第12話

 「和田家の子になりなさい」と言われて、素直に嬉しかった。だけど……、あの悪魔はきっと他人にも牙を剥くだろう。

 僕は海翔とそのお母さんの顔を盗み見て思わず唇を噛んだ。


 この人たちを巻き込んではいけない。理由をこじつけてでも、二人から離れなくてはいけない。そう思った。


 僕は「制服がどうの」と言って和田家を後にした。本当はあんな家には帰りたくない。けれど、もしもと言う事がある。


 例えば、僕を行方不明者として届けを出したら? ただの家出が大事になり兼ねない。その上この体だ。最悪の場合は海翔のお母さんが犯罪者扱いを受けてしまうかも知れない。そんな事あってはならないし、身一つで阻止出来るなら安い物だと思う。


 僕は一日も離れていないその部屋の臭いに吐き気を感じて立ち眩みを起こした。こんなに酷い臭いだったのかと思わされたのはきっと、和田家が優しさに包まれていたからだ。だけどここには……。


「てめぇ」


 ドスの利いた低音が僕の体を突き抜けた。その声にカタカタと震える僕の体は、思い通りには動かなくなってしまった。いつもこうだった。なのに、その「いつも」が時間を少し置く度に無くなってしまうかのように、恐怖には慣れそうもない。


「ごめんなさい……」

「あ?」

 窓からの明かりと天井灯の灯りを遮るように立つその人は、影の所為で黒くなった腕を僕へと伸ばして来る。硬くなった僕の体は勝手に強く目を瞑った。


「痛っ……」

 額に武骨な手のガサガサしている皮膚が擦れ、その直後に髪が引っ張られた。勝手に出て言った「痛い」と言う訴えが、額のそれか髪を引っ張られた所為か、自分でも良く判らない。そしてそれはゴッと脳を揺らした一撃に因って益々判らなくなった。

 閉じたままで暗い筈の視界がチカチカする。頭を壁に打ち付けられた所為だろう。



 いつから自分の体の痛みを他人事のように考えるようになっただろう。

 腹に入る足や拳の硬さを数えるようになったのは、いつからだろう?

 一昨日は、確か十八。その前は二十。今日は?

 めき、と言う嫌な音を体の中で聞いた気がした。だけど、身体中焼かれたように痛くてどこがどうだかもよく判らない。


 胸に入った一撃が、呼吸を奪い、視界は目を開いている筈なのに、真っ暗になった。






 遠くに、声がする。

 低い声。でも、何故だか安心する声。


 男の人の声が怖くなったのは、並木さんと出逢ってすぐだった。だからと言って女の人の声なら平気でも無い。今はもう、母の声すら……。




「真史! 真史っ!」

 声に誘われて開いた目は、強い光に堪えられずにすぐ閉じてしまった。だけど、そこにあった人影――悪魔の影と同じ黒の筈のその人影は、縋っていい物のように思えて、僕は手を伸ばしていた。その手に触れた人の温度は、温かくて、泣きそうになった。


「救急車、呼ばないと……」

 その声に、体が弾かれたように反応した。眩しさなど無視してはっと開いた目は海翔を映したが、安堵よりも先に働く物があった。


「いい……、呼ばないで……」

「でも……」

「おねがい……。おねがい……」


 並木さんが僕の所為でいなくなったら、母はきっと僕を恨む。母に嫌われたくない。嫌われたくない……。


「かいと……」

 僕は温かいその人に縋りついて哀願した。海翔の体は震えていた。けど、それは僕の体の震えだったかもしれない。

「……わかった」

 微かに聞こえたその声に僕はホッとした。と、同時に、がっかりもした。……がっかり、……したんだ。


「帰ろう、真史」

 縋りつく僕の体を抱き締め返して、海翔は泣きそうな声をしてそっと言った。その声は、悪魔と母とが結び付いたまま変わらない事に感じた筈の落胆をどこかへと押し流してしまった。


「……海翔」

 ゆっくりと何かが削がれていく痛みに気付きながらも、僕は海翔の体を引き剥がす事が出来なかった。

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