第27話 大変なことになった

「あっちゃんパパさん!?」


 男を見て鹿野が叫んだ。久我は鹿野の身体を起こしてやり、あっちゃんパパを睨みつけた。


「あーあ、どいつもこいつも」


 捨て台詞とともに、あっちゃんパパはチンピラのような歩き方で近づいてきた。あまり背は高くないが、がっしりと肉付きが良く、熊みたいだ。

 久我は身構えた。これがさっきの電話の男なのか、と目を見張った。予想していたのとまるで雰囲気が違う。声の感じからすると、明るく親切で人懐っこい男のようだったのに。


「いけないねえ、人の女に手を出しちゃ。分かるよね? バンビさん」

「なっなっ、なんのことかまったく分かりませんよ。一体どうしちゃったんですか、あっちゃんパパさん!」

「彼女の電話番号を知りたいって? こんな時間になんの用だよ」

「それは……えと、あっちゃんパパさんには……言う必要ないですよ」

「俺に言う必要ないって? ラッキーちゃんは俺の女だって言ってるだろう。何をするにも俺の許可が必要なんだ」

「は? 本当にどうしたんですか、あっちゃんパパさん――ひいっ!」


 鹿野は素っ頓狂な声を上げて久我の後ろに隠れた。

 久我は一瞬何が起きたか分からなかったが、あっちゃんパパがこちらに身体を向けた瞬間に理解した。グローブように分厚い右手には、ぎらぎらと光る金属性のものが握られている。鹿野が先に気付いたのは、彼が久我の左側にいたからだろう。

 久我は鹿野を背中に隠したまま後ずさりした。電話ではあたかも親切な人を装っておいて、包丁を持ってやってくるとはまともじゃない。さっきは運転を誤ったのかと思ったが、やはりあれも車で撥ねようとしたのか。

 あっちゃんパパは凶器をちらつかせながら、じりじりと迫ってきた。鹿野がしがみついてくるので久我も恐ろしくなった。こんなに強く上着を握られていたら、いざという時に逃げることができない。


「気付いてないとでも思ってんのか? お前ら全員ラッキーちゃんを狙ってるの、俺は知ってるんだぞ」

「な、ななな何言ってるんですか! だからといって乱暴を働くことないでしょ!?」

「あっちゃんパパさん、落ち着いてください。冷静に話しましょう」


 両手を前に出して言ったのは久我だ。情けないことに声が震えている。あっちゃんパパはそこで初めて久我の存在に気付いたようだった。


「なんだあ? お前。ラッキーちゃんとどういう関係? 投資仲間?」

「いえ、そういうわけではありません。鹿野……いや、バンビさんの知り合いです。まずはその危ないものを下に置きましょうよ。ね?」


 穏便に済ませたいことをアピールするため、久我はやたらと低姿勢で言った。ところが、あっちゃんパパは何の前触れもなく、いきなりふたりに向かってきた。彼との距離は三メートルほどあった。三メートルしかなかった。


「くそっ」


 久我は横に飛び退きながら地面の砂利を掴んであっちゃんパパに投げつけた。ばらばらと音を立てて、砂利はあちこちに散らばった。だめか、と思ったが、そのうちの一発が見事に顔に命中していたようだ。あっちゃんパパは「ううっ」と呻いて腰を折った。


「鹿野様、逃げて下さい」


 久我はそう言って振り返った。しかし鹿野は久我のスーツの上着を握りしめたまま離れない。すっかり怯え切った顔をしていて、とても走れるような状況にはないように見える。

 なんて腰抜けなんだ――久我は思ったが、ある意味予想通りの反応でもある。仕方なく彼を引きずったまま逃げようと思った。だが、あっちゃんパパも砂利をぶつけられたくらいで怯んでくれるような男じゃなかった。石の当たったらしい頬骨のあたりをごしごしと擦り、すぐに飛び掛かってきた。

 久我は矢継ぎ早に砂利を投げた。あっちゃんパパは多少怯んではいるが、たった数センチ程度の大きさの石では当たったところで大した威力はない。鹿野がくっ付いているせいで機敏に動くこともできない。

 ここにちょうど具合のいい棒切れでもあれば、と久我は奥歯を噛んだ。彼には小学校の高学年から大学まで、剣道で馴らした腕がある。

 ちくしょう! と左手で防御しながら、あっちゃんパパは叫んだ。


「あの女がふしだらだから悪いんだ。誰にでもいい顔しやがって、色目使いやがって……許さねえ!」


 あっちゃんパパは突然身をひるがえし、エンジンがかかったままのワゴン車に飛び乗った。乱暴に運転席のドアを閉めると、タイヤを軋ませながら道路に出た。


「鹿野様、離してください! 早くしないと見失ってしまいます!」


 久我はスーツを掴む鹿野の手を無理やりほどいた。その拍子にスーツの前が引っ張られ、ボタンが飛んだようだった。

 鹿野は硬くつぶっていた目をようやく開けた。何が起きたか分からない様子できょとんとしている。


「え? 何を見失うって?」

「奴を追うんですよ! 早く車を出して!」


 久我の剣幕に鹿野は飛び上がった。転びそうになりながら車まで走り、運転席に乗り込んでエンジンをかけた。久我は助手席にあったノートパソコンを後部座席へ置き、自分がそこへ座った。


「あっちゃんパパさん、いついなくなったんですか?」


 シートベルトを締めながら鹿野が尋ねる。がらがらと砂利の潰れる音をさせて、車はゆっくりと駐車場を出た。


「あなたが私の後ろに隠れてるあいだです。南の方向へ走りましたから、たぶん言問橋を渡るつもりです」

「えと……言問橋を渡ってどこに行くんでしょうか」


 久我は彼を怒鳴りつけてやりたくて下唇を噛んだ。


「奴はラッキーさんを殺しに行くつもりです。ラッキーさん――」


 ええっ、と鹿野は大声を上げたが、まだ話の途中だ。久我は唇を舐めて続けた。


「最後は捨て台詞のようでしたが、ラッキーさんを許さない、というようなことを言って、奴は車に乗りました。輪をかけて大事になってしまいましたが、考えようによっては好都合です。奴を追いかければラッキーさんの家に乗り込むことができる」

「あの」前を向いたまま、鹿野は遠慮がちに言った。「あっちゃんパパさんは江東区の人なんです。なので、言問橋を渡る国道6号のルートじゃなく、14号を行くような気がするんです。……あっ、す、すみません。違うかもしれません。……久我さんに任せます」


 久我は鹿野の顔と迫りくる交差点とを交互に見た。

 鹿野の言うとおりかもしれない、と久我は思った。離れた場所に行く時、人は無意識に自分が使い慣れた道に出たがるものだ。あっちゃんパパと同じ江東区に住む鹿野がそう言うのだから、信憑性は高い。


「鹿野様だったら、この場合14号を通りますか?」

「はい、僕ならそうすると思います」

 鹿野が力強く言う。

「では、14号でお願いします。この先も鹿野様が思うルートで行ってください」

「分かりました」


 言問橋東詰の交差点を直進した。あとはあっちゃんパパが高速道路に乗っていないことを祈るばかりだ。どこか途中で追いつけるといいが。

 スカイツリーを後ろにやり過ごし、そろそろ総武線の高架下に差し掛かろうというところだった。胸ポケットに入れてあった久我のスマホが震えた。黒磯からだ。ここを動くな、と言われたことをすっかり忘れていた。


「久我です」

 ――黒磯です。どこにいる?


 久我は額のあたりを擦った。彼の太い声はいらいらを隠しているように聞こえる。


「今、三ツ目通りを南に向かっていて、JRが前に見える辺りにいます」

 ――ああ? なんでそんなところにいるんだよ。久我君の車?

「いえ、鹿野様の車に同乗させていただいてます」

 ――は!? お客さんに運転させてるのか!?


 ツッコむのそこかよ、と久我は心の中で思った。


「それが、夕方少しビールを引っかけてしまいまして……。とにかく、大変なことになってしまったんです。今すぐ中野方面に向かってください」


 電話の向こうから慌ただしい雑音が聞こえてきた。車を駐車場で方向転換させているのかもしれない。少し静かになって、再び黒磯の声が聞こえた。


 ――今走り出したよ。で? 何があった?

「はい、実はある男に襲われました」


 久我は駐車場に鹿野が現れた時点から、これまでに起きたことを説明した。黒磯はほとんど相槌も打たず静かに聞いていた。しかし初めて聞く人間関係が複雑すぎて、一度聞いただけでは理解できなかったようだ。じゃあ、あっちゃんパパとラッキーはグルなのか、と言いだしたので、それは違うと訂正した。


 ――ということは、その刃物男は不法侵入の女を一方的に好いていて、逆恨みして襲いにいった。で、チハルちゃんの身も危ない。そういうことだな?

「そうです。チハルちゃんがそこにいれば、の話ですが」


 いてほしい。尚且つ、あっちゃんパパを直前で捕まえて事なきを得たい。久我はそう思っていた。そんな風に都合よくいけばいいが、果たしてどうだろう。


 ――分かった。刃物男の車は白のセレナで間違いないな? ナンバーは見てないだろう?

「はい。残念ながら。あ、こちらはシルバーのムーブです。ナンバーは」久我はグローブボックスを勝手に開けて車検証入れを広げた。「10-21です。あの……そちらの車にチハルちゃんのご両親は乗っていらっしゃるんですか?」

 ――彼女から何か連絡があるかもしれないから、母親は家で待機している。今は父の方だけ一緒だ。


 そうですか、と言って久我は息を吸い込んだ。


「では、お伝えください。私がいながらまことに申し訳ございませんでした、それから、必ずチハルさんを助けますから、と」


 黒磯はしばらく無言でいた。やがて、久我君も気を付けてくれと言って、彼は電話を切った。

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