終話 夜の下町に宴の声は響く

 その後、事件に関わった面々は警察の聴取を受けるため、しばらくのあいだ拘束された。鹿野の車を追いかけてきた黒磯の車も到着した。彼は途中道に迷ったらしく、中野の街中をぐるぐる回っていたらしいのだ。

 黒磯の車にはチハルの父が同乗していた。思わぬところでチハルの父に初対面を果たした久我は、緊張のあまりフライングを犯した。


「京和地所の久我義人と申します。チハルさんとお付き合いをさせていただいております」


 上ずった声で久我がそう言った時、チハルは思わず彼の横顔を凝視した。額に変な汗を掻いて、とんでもない目ヂカラを発している。最早、自分が何を言っているのかもよく分かっていないようだ。


「……そっ、そうそう! 私たち最近付き合い始めたの。今度の休みにでも、うちに挨拶に来てくれるって話しててね。今日は彼がいなかったら本当に危なかったんだから……!」


 慌てふためきながらもチハルは口裏を合わせた。父はにっこり笑って、「娘をよろしくお願いします」と腰を折った。


 事件の方はというと、事情が複雑なため警察署まで移動して話をすることになった。黒磯とチハルの父は、関係者に挨拶をして帰っていった。

 あっちゃんパパは両脇を警察官に挟まれ、パトカーで連行されていった。

 チハルと久我はふたり一緒に。ラッキーとサカグチの方もペアになって、それぞれ別のパトカーで警察署へ移動した。

 鹿野荘の火災は、鹿野が予想した通りあっちゃんパパの犯行だった。彼はラッキーのあとをつけていて、彼女が鹿野荘を逃避部屋として使っていることを知った。そこへサカグチがやってくるのを見て、ふたりが逢引をしていると思い込んだらしい。

 犯行に使われたのは「延べ竿」と呼ばれる繰り出し式の釣り竿だった。布切れに油を浸みこませ、タコ糸を使って二階のゴミが溜まっているところに火を落とす。

 あっちゃんパパは釣りが趣味だったから、もちろんキャストは一度で成功した。布切れに火をつけてから、わずか二秒の出来事だ。油を吸い込んだタコ糸はいとも簡単に焼き切れ、あとは竿を収納して、鞄にしまって終了だった。もともとゴミが溜まっていたから、多少の燃えかすがあっても火元を特定するには至らない。

 かつて鹿野荘は学生寮だった。その頃の名残で、一階の一番奥には管理人室として使っていた小部屋が今もあった。

 その部屋の裏口の鍵が壊れたままになっていることは、チハルも久我も知らなかった。目撃者もなく逃げられたのは、あっちゃんパパがそこから裏の路地に出たからだ。ラッキーを見張るため、日々鹿野荘を訪れていたあっちゃんパパは、誰よりもこのアパートの造りに詳しかった。



「あー……! やっと終わったなあ」


 警察署から出てきた久我は、両手を天に突き出して伸びをした。隣を歩くチハルも、思わず欠伸が出て口を押える。腕時計を見ると、短針は午前四時にほど近いところを指していた。

 チハルは立ち止まって久我の方を向いた。今日の礼をまだきちんと言っていなかった。両手を前で合わせて背筋を伸ばした。


「久我さん、今日は遅くまでお疲れ様でした。それと……ありがとうございました。あの時、久我さんが来てくれなかったら、本当に、私……」


 ――死んでいたかもしれない。

 その言葉が頭をよぎった途端、突然喉の奥に痛みが生まれた。久我は覚えていないかもしれないが、再会した瞬間、あの状況で彼は一瞬笑顔を浮かべたのだ。安堵というより、ふたりで一緒にいる時に見せる、いつもの笑顔そのままだった。

 もしもほんの少しでも彼の到着が遅れていたら、その笑顔に会うことはもうできなかったかもしれない。犠牲になるのが自分じゃなかったとしても、自分も、久我も、心から笑える日は二度と訪れなかったかもしれない。それだけに、誰も血を流すことなく事件が解決したことに感謝した。この先もずっと、ふたりで笑って過ごせることに「ありがとう」と言いたかった。

