第3話 姫様と安穏。
寝室の窓を開けて、流れ込んでくる風を肌で感じる。
これから始まる一日を祝福をするかのように、東の空には綺麗に染まった紅黄色の朝焼けがあった。心地の良い風と静かな夜明けを――この素晴らしい光景を私だけが独り占めにする。
身の回りの世話をしてくれている専属の侍女が起こしに来てくれる時間よりも、目を覚ましたのが1時間以上も早かったのだ。座り心地の良くない木製の椅子に腰掛け、私の起床時間を待ち続けている侍女に心の中で謝りながら、私はずっと、この風を感じ続けていたかった。
一陣の強い風を受けて、私の金色の髪が靡く。
室内に響いた小さな物音に気が付いたのだろう、コンコンッと遠慮がちに寝室の扉をノックされてしまった。寝室に入ってきたのは、栗色の髪をお団子状に編んでいる侍女のアレクシア。私の大切な乳兄弟でもある。
「おはようございます。お目覚めになられていたのですね、フランツィスカ様」
「おはよう、アレクシア。今日は待ちに待った観兵式の当日だもの、子供みたいに早起きをしてしまったの」
「まずは落ち着いてください。御髪がすごいことになっていますよ」
アレクシアに開きっ放しの窓を閉められ、別室に備え付けられている鏡台の前まで移動を促された。鏡台前の椅子に座らされた私は不満顔で鏡越しのアレクシアをむーっと睨む。私の興奮具合がわかったのだろう、その顔は不出来な妹の成長を見守る姉のような微笑があった。ゆっくりと私の髪を櫛で梳かしてくれる。
「そうなような御髪では、湯浴みに行くこともできません」
「部屋にお風呂がないのは不便だよ。今度、勝手に作っちゃおうかな?」
傅かれる立場に慣れることはできないけど、そのことについては仕事のうちだと思って我慢するしかない。それが私達、リーフェンシュタール王国の王族に課せられた責務の一つなのだから。
“自分の幸福を捨て去り、平民の希望のために生き、平民に希望を捨てさせぬために犠牲になることを厭わない“
それは幼少の頃から、言い聞かされた言葉。
国益のために個々人の私欲を捨て去り、平民の奴隷になる。生まれた時から、我儘を言える立場や環境ではない。そんなことをしてしまえば、民衆の人心を惑わすことに長けた貴族と科学を無視している阿呆な宗教家の餌食になるだけ。
最大多数の最大幸福を実現するには、私に残されている時間が圧倒的に足りなさすぎる。私は矢継ぎ早に水面下で進行している計画の進捗状況をアレクシアに質問した。
「観兵式は予定通りに行なえると思うけど、実験農場のジャガイモと人参の発育は大丈夫そう?新種改良されている品種とはいえ、栽培するのは初めてでしょう?」
このコロンブス交換が成立してしない世界で、未発見の野菜の栽培をすることは苦難に満ちている。今までリーフェンシュタール王国に存在していなかったジャガイモなどは、多方面に影響力のある貴族や教会から干渉されて、栽培することも、増産することも、できなくなるかもしれない。
貴族や教会は天空に近い食べ物こそが、神々が与えてくれた至上のものだと主張しているのだ。林檎や葡萄は神々から与えられた神聖な食べ物、地中に埋まっているカブやビーツは家畜や奴隷が食べる下等な食べ物。3~6年の間隔で、大規模な飢饉が起きるというのに暢気なものだと思う。そういう無責任な寝言は、自分達が安穏と生きられている(飢えていない)から言えるのだ。
「栽培のほうは順調のようですが、連鎖障害についての理解が追いついていないようです」
「担当の文官が説明しているのでしょう?」
「日本語の教育を習った私でも理解できないところがあるのです。速成教育されている文官に連作障害の説明は荷が重いと思います」
「うぅ~~……、それは問題あるよね?連作障害の概念が理解できないなら、三圃式農業や輪栽式農業を理解できないと思う。ネズミの駆除と入浴施設の建設のほうは順調そう?」
「教会勢力が弱い農村地域で普及が始まっているようです」
問題は山積みである。
銅パイプとドラム缶(のような銅製の筒)を利用した入浴施設で、ペストの拡大は抑えたけれど、まだまだ公衆衛生とはいえない規模。人糞(家畜の糞も含む)の醗酵熱を利用して、地下に埋めた銅パイプとドラム缶に循環している水を温めるだけの簡単な仕組みなんだけど……。それさえも、阿呆な教会からの反発がすごい。汚物を利用したお湯に入るなんて、神への侮辱とかなんとかで。教会はペストの拡大を許しているのに文句だけは言われている。
閲兵式で浮かれていた気分が、空気の抜けた風船のように萎んでいく。
極少数の理解者を除いて、この世界の住民は無知な馬鹿ばかり。国庫を潤わせるための提案を献策したら、邪魔をしてくる貴族から暗殺者を送られる始末。今生の母親であるリーフェンシュタール王国の女王陛下に守られていなければ、私はとっくの昔にあの世行きだっただろう。
髪を梳かし終わったアレクシアに、どうしても私は甘えたかった。
