第7話

「だから遠慮しないで泊まっていって」

 脳内の言葉がするりと声になって、俺は俺の耳でその事を知った。と、同時に心臓がバクバクと音を増す。真史を見る事が出来ない。大した事は言っていない筈なのに……。

「うん。ありがとう」

 とだけ、真史は言った。小さくした筈のテレビの音が、真史の声を掻き消そうとするようにどっと笑い声を大きくした。


「夕飯は? 何か食べた?」

「うん……。一応……」

「一応って何? 何を食べたの?」

 俺は鋭い目を真史に向けた。前から真史の体の細さが気になっていた所為だ。顔立ちはどうしようもない事だとして、体の線は筋肉を付けるなり脂肪を付けるなりでどうとでも出来る筈だ。が、真史の華奢な体は日を増してさらに細くなっていくようで、あの笑顔に想起させられる【マッチ売りの少女】は多分体形の所為もある。


 真史は俺をチラリと見てすぐに俯き、ぽそっと答えた。

「スナック菓子、一袋……」

「は?」

 と、短音を発したきり、俺の口は塞がらなくなった。その上、暫く真史の俯いた横顔を凝視してしまった。


「今晩だけ、だよな?」

 ほうけたような俺の声に真史はまたチラリと目をやって、首を傾げた。

「今日の夕飯は偶々準備が出来なくて、そうなった、だけだよな?」

 と、問い直す俺に、真史は眉を八の字に下げて笑ってみせる。


「……何か作る」

 俺は出来もしない事を言って仁王立った。そのすっくと立ち上がるさまに釣られて顔を上げた真史は、俺のズボンの裾を摘まんで首を緩く振る。

「いいよ。大丈夫だから」

「大丈夫じゃ無いだろ。栄養バランスとか詳しい事はわかんねぇけど、スナック菓子ばっかじゃダメなのは解る!」

「でも悪いし……」

「それは……、俺のお節介だから」


 俺は真史の手を取って腰を屈め、真史の顔に俺の顔を近づけた。真史はブラウンの虹彩を四方に逃がした後どうにもならなくなったようで俯いて小さく唸った。

「でな、真史。お前は、料理できるか?」

「はい?」


 思わず顔を上げた真史は顔の近さも忘れて呆然と俺の目を見つめる。と、今度は俺が堪えられなくなって目を逸らす。


「いや、作るとか言っといてアレだけど、俺、料理できなくて……」

 肩が空気に押されて下がる。全くもって情けない話しだ。が――。

「……ふっ」

 そう声とも空気とも取れる一音を漏らした真史は肩を震わせて俯いていた。


「なに?」

「ふふっ……、ごめんっ……、でも……」

 声を震わせながらそこまでは何とか声にした真史は、頬を紅潮させて笑い始めた。その様子は花が咲いたようで可愛らしく、重い空気を一瞬で柔らかい物に換えてしまった。

「そうだよ。勢いで言ったけど、俺料理ダメなんだよ」

 と言う俺の声は恐らく真史には届いていない。真史は笑いの波の中に居て、それは俺が真史と知り合って初めて見た嘘の無い笑顔だった。


「簡単な物なら、作れるよ?」

 笑顔のままそう言った真史を、俺は「好きだ」と思った。そしてその好きが、笑顔限定

ではなく、友情のそれでもなく、恋だと言う事にも同時に気付いたが、罪悪感も否定したい気持ちも不思議と湧いてこなかった。


 ただただ、




 ああ、恋だ。




 と、思っただけだった。


 しかし、すぐに壁にぶつかり恋だ何だと考えていられなくなった。男に恋した事に、では無い。家の冷蔵庫に大した物が無かった事だ。


「お茶漬け位しか……」

 笑いのツボが浅くなっているのか、真史はまた笑い出し、俺はその鈴を転がすような笑い声を聞く度に酷く安心した。


 【マッチ売りの少女】も笑えるのだ、と――。


「真史、そうやっていつも笑ってなよ」

 俺は真史の腕に触れようと手を伸ばしかけて、でもすぐに引っ込めた。


 真史の笑顔が固まってしまっていたからだ。


 そしてそれはどこか、絶望を見たかのように冷たかった。

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