 喉元に熱いものが込み上げてきて、チハルは何も言えなくなった。ただ、ぺこりと頭を下げた。久我も改まって、「どういたしまして」とお辞儀をした。同時に顔を上げた瞬間、ふたりの腹の虫が一斉に叫びを上げたので思わず笑ってしまった。


「やだ、もう」


 チハルは鼻をすすりながら腹を押さえた。


「ホッとしたら腹が減ったよな」

「うん」

「何か食べてく?」


 通りに向かって再び歩き出しながら、久我は聞いた。


「こんな時間じゃ電車も動いてないですね。タクシーでも拾います?」

「そうだな。ファミレスくらいしか開いてないだろうけど、どこかに寄って腹ごしらえするか。……それから、そのあとだけどさ……」

「ん?」


 立ち止った久我を振り返り、チハルは小首を傾げた。ちょっと唇を尖らせたのが久我にはかわいらしく、胸を掻きむしりたい気分だ。


「……あ、あのさ。どこかに……とまっ、泊まったりする? えーっと、あれだ……なにも、しっ、しなっ、しないから」


 しどろもどろになりながらも、久我はなんとか最後まで言い切った。また汗だくになってしまい、彼は額を手の甲で拭った。

 チハルは目をまん丸に広げて胸を手で抑えた。

 やっと久我がダイレクトに誘ってきた――そのことが嬉しくて、顔が焼け石のように熱くなる。足が震える。自然と頬も緩んでしまうが、期待していたのを悟られたくない。チハルはちょっと俯いて、髪で頬を隠した。


「久我さん……何もしないって感じじゃないですよ。……でも、嬉しいです。約束通り事件も解決したし、今日の記念ということで、あの、どこへでも……ついていきます」


 久我の指に、チハルは自分の小指を絡めた。それを痛いほど久我が握り返す。見上げると、昂る気持ちを抑えようと堪える彼の瞳が、優し気に揺れていた。


「……チハルちゃん」

「はい」

「ずっと言いたくて堪らなかった。君が大好きだ」

 

 久我の視線が射抜いてくる。チハルは何度か瞬きをして、彼の指を握り直した。


「私も……あなたが大好きです」


 チハルの頬に、久我の震える指が伸びてきた。眼鏡の奥の睫毛が瞬く。冷たく、しっとりと汗ばんだ手から、彼の緊張が伝わってくる。

 チハルは瞼を閉じて上を向いた。唇の稜線にぬくもりを感じた瞬間、強く背中を抱き寄せられた。そこから何も考えられなくなった。ただ、触れ合う唇の感触が優しくて、あたたかくて、艶めかしくて。どこか知らない、遠い世界へと連れていかれるような感じがした。

 散々お預けを食らったせいで、食欲の虫がいくら騒いでもふたりの唇は離れようとしなかった。すでに月は隠れていたが、どこまでも深い紺碧の空には、ダイヤモンドが弾けたような、満天の星が瞬いていた。



「じゃじゃーん! わたくし瀧川チハルは、このたびめでたく宅建士になったことをここにご報告します!」


 合格証書を高々と掲げて、チハルは満面の笑みを浮かべた。カーテンの下りた店内には、少し早いクリスマス風の飾り付けがされている。チハルの頭にはカラフルなメタリックの三角帽子。後ろの壁には、コピー用紙に書かれた『祝・瀧川チハル宅建士合格!!』という大きな筆文字が貼り出されている。


「おめでとう! よく頑張ったね、チハルちゃん!」


 久我は指笛を鳴らして頭の上で手を叩いた。が、その隣で社長の黒磯は、椅子の肘掛けに頬杖をつき、チハルを斜め下から見上げている。


「正確には合格証書の段階じゃまだ宅建士じゃないよなあ。ちゃんと都庁で登録を済ませて、宅建士証貰ってきてからでないと」

「……もう、社長! せっかくのお祝いの席なのに、そうやって水を差さないでください」


 チハルが腰に手を宛てるのを見て、黒磯はげらげら笑った。


「冗談、冗談。チハルちゃんも今回は頑張ってたしな。とにかくおめでとう。……とまあ、これでチハルちゃんも無事宅建士になれるわけだし。少し早いけど俺は隠居しようかな。久我君、チハルちゃんと一緒にこの店継がない? 夫婦経営でさ」


 あーっ、とチハルが抗議の声を上げた。


「私バーターですか? ひどい!」


 ぷりぷりと怒ったふりをしつつも、チハルの顔は真っ赤だ。しかし久我は余裕の笑みを浮かべている。乾杯のビールをそれぞれのグラスに注ぎながら、意味ありげな視線をチハルに送る。


「いいですよ。それでチハルちゃんがついてくるなら。ね」


 にこっ、と微笑まれて、チハルはついに下を向いてしまった。


「久我君も言うねえ。でも、鹿野さんの物件が増えたから管理手数料だけでもバカにならないよ。それに春には賃貸マンションも建ち上がる」

「あ、例の『仮称鹿野マンション』ですね? いいなあ。俺が借りたいくらいです」

「チハルちゃんと一緒に住めば?」

「いいですね。彼女さえ首を縦に振ってくれれば」


 男ふたりに槍玉にあげられて、チハルは照れまくっていたが。そのチハルのことを、黒磯は含みのある目つきで見てきた。


「俺知ってんだよねー」

「……何がですか?」

「この前ふたりで温泉旅行に行ってただろう。君のご両親は『女友達の家に泊まりに行く』と思ってたみたいだけど?」


 チハルは両目を見開いて思い切り息を吸いこんだ。


「ちっ、父と母には内緒にしてください! お願い……!」

「さあてどうするかな」


 黒磯は意地の悪い笑みを浮かべて、チハルと久我の顔を交互に眺めた。久我までが面白そうな顔をしているので、チハルは口を尖らせている。


「久我さん、なんでそっち側なの」

「俺はいつだって君の味方だよ。ただ、やっぱりお土産を買ってこなかったのは失敗だったなって。黒磯さんに買わなくていいのか、って俺は何度も言ったのに」

「だって、友達の家に泊まったのに、そんなもの渡したらおかしいじゃないですかーー!」


 ふたりのやり取りを見て、黒磯は楽しそうに笑った。


「ま、俺は以前から言ってるように久我君を100パーセント買ってるからな。君ならいろいろとうまくやってくれるだろう。……さて、そろそろパーティーを始めようじゃないか。チハルちゃん」


 はい、とチハルは気を取り直して立ち上がった。白い泡の立ったグラスを手にして「では、僭越ながら」と咳払いをする。


「えー、本日は私のためにパーティーを開いていただき、ありがとうございます。無事試験に合格できたのも、ひとえに応援していただいたおふたりのお陰です。これからもお客様のため、この街のため、日々努力していきたいと思いますので、えー……なにとぞご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。最後に、社長の無病息災と――」

「いいね」

「七福不動産の発展と、それから、久我さんと私の交際がうまくいくよう祈念いたしまして――」

「京和地所も発展させようよ」

「それはいらん。君たちの結婚なら祝福する」


 チハルはふたりを睨みつけた。


「おふたりとも、そろそろ黙ってくださいね。……ではいきますよ。せーの……!」

「かんぱーーい!!!」


 夜の下町に楽しげな宴の声が響いた。

 笑う時もある。涙を零すこともある。人を支え、人に育てられ、時に心折られながら、街と一緒に成長していくのがこの仕事だ。

 これまでどんなに辛い目に遭っても、明けない夜はなかったし、雨は上がった。鹿野荘に絡んだ事件が終わってからの半年余り、久我にいろいろと教わりながら、自分も力をつけてきたとチハルは思う。

 末は社長夫人? いやいや、夢はでっかく! 久我と力を合わせて、いつか自分たちの手で、新しい会社を立ち上げたいと思っている。



                               了

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不動産屋は危険がいっぱい! ~廃墟なアパートの秘密の部屋~ ととりとわ @totoritowa

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