第26話 忍び寄る危機

 一対一の対話用の窓が開いた。鹿野がやりとりする様子を、久我はそれまで遠慮して離れて見ていた。が、とうとう我慢ができなくなって、鹿野の肩越しに覗き込んだ。


<あっちゃんパパさん、こんばんは! ちょっとつかぬことをお聞きしたいのですが>

[はいよ~。なに?]


 すぐさま返事が返ってきた。あっちゃんパパの名は、ラッキーの日記の中にもあった。例の投資家が集う掲示板のメンバーだろう。


<ラッキーさんの電話番号分かりますか? もし知ってたら教えていただきたいのですが~>

[ラッキーちゃんの電話番号?]

<はい。あっちゃんパパさん、ラッキーさんと仲良しなので、分かるんじゃないかと思いまして>


 急に間が空いた。あっちゃんパパ、とやらはラッキーの番号を調べているのだろうか。文字のやり取りはまどろっこしくて、久我は苛立ちを覚えた。


「鹿野様、ここに電話がほしいと言ってください」


 久我は自分のスマホに番号を表示させて、鹿野に見せた。鹿野は頷いて、再び文字を打ちはじめた。


<実は今、非常にのっぴきならない状況にありまして、どうしてもラッキーさんの助けが必要なんです。ちょっとここに電話してもらえますか?>


 鹿野はその下に久我の番号を書き込んだ。すると、すぐさま電話がかかってきた。久我は通話ボタンをタップして鹿野に渡した。


「もしもし」

 ――バンビさん? 俺。あっちゃんパパ!


 大きな声が突然あたりに響いたので、鹿野は驚いている。久我は鹿野に知らせずに、スピーカー通話にしていた。


「あっ、こ、こんばんは。夜分にすみません。……あれ? 外ですか?」

 ――うん。大丈夫だよ。

「すみません。で、えっと……ラッキーさんの電話番号は……」

 ――実は俺も知らないんだ。でも、家は知ってる。バンビさん困ってそうだから連れてってあげるよ。

「えっ、そうですか? 助かります。今から……ですよね?」


 久我と鹿野は目を合わせた。久我はしっかりと頷いて見せた。


 ――うん。今車出すから。どこにいる?

「えっと、僕が持ってる鹿野荘というアパートで、住所が墨田区東向島――」


 鹿野は住居表示を見ようと近くにある電柱を探した。が、電話の主は「ああ、分かる」と言った。


 ――そのアパート近いから知ってるよ。そこに行けばいい?

「えっ? あ……はい、いろいろとすみません」

 ――いいえ。じゃ。


 通話が切れて、鹿野は貴重品を扱うようにスマホを久我に返した。


「親切な方ですね」


 久我は言ったが、鹿野は「そうですね」と言いながらも少し複雑な表情だ。暗闇の中で、彼の口元は侮蔑的に歪んで見えた。

 そういえば、ラッキーの日記に「明日のオフ会にはあっちゃんパパさんが来ないらしいので行きたかった」というような記述があった。仲良しのはずなのに、会いたくないということか。表面上は仲が好さそうに見えて、実は結構複雑な間柄なのだろうか。

 久我の付き合いといえば、学生時代の仲間か会社の同期ばかりだ。趣味で繋がった人間関係がどういうものか、想像もつかない。

 久我は腕時計を見た。黒磯と電話で話してから、もう十五分は経つ。黒磯もチハルも同じこの町内に住んでいるのに、それにしちゃ遅くないだろうか。

 あっちゃんパパが先に来たとして、自分も一緒に行かないと話にならないだろう。あっちゃんパパと鹿野には少し待ってもらって、黒磯が到着次第、二台でラッキーの家に向かった方がいい。

 住所録の内容からすると、ラッキーの自宅は中野ということらしかった。となれば、到着するのは早くても十一時を回りそうだ。もしもラッキーが無関係だとしたら、こんな時間に何事かと思うことだろう。


「鹿野様を巻き込んでしまって、申し訳ありません」


 久我は突然謝った。鹿野は一瞬ぽかん、としたが、ああ、と言って下を向いた。


「鹿野様としては、ラッキーさんが不法侵入していたことを『なかったこと』にしたかったのでしょう。ですが、今夜突然こんな時間に伺ったら、ラッキーさんに今までの経緯を説明しないわけにはいきません。……本当によろしいんですか?」


