第25話 彼女に会いたい
タクシー乗り場には客待ちが一台もいなかった。そこからまた一目散に走り、鹿野荘に向かう。鹿野荘までは徒歩にして七分ほどの距離だから、タクシーを待つよりも走った方が早かった。
期待を込めてスマホを握っていたが、チハルからかかってくることはなかった。
やがて鹿野荘が見えてきて、久我は泣きたくなった。潜むとしたらここだろう、と思っていたところにチハルがいない。鹿野荘隣の駐車場の脇、前にチハルを抱きしめた塀の陰だ。
駐車場の前まで来て久我は速度を緩めた。息を整えながら辺りを見回す。彼女が見張っているとしたら、必ず自分に気づくはずだった。
久我さん……! もう、心配性なんだから!
陽だまりのような笑顔で、どこからか飛び出してくる気がする。慌てすぎて、躓きそうになりながら。
しかしチハルはどこからも現れなかった。全力で走ったのと不安とで、今にも胃袋が裏返りそうだった。それでも久我は走り続けた。アパートの反対の脇も、向かいの道路も、鹿野荘が見えるところはくまなく捜してみた。
が、いない。彼女の足音も聞こえない。時折吹き付けるうすら寒い風の中には、自分の荒々しい息遣いしか聞こえない。
久我は黒磯の携帯にかけてみた。三コールほどで繋がった。
――もしもし。
「京和地所の久我です。社長、こんな時間にすみません」
――いや、いいよ。どうした?
「チハルちゃんは今日何時ごろ退社しましたか?」
――えーっと……今日は定時にすっ飛んで帰ったよ。なんで?
「それが……。あの、何度も携帯にかけているんですが、出ないんです。もしよろしければ、彼女の自宅の電話番号を伺えないかと思いまして」
黒磯は少しのあいだ逡巡して、うーんと唸った。
――年頃の女の子だから、俺が勝手に教えるわけにもなあ。何か緊急の用件?
「いえ。ちょっと繋がらないので、大丈夫かと思いまして」
――……ふうん。じゃ、まず俺が彼女の自宅に電話して久我君にかけさせるよ。ところで、君は今どこにいる?
「あ……鹿野荘です」
少しの間があった。
――分かった。ちょっと待っててくれ。すぐに折り返す。
「お願いします」
そう言って久我は電話を切った。しかし。
待つことがこんなに辛いと感じたことはなかった。二十秒ごとに時計を見て、ため息を吐いて、祈ってしまう。
きっと彼女は帰っている。電話は会社に置き忘れたんだろう。それか、鞄の中に閉まったままで、充電が切れたのに気付いていないか。たぶん次に電話をかけてくるのは、黒磯じゃなくてチハルだ。知らない固定電話の番号からコールがあって、[通話]をタップするとやたらと元気な声が聞こえて。久我がどれほど気を揉んだか知らずに、いつも通り明るく、無邪気な声で――
その時、スマホが震えて久我は雷に打たれたようになった。鳥落としそうになりながら慌てて画面を見たが、無情にも表示されたのは黒磯の名前だった。
「はい、久我です」
――あー、久我君? 落ち着いて聞いてくれ。
「はい」
――チハルちゃん、帰ってないそうだ。
黒磯の声を聞いて、久我の心臓は止まりそうになった。頭のてっぺんからさーっと血の気が引いて、自分が倒れるんじゃないかと思った。よろけながら駐車場の塀まで歩いていって、背中を預けた。
――でな? ご両親が心配してる様子だから、俺は今から彼女の家に行く。そのあと鹿野荘に行くから、久我君はその場を動かないでくれ。いいね?
「はい、分かりました」
電話を切って、塀に背中を預けたまま久我は弱々しい息を吐きだした。大変なことになった。彼女の身に一体何があったんだろう。遊びに出掛けたくらいじゃ、ずっと着信に気付かないということもないはずだ。家に連絡もなしに飲み歩いたりする子でもない。
久我は腕時計を確認した。時刻は九時四十八分だ。彼女が退社した夕方六時から、もう四時間近くが経過している。
もう一度アパートの周りを歩いてみよう、と道路に出た時、視界の端に何かを捉えた。久我は身をかがめて、U字溝の蓋の上にあるものを拾った。
「これは……チハルちゃんの?」
久我の手の中には、チハルがいつもスーツの胸ポケットに差しているペンがあった。鮮やかなコーラルピンクで、ノック部分がキャラクターのフィギュアになっているテーマパークの土産品だ。使うたびにチャームがぶらぶらと揺れるので、鬱陶しくないのかといつも思っていた。
そうだ、彼女は今日もこれを使っていた。山崎への報告を終えて病院から戻る途中、車の中で手帳何かを書き写していた。おそらく山崎から聞いた話を書いていたのだろう。
ということは、やはりチハルはここに来ていたに違いない。ペンが落ちていたのは、揉みあったからなのか。まさか、車に引きずり込まれて、そのまま拉致されて――。
久我はその辺を所在なく歩き回った。
そこを動くな、と黒磯には言われたが、いてもたってもいられない。しかし、一体どこに行けというのか。彼女を連れ去ったのはAなのか? 鹿野ならAの自宅が分かるだろうか。
スマホを取り出して、鹿野の家をコールしてみた。あいにく留守だ。さっき訪問したばかりなのに出掛けたのか。それとも、風呂にでも入っているのだろうか。
やきもきしていると、車が猛スピードで道路を走ってきた。黒磯か? と思ったが、彼の車じゃない。銀色のコンパクトカーは急に減速し、ごろごろと砂利を踏みつけながら駐車場に入ってきた。さっきチハルのペンを拾った蓋の部分をちょうどタイヤが通過した。拾っておいてよかった、と久我は思った。
「どうも」
現れたのは鹿野だった。彼は車から降りて、ちょい、と頭を下げた。久我もわけが分からないまま腰を折った。
「すみません。久我さんがアパートへ行くと言ってたので、気になって来ちゃいました。あの……瀧川さんと連絡つきました?」
それが、と久我は力なく首を振った。鹿野の家をあとにする際、鹿野にいろいろと話した気がするが、あまり記憶がない。
「定時に店を出てから、家にも帰ってないようなんです。……何か事件に巻き込まれたかもしれません」
「ええっ」
久我は鹿野にすべてを話した。今夜おそらく、チハルがここに来たことも、今まで言ってなかったこともすべて。久我とチハルが危険を冒して骨を折ってきたのは、半分以上鹿野のためだ。彼に罪を押しつけたいわけではないが、知ってもらっても構わないと思う。
久我の話を、鹿野はがたがたと震えながら聞いていた。彼は非常に分かりやすい男だ。貧乏ゆすりができない代わりに、深爪しそうな指の爪をがりがりと噛んだ。
「ラッキーさんが、ここへ餌やりに来ると我々は踏んでいました。もしかして今夜遭遇してトラブルになり、連れ去られたかもしれません」
「まさか……、まさか、女性のラッキーさんがそんなことを……?」
「共犯者がいればできなくもないでしょう。無理矢理拉致されたとは限りません。うまく懐柔された可能性もあります」
久我は唇を真一文字に引き結んだ。鹿野の両目には涙が溢れそうになっていたが、本当は久我の方が泣きたいくらいだった。少しでも気を抜くと不安が体じゅうの血を奪っていこうとする。だから奥歯をきつく食いしばっていた。
「僕もラッキーさんを疑いたくないんだ。でも、この状況じゃあ」
そう呟いて、鹿野は助手席側のドアを開けた。シートの上にはノートパソコンがある。それを開いた途端、眩しい光が闇に溢れて久我は目を細めた。
鹿野はその場にしゃがみ込んで、忙しくキーボードを叩き始めた。恐ろしい速さだ。デイトレの最中にもこういう姿を見たが、そのときよりもさらに速い。
ようやく目が慣れて後ろから覗いたところ、彼が打ち込んでいるのは短文投稿型のSNSだった。BAMBI1021、それが彼のアカウント名らしい。鹿野が一心不乱にキーボードを叩き続ける様子を、久我は少し離れて見守っていた。
「今、掲示板とSNSで誰か知り合いがログインしてないか呼びかけてます」
「はい。助かります」
あっ、と鹿野が声を上げた。
「いました、ひとり。ちょっとメッセージ送ってみます」
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