第24話 胸に広がる暗雲のわけ
久我はもう何度も鹿野のマンションを訪れていたが、こういう時間に訪問するのは初めてだ。鹿野はサラリーマンではないし、特定の時間――食事のために外に出る――を除けば、一日じゅう家にいるからだ。
久我は今、わけもなく緊張していた。
夜の訪問なんて、お客に買う買わないの決断を迫る時みたいだ。アドレナリンが出まくっているように感じるのはそのせいか。それとも、月明かりと春の夜特有の匂いが、その時の緊張感を呼び起こしているのか。いや、そうじゃない。そんなことだったらいい。
何か嫌な予感がした。さっきから何度もチハルに電話をかけているが、相変わらず出てくれない。まさかとは思うが、危険な目に遭っていやしないだろうか。
前回訪問したときとは違って、鹿野はオートロックをすぐに開けた。エレベーターを降りて廊下を歩くうちに、鹿野の部屋のドアが開いた。彼の顔色はいつもよりちょっとだけ悪く見えた。
「申し訳ございません、こんな時間に」
「いえ、全然大丈夫です。どうぞ」
久我は鹿野のあとに続いて部屋に入った。今日はリビングのようだ。廊下を通る時にデイトレ部屋がちら、と見えたが、明かりは落とされている。
久我はリビングに入るなり、「早速ですが、パソコンをお借りしてもよろしいですか?」と尋ねた。
「あ、はい。ちょっと待ってください」
鹿野は小走りに行って、ローテーブル前に置かれたソファに座った。ちょうどノートパソコンを使っていたらしく、テーブルの上に開いた状態で置かれている。隣を勧められたので、失礼します、と言って久我は座った。
「昨日お知らせしましたとおり、焼け跡からノートパソコンが見つかったんですが」
「はあ」
鹿野は忙しなくキーボードを叩いている。
「パソコン自体は真っ黒焦げだったのですが、友人の業者に頼んでできるかぎり復旧してもらいました。そのデータがこの中に入っています」
神妙な面持ちで鹿野は頷いている。作業が終わったらしく、隣にいる久我の方にパソコンを押しやった。
久我は再び「失礼します」と言ってUSBメモリをジャックに差した。まずはAという人物を見てもらいたい。エクスプローラー画面の、『日記』をクリックした。
「Aの日記です。約二年分ありますので、直近のものからご覧ください」
久我はスクロールバーを一番下まで下ろして、パソコンの画面を鹿野の方に向けた。
鹿野は怯えたような目つきで画面の文字を追いはじめた。が、ものの十秒と経たないうちに、みるみる顔が青ざめていった。
「大丈夫ですか?」
久我が思わず心配するほどだ。やがて、もういいです、と言って鹿野はファイルを閉じた。
時間にして一分も持たなかった。久我と島田ですら、ため息を吐きながらやっと読んだのだ。恐らく知り合いだろう鹿野には、余計に酷だったろう。
鹿野は泣き出しそうな顔をして、口元を押さえながら言った。
「ラッキーさん……掲示板やSNSでは、ラッキースマイルと名乗っています。僕がオフ会で何度も会ったことのある、投資仲間です」
久我は静かに息をのんだ。
やはりAは鹿野の知人だった。秋葉原からここへ来るまでのあいだに、予想が確信に変わっていたが、いざ本人の口から認められると何を言えばいいか分からなくなる。
鹿野の声は聞いたことがないくらいに暗く沈んでいた。彼が動揺した時に見せる、貧乏ゆすりもいつもより酷い。それはそうだろう。自分が所有するアパートに無断で住みついていたのが、よりにもよって知り合いだったのだ。しかも、日記を読んでそのことを知るというのは、直接白状されたよりもショックが大きい。
「辛いことをお願いしてしまって申し訳ございませんでした。ただ、まだ彼女が――ラッキーさんが火をつけたと決まったわけではありませんから」
久我は慰めようとしてそう言っただけだった。が、鹿野は真っ赤になって食って掛かった。
「まさか……! 彼女はそんなことをする人じゃありませんよ! ……アパートを借りたいのなら僕に言ってくれればいいのに。もっと新しくて、広い部屋を貸してあげたのに」
鹿野はがっくりと項垂れて、頭を抱え込んでしまった。
久我は気の毒に思った。こんな時、友達だったら肩を抱いてもやれるが、あいにく鹿野とはそういう関係じゃない。久我は一度持ち上げた手をどうすることもできずに、また下ろした。
「ラッキーさんはお年寄りを介護されていたようですね。その辺りはご存知でしたか?」
鹿野は何も言わなかった。だいぶ間があったので、泣いているのかと思ったが、そうじゃなかった。