「シア姉……、私をぎゅっとして。ぎゅっとしてくれないと、私……グレてやる」
「………もう。さっきまで、元気いっぱいだったのに。フランは何も悪くないよ。よしよし、いい子いい子。頑張り屋さんで泣き虫のフランを、私は嫌いになんてならないからね」
後から抱き締めてくれるアレクシアの体温を感じながら、自分の子供っぽい言動が恥ずかしくなってくる。前世と今世を合計して40歳をこえる年齢なのに、精神が未だに幼い肉体に引きずられる。
この世界に転生した直後は、本当に気が狂いそうだったのだ。
建設途中の鉄道橋の下を通る道路――そこで、私は落ちてきた鋼鉄製の橋桁に全身を押し潰されて、ぷちっと死んだ。小さな羽虫のように。
……前世の最後を思い出しただけで、欝になりそうだ。
それに自分が三十路の童貞魔法使いのままで、TS転生したという残念すぎる現実を直視しすぎると自然と死にたくなってくる。今世では同じ性別だったこともある男性に抱かれる可能性さえあるのだ。そんな状況を想像しただけで、発狂を繰り返しそうだ。
「シア姉……、もうちょっと強めに抱き締めて」
背中に感じるアレクシアの胸の感触を今は楽しもう。強く押し付けられるアレクシアの巨乳の感触を楽しみながら……げふんげふん、何か違った。適度なスキンシップがなければ、現実逃避から復帰できそうにない。
◇◇◇
リーフェンシュタールの王城の内部構造を端的にいえば、使用されていない部屋が多い、通路が入り組んでいる、非常に暗い、に要約することができる。他国からの侵略や内乱が起きるたびに王城内部の変更と増築が幾度となく行なわれた結果、初期の基本設計を完全に逸脱している奇怪な内部構造を持つようになった。
「相変わらずの迷路ですね……、この城の構造は」
外向きの言葉遣いで、暗い通路を先導してくれているアレクシアに話しかける。
完全なプライベート空間である私の部屋以外で、丁寧なお姫様言葉を崩すこともできない。だって、私の周囲には護衛の女性騎士が周囲に目を光らせているから。その護衛騎士の中には、私を廃嫡しようと躍起になっている敵対勢力に組している者もいる。私にできることは、信じられる王家派の女性騎士が私を護衛しやすいように直近に添えるだけ。
そして、私に一番近い距離にいるのはアレクシアだ。
アレクシアはベルツ伯爵家の三女で、ベルツ伯爵家そのものがガチガチの王家派貴族の重鎮で、反王家の立場をとる王党派貴族達を小便(宗教)臭い駄犬だと公言するほどの忠義に厚い一族の一員である。
まぁ……そんなベルツ家に見捨てられる王族は、王族の資質を疑われるレベルの馬鹿ですけどね。大抵は問題が表面化する前にベルツ家を含む保守系王家派の貴族達から毒杯を与えられ、それを一気飲みを強制されて……ごにょごにょ。私には四人の叔父上がいたことになっている。全ての死因が病死として処理され、死亡した事実のみが世間に公表されているらしいです。現在残されている王家の血筋は私とお母様以外、誰一人いないらしいけど。
「元は篭城用の軍事施設ですから」
私に微笑みながら、返事をしてくれるアレクシアに後から抱きつきたい。
うん、今すぐ抱きつくのは我慢しよう。これから、女同士の裸のスキンシップがあるのだから!寝ずの番もしていたアレクシアの勤務は、お風呂の仕事を最後に終わりになってしまう。湯船に浮かぶ母性の象徴をニヤニヤと眺めるのが楽しみだ。それにしても……通路が長すぎる。
「……湯浴みをするのも一苦労です」
城内を移動するだけでも、長時間拘束されてしまうのだ。朝の湯浴み――お風呂に行くまでに20分、食事を取るための部屋に辿り着くまでが40分、城外に出るのは一時間以上かかってしまう。城内の移動時間だけで、これだけの時間が経過してしまう。
思わず、小さな溜息が漏れる。
………命を狙われている姫様家業も楽じゃない。
一日に六回も着替えをする必要があるのだ。以前、腰のコルセットを絞められすぎて、肋骨を何本か骨折してからは、窮屈なコルセットの着用は免除されている。囚人のような環境に泣きそうになる。以前は寄せて上げる胸(贅肉)もないのに、コルセットの着用を義務付けられていたのだ。胸パットを着用せざるえない、私のぺったんこ体型に誰か謝れ。強調できる胸部装甲がなければ、くびれた腰なんて意味がないのに。
女王陛下………お母様のスタイルは見惚れるぐらい良いのに、どうして私の胸部装甲は素直に遺伝しなかったのか謎だ。金髪と碧眼は素直に受け継いでいるのに。まあ、そのお母様も私が転生者だと気づかなかった頃は、就寝前に筋トレをしてたしなぁ……鬼の形相で。軽いトラウマになりながら、体型の維持は日々の努力で成り立つものだと理解しましたよ。
お風呂が遠い……早くアレクシアのおっぱいが見たい。
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