第32話 邂逅 2
辺りはしんと静まり返っていた。誰も口を利くものはいない。周囲には人だかりができていて、大勢の人間がスマホを掲げている。ドラマの撮影現場のような、異様な光景だった。
襖が開く音がして、一同のあいだに緊張が走った。
「お前が中に入ってこい。ひとりで来なかったらババアを殺す」
男のだみ声が周囲の空気を切り裂いた。ラッキーは傍目にも分かるほどがたがたと震えている。おぼつかない足取り。ふらつきながら階段を上がる。
「約束してほしいの。私がそこまで行ったら、絶対にお母さんを殺さないでちょうだい」
「ああ」
「……本当ね?」
「ああ」
久我は細い木切れのようなラッキーの背中をじっと見ていた。男の声は狂気を含んでいる。彼女は本当に大丈夫なのだろうか。少し前に鹿野が言ったことを思い出して戦慄を覚えた。
『まさか、あっちゃんパパさんがアパートに火をつけたわけじゃないですよね?』
この男が放火の犯人だとしたら、怒りに任せて何をしでかすか分からないと思った。何せアパートをひとつ焼いたのだ。下手したら何人も死んでいた。ひとりくらい殺すことなんてどうということもない、そう思っているかもしれない。
久我は足音を立てないよう、じりじりと階段の近くににじり寄った。玄関から死角になるよう、ドアの陰に隠れるよう身をかがめた。
「どうした、早くしろ! さっさと来ねえか!」
恫喝する声が聞こえた直後、男が玄関の中に姿を現した。チハルは息をのんだ。男の髪はぼさぼさに乱れ、顔は赤黒く上気しきっている。さっき見た時よりも明らかに狂気が増した感じだ。どこか怪我をしたのか、グレーのスウェットには血液と思われる赤いものが点々と付いていた。
男は手を伸ばしてラッキーの長い髪をむんずと掴んだ。家の中に引きずり込もうとしているらしい。階段近くに待機していた久我が、猛然と飛び出して男にタックルした。
獣のような呻き声を上げて男は倒れた。が、依然として包丁は握ったままだ。
「てめえ……!」
腰をさすりながら男は立ち上がった。どよめきとも悲鳴とも取れないものが野次馬のあいだから上がる。パトカーと救急車が近づく音がしてきて、あたりは一層騒然となった。
久我はボクサーのように身構えた。傘でも箒でも、ここに棒状のものがあれば百人力だが、なくても負ける気はしなかった。相手は腹の出た中年オヤジだし、ドラマのような筋書きに興奮もしている。それになにより、すぐそばでチハルが見ている。
会っちゃんパパが包丁を握りしめて突進してきた。久我は素早く身をひるがえし、階段から飛び降りた。これで取りあえず家の中の老人は安全だろう。
男は久我を追って階段を降りてきた。その隙に久我は何か棒状のものがないかと探したが、あいにく目につくところにそれらしきものはない。男が迫ってくる。狂ったような雄叫びを上げながら、地面から三段くらい上がった辺りから、久我に向かってダイブした。
「久我さん! 受け取って!」
チハルの声に、久我は咄嗟に振り向いた。何か銀色の物体が、槍の如く真っ直ぐに向かってくる。が、少し距離が遠い。久我は地面を思い切り蹴って飛んできたものをキャッチした。どうやら簡易モップの柄のようだ。軽すぎて威力は低いが、久我が本気を出したら男を殺しかねないのでちょうどいい按配だ。
「この野郎が!」
男は口の端に泡を溜めて怒り心頭という様子だ。久我が飛び退いたせいでさっきの攻撃が空振りに終わり、腹を立てたらしい。
男は闇雲に包丁を振り回して迫ってきた。しかし、久我は冷静な態度を崩さなかった。モップの柄を中段に構えたまま摺り足で移動し、隙のできる瞬間を狙った。
男が地面の段差に躓き、バランスを崩した。その一瞬を久我は見逃さなかった。腹に力を籠め、踏み込みざまに軽く手首を返した。
ぐあっ、という叫びとともに男は包丁を落とした。久我の鮮やかな小手が決まったのだ。そのあとも攻撃の手を緩めることなく、久我は男を追い詰めた。頭部は狙わない。その程度の冷静さは保っている。足元と胴を執拗に責めると、ついに男は膝を折った。
「やったー!」
叫んだのはチハルだ。隣にいたラッキーも一緒になって、ふたりで手を取り合って喜んだ。それを合図に野次馬からも歓声が上がった。ちょうど到着した警察官がばらばらとやってきて、男を取り押さえた。
久我がチハルの元にやってきた。おどけたように両手を広げ、ふらふらと倒れ込むようにしてチハルを抱きしめた。
「よかった。君が無事で」
「久我さん……めちゃくちゃかっこよかったですよ」
チハルは久我の熱い胸に身体を預けた。
「ホント? 頑張った甲斐があったよ」
「どうしてここが分かったんですか?」
「どうしてって……あれ? 鹿野さんは?」
久我は野次馬でごった返す小さな庭を見渡した。警察が規制線で囲っていく外側に、しょぼくれた様子で鹿野が突っ立っている。
「鹿野さん」
久我は鹿野のところへ小走りに行って、規制線の中に入れた。「関係者です」というと警察は何も言わずに通してくれた。
「どうしたんですか? 今日はあなたも功労賞をもらう立場なのに浮かない顔ですね」
久我の顔をちら、と見上げて、鹿野は深いため息を吐いた。
「ラッキーさんとサカグチさんがあんなに仲良かったなんて……全然知りませんでした」
「あー……、そういうことですか」
久我は気の毒そうに口元を歪めて、鹿野の背中に手を置いた。きっと鹿野はラッキーが気になっていたのだろう。だからこそこんな時間まで運転を買って出て、ラッキーの家を探すのも懸命に手伝ってくれたのだろうが……。彼にはもう少し自信を持ってもらいたいものだ。
「まあでも、ラッキーさんの日記にもあったじゃないですか。『バンビさんみたいな人と再婚したい』って」
「えっ、そんなこと書いてありましたっけ」
鹿野の瞳が俄然輝いた。
「確か三月十一日の日記です。USBメモリは警察に提出してしまうかもしれませんが、戻ってきたら確認してみてください。日記というものは自分が見るためだけに書くものと思われがちですが、実は人に読まれることを前提に書いているという話もありますよ。もしかしてラッキーさんは、その気持ちをいつか公にしたかったのかも」
鹿野は真っ赤な顔をして、嬉しそうに頭を掻いた。なんだかんだ言っても、彼は穏やかでいい男だ。機転も利くし、デイトレで成功しているのだから頭もいいのだろう。幸せになってもらいたいと思う。
「ところで鹿野さん、俺も今夜は決めるつもりです」
「は? 決めるって、何を?」
きょとん、とする鹿野をよそに、久我はスーツの汚れを払い、ネクタイを直した。
「鹿野さんもやる時はやった方がいい。あまり慎重になりすぎると後悔すると俺は学んだんです。じゃ」
「はあ」
久我は鹿野の肩に手を置いてその場を離れた。
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