「お母さんの面倒を見ていると聞いたことはあります。ただ、オフ会での彼女はとても明るかったので、そんなに深刻なものじゃないと思ってました」
「……なるほど。真面目な方のようですから、ひとりで抱え込んでいたのかもしれません。鹿野荘に空室があるということは、どこかで話されたんですか?」
「はあ。たぶん、オフ会の時にでも話したんでしょう。よく覚えていませんが」
「恨まれているということは?」
鹿野は少しムッとした。
「ないと思います。ラッキーさんは僕に……みんなに優しいですし」
「そうですか。ところで、ラッキーさんの連絡先は、鹿野様はご存知ですか?」
鹿野は無言で首を振った。
「では盗電の件はどうしましょう。それに、不法侵入の件もありますので警察に捜査してもらって――」
「電気代のことならもういいです。たかだか数千円の話ですから」
「では、火事のことは?」
鹿野はゆっくりと顔を上げて久我を見た。怯えた小鹿のような目つきだ。久我は自分でも冷たい顔になっていると感じた。どうしてこんな気持ちでいるのか分からない。ただ、臭いものには蓋をして、自分は傷つかなければいいと思っている鹿野のやり方が気に入らない。
「もういいでじゃないですか。解体費用も、ご近所の修繕費も、二階の住人の新しい部屋も僕が用意したんだ。久我さんにとやかく言われる筋合いはないですよ」
「……このことは、ラッキーさんには?」
「もちろん言いません。これまで通り、何もなかったこととして、楽しいお付き合いを続けていきたいです」
「そうですか。しかし、彼女は彼女で、ノートパソコンを火事で失ったことになります。もしもあの火事がラッキーさんがやったものではないとしたら、彼女にも損害があったわけですが――」
鹿野は小さな目で久我を睨みつけた。
「近いうちに僕からプレゼントします。もっと、高スペックのパソコンを」
「くそっ」
久我は鹿野のマンションを出て、今度は鹿野荘へと向かっていた。永代通りを歩くあいだも、地下鉄に乗っているあいだも、不機嫌な顔で悶々と考え続けた。胸の中には複雑な思いがひしめき合っていて、どす黒い色をした霧がとぐろを巻いているようだ。
やっとAの正体を突き止めたのに、鹿野は今までの罪をすべて不問にすると言っている。しかも、挙句の果てに火事でアパートが全焼するという被害を被ったのに、これまで通り楽しい付き合いを続けていきたいと言っている。同情しているのか? 一体どこまでお人好しなんだ。
とても正気の沙汰とは思えなかった。普通、空室があることを何かで知っても、アパートに忍び込んだりしない。ホームレスであってもしない。知り合いの物件であればなおさらだろう。バレた時点で不法侵入で捕まるだけでなく、友人としての付き合いも破たんするのだから。
要するに、鹿野は舐められたわけだ。この人なら許してくれるはず。もしくは、この人となら付き合いが切れても構わない、と。
怒りの原因はそこかもしれなかった。鹿野とは客としての付き合いしかないが、一度でも取引した相手は忘れないし、知らない他人よりも親しみのある存在になる。
久我は鹿野のことは嫌いじゃなかった。むしろ好きな方かもしれない。少し愚かなところはあるが、彼は人が好くて穏やかな人物だ。教室にひとりはいた、いつも隅っこで本を読んでいるような地味なタイプ。派手な魅力は感じないが、同じように地味で穏やかな両親の下で、きちんと認められて育ったという印象がある。
そんな彼が、取るに足らない奴だとないがしろにされるのは堪らない。
Aとは、実際にはどんな人物なのだろう。鹿野は彼女のことをすこぶる買っているようだった。日記の文面からしても悪人ではないことは伝わる。では、彼女があんなことをした理由はなんなのか。本人に会ってみればそれが分かるのだろうか。
そのほかにも、久我をイラつかせる原因があった。チハルのことだ。
あれから何度も携帯にかけてみたが、一向に繋がらなかった。自宅の電話番号は分からない。七福不動産にもかけてみたが、留守番電話になってしまう。留守番電話に流れるチハルの声を聞いて、久我はますます不安になった。こんなに心配になるなら、鹿野のところへ行く前に鹿野荘に行っていればよかった。
地下鉄が駅に着くなり、久我は走った。階段を二段飛ばしに駆けあがり、改札をすり抜け、また階段を駆けあがった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます