第28話 やっと見つけた

 太い息を吐きだして、久我は額を擦り上げた。

 チハルの両親の気持ちを思うと本当に後悔の念しかなかった。家で待機しているという母親は、今どんな心境でいるだろう。彼女をただ好いているだけの自分でさえ、これほどまでにやきもきしているのだ。慈しんで育ててきた我が子がどこにいて、どんな目に遭っているか分からないなんて、拷問と呼ぶほかない。

 チハルの両親は地元墨田区の生まれで、父親は小さな町工場の工場長をしていると前に聞いた。親の会社を譲り受けたが、今は経営権を他人の手に譲り、雇われの身分なんだとチハルは言っていた。母親はパートで働きながら、祖母の面倒を見ている。年の離れた兄は優秀な人で、地方で大手企業の研究員をしているのだそうだ。


「水曜日は私がおばあちゃんのことをやってるんです」


 チハルは嫌な顔ひとつせずにそう言った。明るい笑顔を見せて「だからこの仕事でよかったんです」とも言った。認知症の祖母は徘徊癖があるが、自分が昼間一緒に散歩をしてやると少し落ち着くのだと喜んでいた。家族の役に立っているのが嬉しかったのだろう。

 決して広くない下町の戸建てで、一家は支え合って生きている、という感じがした。なんとかしてあげたかった。実家も割と裕福で、自身もひとり暮らしを謳歌しているのが、久我には申し訳ないことのように思えた。


「鹿野様、パソコンをお借りします」


 久我は言って、後部座席にあったノートパソコンを膝の上に置いた。鹿野はさっき駐車場で複数の掲示板に書き込んでいた。何か返事が来ているかもしれない。


「あの男――あっちゃんパパはどういう人ですか? 鹿野様は何度か会っていらっしゃるんですよね?」


 久我はモニタから顔を上げ、ちら、と鹿野を見た。彼は前を向いたまま、珍しく渋面を浮かべている。


「正直言って、僕は好きじゃありません」鹿野は吐き捨てるように言った。「ラッキーさんはずっと、ずっと迷惑していました。あの人、オフ会のたびに彼女にべたべた触って、しつこくつきまとっていて、たぶん他のみんなもうんざりしてたと思います」


 鹿野らしくない物言いだった。彼がそんな言い方をするくらいだ、よっぽどひどかったのだろう。


「暴力的な雰囲気があったとか」

「いや、それはないです。なんていうか……お調子者って感じですかね。遠慮がなくて、いつも適当なことばかり言って、自分が中心でいないと気が済まないというか」

「なるほど。他に気になるところはありませんか? 例えば、ストーカー化してたとか」


 うーん、と鹿野は唸った。


「……そういえば、あっちゃんパパさんはどうしてラッキーさんの家を知ってるんだろう」

「何かで教える機会があったんでしょうかね。実は本当にふたりは付き合っているとか」


 まさか、と鹿野は苦笑した。


「僕から見てですが、ラッキーさん自身もあっちゃんパパさんの好意に困っているようでしたよ。警戒している感じでしたから、自分から家を教えることなんてないと思います」


 ですよね、と久我は同調した。あっちゃんパパはラッキーの電話番号を知らないと言った。それなのに、自宅は知っているというのはちょっとおかしい。もしかして、彼女のあとをつけたんじゃないだろうか。

 はっ、と久我は息をのんだ。


「それで鹿野荘の場所も知ってたのかな……」


 え? と鹿野が聞いた。

 久我は運転席の方に向き直った。


「いくら近いとはいえ、隣の区に住んでいる人がアパート名を聞いただけで場所まで分かるなんておかしいと思ってたんですよ。もしかして、あっちゃんパパはラッキーさんのことをつけ回してたんじゃないでしょうか。自宅も知ってて、ラッキーさんが潜んでいた鹿野荘も知ってるなんて普通じゃない」

「確かに。あ……まさか、あっちゃんパパさんがアパートに火をつけたわけじゃないですよね?」


 久我は目を見開いて鹿野の横顔を凝視した。彼は凡庸そうに見えて、時々ハッとするような鋭い発言をする。


「ラッキーさんに腹を立てて? それとも、鹿野様に対する嫉妬心で……?」

「……だとしたらとても恐ろしいです。火事のあとにもオフ会で彼に会いましたが、何食わぬ顔で僕を慰めていました。それに、僕を励まそうとメンバーを集めてくれたのは、ほかならぬあっちゃんパパさんですから」


 車は国道14号を真っ直ぐに抜け、神田方面へ向かっていた。この時間ともなれば、都心近くでもそれほど混雑なく走れるらしい。

 鹿野が思いのほか冷静でいてくれるのが、久我にはありがたかった。ただ、あっちゃんパパの運転する白のセレナは未だに捉えられずにいた。やはり高速に乗ってしまったのだろうか。一般道を通っていたとしてもルートが多すぎる。広い海岸でたったひとつの貝殻を探すような、先の見えない作業になることこの上ない。

 警察に連絡すべきかどうか、久我はずっと迷っていた。チハルの件では警察は動いてくれないだろう。正常な判断能力のある成人がいなくなった場合、特別事件性がなければ警察も積極的に捜索はしないと聞いたことがある。

 ならば、あっちゃんパパの件でパトカーを寄越してもらえないだろうか、とも考えた。しかし、今日は電話を使いすぎたせいで、久我の携帯電話の電池は残り10パーセントを切っていた。火事の時のように質問攻めにされたら、たちまち底をつくだろう。

 久我はポケットから取り出したUSBメモリをパソコンに差した。

 SNSと掲示板には特に有益な書き込みはなかった。データを復旧してくれた島田がラッキーの住まいは中野だと推測したように、本人が書いた記録に何かヒントになるようなものがあるかもしれない、そう思った。

 日記のファイルを開いて、最初からくまなく見ていく。具体的な地名、店名があればラッキーだ。内容は読まずに、機械的に文字だけを追っていく。

 内容が非常に個人的なものだけあって、中身は具体名に溢れていた。ファミリーレストランから、コンビニエンスストアまで、○○通りの△△スーパー前、などと細かい記述がある。ひと通り見ていけばある程度の地域は絞られるんじゃないだろうか。


「鹿野様、ラッキーさんの住まいはどうやら中野駅の北側のようです」


 新たに開いたメモ帳に、ヒントになりそうな項目を貼り付けながら言った。これまでの情報を集めると、大体半径2キロ以内まで絞られるようだ。


「分かりました。じゃあそっち方面に向かえばいいですか?」

「一応ナビに入れておきます」


 慣れないカーナビに苦戦して、久我は行先を訂正した。そこで久しぶりに時間を確認した。日記をチェックしているあいだに三十分は経過していたらしい。車は大久保通りを西に走り、新宿の北側を通過したところだ。

 鹿野が突然、「あれ?」と言った。


「久我さん、今、何台か前の車が見えたんですが、あれ白のセレナじゃないですかね」


 えっ、とばね人形のように、久我はパソコンから顔を上げた。


「三台くらい前です。ちらっとしか見えなかったので自信はありませんが……」


 久我は前方に目を凝らした。たとえ白のセレナだったとしても、同じ車なんて世の中にいくらでもあるだろう。だが、同じ方面に向かっている車なら、あっちゃんパパである可能性はゼロじゃない。


「あっ、右に曲がりました!」


 鹿野が叫んだ。運転席は角度的によく見えなかったが、確かに白のセレナだった。

 鹿野は自分も方向指示器を出して交差点に入った。が、対向車が何台か続き、なかなか曲がれない。

 そこへ黒磯から電話が入った。久我は通話ボタンをタップした。


 ――久我君、今どこだ?

「もうすぐ中野駅というあたりです。今、白のセレナを一台発見しました。刃物男のものか分かりませんが追いかけます。場所は――あれ? もしもし? 黒磯さん? もしもし?」


 久我はスマホから耳を話した。画面は真っ暗だった。


「ああ、クソッ」


 なんということだ、このタイミングで電池切れかよ!

