第9話

 俺の母はハッキリ言って家事が下手だ。料理は食えなくはない、と言った程度で、まぁマシなのだが、それ以外は何と言うか、幼児レベルだ。特に水回りが――と言うか水が関わると酷い物で、浴室を掃除すればずぶ濡れになって帰って来るし、床の水拭きなんかは水分をしっかり絞られない所為か床がずぶ濡れになる。とにかく、ずぶ濡れになる。それは食器を洗う時も例外でなく、いつもは俺がやっているのだが――。


「ご馳走して貰ったので僕がやります」

 と、真史が言い出し、

「じゃあ二人でやりましょ~」

 と、来た。そこに俺が口を挟む隙は無く、いや、正確には有ったのだが、母に意味深なニッコリ笑顔を向けられてゾッとしている間に事は進んでいたのだ。


「つか、断れよ。客に何させてるんだよ」

 と、一人になってから言っても(その上呟くような声しか出なかったし)無駄なのだが、言わずに居られなかった。が、よくよく考えて見れば俺も真史に料理させようとしていた訳で、母の事は言えなかったのだが――。


 そうしてまぁ、暇だな、と、暫くぼうっとしていた俺は先の「母の家事下手」を思い出してハッとした。

「真史がいるから平気か……?」

 と、自分に言い聞かせながらキッチンを覗き、一瞬抱いた期待を見事に裏切る光景に頭の中だけで絶叫した。


 母は役割分担をして、真史に洗った食器を拭かせようと流れ作業に持ち込んだらしかったが、水の扱いが下手な母が洗う係りなのはどう考えても失敗だった。と言うか、既に失敗している。母一人ずぶ濡れならともかく、真史まで水を被っている状況がそこにあった。

「ちょっと母さん! タオル!」

 俺は急いで浴室の棚からタオルを二枚取り出し母と真史にそれぞれ渡した。が、受け取っても尚真史は呆然としていて動かない。


「真史? 大丈夫か?」

 と、声を掛け、顔を覗きこんでやっと、目が微かに動いて俺を捉えた。

「びっくりした……」

「悪い。母さんが水に嫌われてんの忘れてた」

「着替えて来るわね~」

「先に謝りなさい!」

 怒る俺に母は「ふふふ」なんて笑って逃げて行った。いつもの母さんだった。


「夏でも濡れたまんまじゃ風邪引くだろうし、俺の服貸すよ」

「や、大丈夫だよ」

「風邪引かせたら悪いから、な?」

 真史は小さく唸りながら、俺が渡したタオルを服の上からギュッと押し当てていた。その様子はどこか怯えているようにも見え、俺は一瞬だけ呼吸が痛かったが、気の所為にする為に未使用のTシャツを探しに居間へと急いだ。


「これ、使って」

「でも、悪いし……」

「風邪引かれたら申し訳なくて、やっぱ無理にでも貸しとけばって後悔するからさ」

 ずいっとTシャツを真史の眼前に突き出して言う俺に、真史はまた小さく唸りながらも折れてそれを受け取った。


「サイズがアレかもだけど……」

「あの、トイレかどこか、一人になれるとこで……」

「? 母さんいないけど?」

 と、首を捻りながらも昨日案内した筈のトイレをもう一度案内した。が、ノブに触れるより前に使用中である事に気付いた俺はさっと真史に振り返った。

「母さんが入ってるわ」

 俺の声を聞いたらしい母が中で「入ってるわよ~」と言うのがくぐもって聞こえて来る。


「俺、キッチンに居るから、居間で……」

 と、真史を居間へと押し込んで、俺は一人でまた首を捻った。多分あの噂を気にしているのだろうが、だったらどうして一晩を共に出来たのだろう。


「まぁいいか」

 ぽつ、と、出て行った一人言に押されて俺はキッチンの流しに向かった。

 シンクの中はオムレツに掛けたケチャップやら、サラダに掛けたドレッシングやらが残ったままの皿が広がっていた。この光景から予測されるのは、水で落ちる汚れを流そうと出した水を被ったらしい、と言う事だ。俺はハッとして気付いた時には居間の扉を開けていた。


「悪い、真史! 服に汚れ飛んでたらすぐに落とさないと……」

 だから、と、続く筈だった声は途切れたきり、出て行かなくなった。


 真史の白い体は、服に隠れていた部分の殆どが赤や青や黒の痣で染まり、痛々しく腫れ上がっていた。

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