したが、言葉が続かないらしい。その所為か心配の為か、眉根が寄って皺が出来ていた。
その縦皺が――恐怖と結びついている筈の眉間の皺が、初めて優しい物に見えた。
「警察には……?」
「言わないでくれって医者には伝えた。けど……、まぁそれはいいんだ。自分の心配しろ」
してるよ、自分の心配。母さんに嫌われたくないんだ。と、頭の中では簡単に言える物が、声になって出て行く事はなかった。
「……ごめん、ね? 海翔。迷惑かけたくなかったのに……」
「ほんとだよ。俺がトイレ行ってる隙に母さんにだけ言い訳して勝手に出て行くなんて……。どれだけ心配したと……」
そう言って海翔は僕の手をきゅっと握った。決して見える所を傷付けない悪魔のお陰で綺麗なままの僕の手に、海翔の体温は何故だか沁みた。丁度、消毒液が傷口に沁みる時のように――。
骨にひびが入っていると知らされたのは、海翔のお母さんが来た後だった。医者が海翔のお母さんを「お母さん」と呼ぶ様子は、どうやら血の繋がった親子だと思い込んでいるようで、僕には少し可笑しかった。それでつい笑ってしまったら胸が痛んで「ああ、ひびだけでもこんなに痛いんだ」と、殴られている間と同じように他人事みたいに思った。
なのに、言葉通り本当に他人の事である筈の海翔が痛そうに顔を歪めているのを見た途端、酷く胸が痛んだ。
だけど、海翔に掛ける言葉を、僕は持ち合わせていなかった。
僕の為に傷付く優しい人に掛ける言葉を、僕は一つとして知らなかった。
出掛かった「ありがとう」は違う気がしたし、「僕の為に傷付かないで」なんて自意識過剰なだけだ。
だから、僕は、そっと海翔の手を撫でて僕に注目させてから、海翔にだけ聞こえるように言った。
「大丈夫だよ」
そんなに痛くないから。と、続ける心算でいたのに、それは声にならなかった。
海翔の手が僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。それはもう十年以上、母にもしてもらっていなかった事。優しくて、温かい、愛情が伝わって来るような触れ方だった。
お父さんがいたら、こんな感じだったのだろうか――?
いや、きっと違う。
違うけれど、じゃあなんだ? と言われると、答えは出なかった。
ただ、ハッキリと言い切れるのは、
「この人をこれ以上苦しめたくない」
と、僕が確かに思った事だけだ。
そしてその為には母と距離を置かなくてはいけないのだろう。
母は何と言うだろうか? 僕の希望としてはあの人と別れて僕を選んで欲しい。けど、叶わないかもしれない。
だったらいっその事こっちから「捨てます」と言えたなら……、なんて、思っても無い事だ。どうしても、僕はあの可哀想な母を見捨てられそうにない。というか、そうだ、「嫌いになりたくない」んだ。
僕は海翔のお母さんをそっと視界に入れて、彼女が昔海翔に言った「嫌いになりたくないから離れる」と言う離婚の理由を、頭に浮かべた。昨日聞かされた時も感じた痛みが、僕の胸を詰まらせた。
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