 久我は携帯電話を窓の外に放り投げたい気分だった。あっちゃんパパは恐らく近くにいる。黒磯も近くにいる。せっかく見つけたのに、応援が欲しい時に、どうして今、電池が切れるのか。


「……すみません」鹿野がボソッと言った。「セレナ、見失っちゃいました……」


 大きくため息を吐いてしまいたくなるのを久我はなんとか堪えた。冷静さを失ってはいけない。まだ道はあるはずだ。まだ何か、残された道が――。


「スマホの充電器を買いたいのでコンビニに行ってください」


 そう久我は告げた。

 そこから数分走ったところにコンビニエンスストアがあった。煌々と照らされた駐車場には車が何台か停まっている。


「おいおい……嘘だろ?」


 ゆっくりと駐車場に進入する車の中で、久我は身を乗り出した。店の正面、一番奥の駐車位置に白のセレナがある。

 そこで久我は初めて思い出した。あっちゃんパパの車の後部バンパーには、擦り傷を隠したと思われるステッカーがべたべたと貼ってあった。神社でよく売っているような、交通安全のステッカーだ。今、目の前に停まっているセレナにも同じものが貼られている。お陰でその場所が左側の角だったことも思い出した。


「あれです。間違いありません」


 久我が言うと、鹿野は震えあがった。


「車の中にはいないみたいですね。お店の中にいるのかな……」

「ここからじゃ見えませんね。充電器を買うので見てきます」


 そう言って久我は車から降りた。

 コンビニの店内に入った途端、眩しい光に襲われて頭痛がした。揺れる車内でパソコンの画面を長々と見ていたせいだ。

 久我は目当ての充電器を手にして店内を一周した。トイレには誰も入っていないようだ。レジに商品を出して、店員に尋ねた。


「スウェットの上下を着た四十代くらいの男が来ませんでしたか? 割と濃い顔をした、がたいのいい男です」


 痩せぎすの眼鏡をかけた店員は、少し思案しているようだった。会計が終わると同時に思い出して、ああ、と言った。


「さっき来ましたよ。煙草を買ってもう出ていきました」

「何分前?」

「うーん、五分くらい前ですかね。……あなた、警察の方ですか?」


 久我は質問に答えず、ありがとう、と言って店を出た。鹿野の車まで戻って、助手席に乗り込んだ。


「店員の話によると、あっちゃんパパらしき男はさっき来て、五分ほど前に出たそうです。車をここに停めていったということは、彼女の家はアパートか何かで、駐車場がないのかもしれません」

「……いや、アパートということはないですよ。いつだったか、介護のためにバリアフリーにしたとSNSに書き込んでいましたから」

「バリアフリー」

 

 そこで鹿野は、突然「あっ」と声を上げた。


「そうだ……!」


 鹿野は突然、パソコンをいじりはじめた。


「今年の冬、雪が降った日にラッキーさんがベランダから撮った写真を投稿してたんです。どれだったかなあ、……あ、あった! これです」


 久我と鹿野は頭を突き合わせて画面を覗き込んだ。

 『雪が降ってきた! きれいだけど積もったら困るよ~』という文章とともに、画像が投稿されている。二階の窓から写したようで、目の前の道路を見下ろすような構図だ。久我は正面に映っている店に注目した。個人経営の小さな電気店のようだが、外壁に取り付けられた看板の文字がかすれていて判然としない。


「ちょっとパソコンをお借りします」


 久我はそう言ってノートパソコンを鹿野の手からひったくった。開いたままコンビニに戻り、さっきの店員に尋ねた。

 ちょっと分かりませんね、と言って店員は、バックヤードにいるらしき店長を呼んだ。店は暇らしい。何台か停まっている車も客のものじゃないのかもしれない。


「ああ、これはコヤナギ電気だよ。去年あたりに辞めちゃってるけどね」


 腹の出た中年の店長が言った。


「場所はこの近くですか? この店じゃなく、近所のお宅に用事があるんですが」

「ここから二本裏手の道だよ。前の道を真っ直ぐ行って、信号で左に曲がって、二本目を右に曲がってすぐ」


 ありがとうございます、と言って久我はコンビニから走り出た。

 やっと、やっと、ラッキーの家を見つけた。車のある所まで戻り、助手席のドアを開けて飛び込んだ。


「鹿野様、車を出してください。ここからすぐ近くにラッキーさんの家があります」

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