 久我の問いかけに、鹿野は俯いたまま何も答えなかった。言いたくない時に、彼は黙り込む癖がある。きっとまたそれだろうと久我は思った。

 気まずい沈黙に居たたまれなくなって、久我が他に話題を振ろうと思った時だった。


「……でも、久我さんだって辛いでしょう?」


 久我は言葉をのみ込んだ。一瞬、鹿野が何を言いたいのか分からなかった。が、しばらく経って、彼の口から次の言葉が出てきた時、ようやく理解した。


「久我さんは、瀧川チハルさんが好きなんですよね?」


 久我は思わず瞠目した。鹿野の頬は暗がりの中でも分かるほど小刻みに震えている。彼の口からそんな言葉が出てくるとは意外だ。久我は本当に久しぶりに口元をほころばせた。


「バレましたか」

「はい。それくらい僕にだって分かります。……久我さんは、僕のことを女性に一生縁がない男だと思っているでしょう。ですが、さすがに四十年近く生きていれば、そういう経験だって少しはあります。まあ、ほとんど――というか、全部一方通行ですけど」


 久我は自分の顔が熱くなるのを感じた。鹿野のことは愛すべき人間だと思っているが、確かに彼の言う通り、心の中で見下していた部分もある。

 鹿野は頭のてっぺんからつま先まで、土日になると秋葉原に足しげく通うような風貌をしていた。ごわごわの天然パーマに重い一重まぶた。Tシャツの外にチェックのシャツを羽織っていて、形の古い色褪せたジーパンを履いている。金はあるのに、センスがないのだ。それに、自分をよく見せようという努力もしない。現実世界の女の目を意識したことなんて、一度もないように見えた。

 そんな風に久我に思われていることを、鹿野自身は理解していた。その上で、何食わぬ顔で久我に接し、赦し、土地の取引をし、アパートの管理先を見つけてほしいと言ってくれた。

 久我は自分が恥ずかしかった。やられた、と思った。この仕事を七年やっていて、もうすっかり人間観察や心理を探る術を身に付けたと思い込んでいた。しかし実際は違った。鹿野の人の好さに騙されて、彼を愚かで鈍感な人間だと思い込んでしまった。


「勉強になります」


 久我は言った。それしか言えなかった。謝罪の言葉を述べるのは失礼だろう。チハルだったらもう少し気の利いたことを言っただろうが、残念なことに、久我は馬鹿がつくほどの正直者だ。

 そのあとはどちらもひと言も発しなかった。普段の久我だったら言葉を探しただろうが、あいにく今は余裕がない。とにかく、黒磯かあっちゃんパパか、どちらでもいいから一刻も早く来てほしかった。

 静かな時間が始まって五分ほど経った頃だろうか。アパート前の道路に猛スピードで車が入ってきた。ライトが眩しくて車種すら判別できないが、住民しか通らないような住宅街だから、間違いなくここを目指しているのだろう。

 車はぐんぐん迫ってくる。ワゴン車のようだった。黒磯は普段国産のセダンでお客を案内しているし、家族は軽自動車に乗っていると言っていた。ということは、あれはあっちゃんパパなのか。

 久我と鹿野は車からよく見えるように道路の際まで行った。が、久我はすぐに異変に気付いた。車はスピードを落とすことなく、ふたりに向かって突進してくるように見える。とても駐車場に横づけするような角度じゃなかった。


「危ない!」


 久我はとっさに鹿野の腕を掴み、駐車中の車の陰に飛び込んだ。その脇を、白いワゴン車がすれすれのところをかすめる。もつれあって転んだために、砂利の尖った部分が擦れて体じゅうに激痛が走った。


「……いたた……ちょ、何が起きたんですか!?」


 鹿野はパニックになって大声を出した。

 久我は急いで顔を上げ、辺りを見回した。砂埃がもうもうと舞う中に、テールランプの赤が強烈な光を発している。

 駐車場に頭から突っ込んだ状態のワゴン車から人が下りてきた。四十代半ば過ぎといった頃の男だ。眉も鼻柱も太く、全体に厚ぼったい。頭髪も黒々としている。スウェットの上下にサンダル履きという、近所のコンビニにでも行くような格好をしていた。

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