第23話 Aの日記

 11/24(火)

[今朝はかなりおかしくて参った。財布の中身が減ってると暴れたし、お腹の調子が悪かった。おむつ交換を失敗して二枚もムダにした。最悪。デイトレは毎日やった方がいいということだけど、朝からこんなんじゃムリ。]


 12/18(金)

[介護認定の結果が来た。今度はなんとか要介護3を取れた。けど、進行したと考えればユウウツだ。この間相談に乗ってくれた緑光苑の杉田さんが電話をくれたけど、デイサービスは断った。母が嫌だと言うから仕方がない。兄にメールしたけど返事がない。いつものことだけどしんどい。だれか助けて。]


 1/3(日)

[兄夫婦が来た。明日から仕事だからと言って、夕方には帰っていった。滞在時間わずか一時間半。私が今後のことについて相談をしてくるんじゃないかと思ったのかな? もうあなたたちに期待なんてしてない。それに、きっとまた『離婚なんてするからいけない』って言うだけだ。『ヘルパーを雇えば?』と路子さんは簡単に言うけど、そういう問題じゃない。お金で解決できないこともある。]


 久我と島田は画面から身を起こした。そしてほぼ同時に、深くため息を吐いた。


「介護日記だな。しかも相当辛そうだ」


 島田が言った。


「うん。このメモ帳は愚痴吐き場、ってとこか」


 日記はほぼ毎日書かれていて、その日の様子を淡々と語ったものから、つらつらと辛い状況を述べたものまである。読んでいるとこっちが滅入ってきそうだ。Aは久我にとって敵のはずなのに、同情の気持ちすら沸いてくる。

 島田はポケットから煙草を取り出して火をつけた。吸わない久我に遠慮もなく、煙をもうもうと吐き出した。


「俺んちはふたりとも介護には程遠いな。寄生してる息子がふたりもいるせいかもな」

「ちゃんと生活費渡してるんだったら、寄生とは言わないだろう?」

「そうか? 食事の用意から洗濯まで面倒見てもらってるけどな」

「ああ、そりゃ立派な寄生だ。出てけ、って言われない?」


 久我は薄ら笑いを浮かべて尋ねた。島田は天井に向かって勢いよく煙を吐いた。


「遠回しにな。そろそろ家事から引退したいそうだ。また旅にでも出るか」

「店はどうするんだよ。まあでも、取りあえず家は出た方がいいかもな」


 久我はマウスを奪い取って、ホイールを回した。スクロールバーは短く、まだだいぶ上の方だ。


「これ、何年の日記かなあ?」

「日付と曜日は?」


 島田は隣のデスクトップパソコンを操作し始めた。手近にあった日記の日付を言うと、すぐに「二〇一五年」と返事が返ってきた。日記は夏ごろから始まっていたから、おおよそ二年分ある。

 全部の日記に目を通していると何時になるか分からない。一番直近の分から遡った方がいいだろう。

 スクロールバーを一番下まで引っ張った。Aという女は、なかなか几帳面で真面目な性格のようだ。こういう人物は親の介護も一生懸命にやりすぎて疲弊してしまう、と何かに書いてあった。それで腹いせに火をつけたのだろうか。だとしたら、とんでもないお門違いだが。

 日記は四月二日が最後だった。火事が起きた三日には、書けなかったのかもしれない。


 4/2(日)

[ヤスケの大好きな猫缶が見切り品で安くなってた。ラッキーだ。売り切るということはもう入荷しないのかな。だとしたら困る。明日は新藤先生のお通夜があるからアパートには来られなそう。オフ会にも行けないなんて。あっちゃんパパさんが来ないというから、行きたかったんだけどなあ……残念。でもまあ、ひとりになれるからいいか。お母さん、ヘルパーさんとけんかしなきゃいい。ホント、頼みます。]


 3/11(土)

[今日は講演会があったので、ヘルパーに頼んでいつもの面々と行ってきた。やっぱり家から離れられるとホッとする。前回のオフ会の時に「この前誕生日だったんですよ」と言ったら、バンビさんに株主優待で送られてきたという入浴剤を貰った。ドラッグストアで売っているのとは違う、限定の香りらしい。もうどれくらいお風呂にゆっくり浸かってないだろう? 株主優待羨ましい。お金に余裕があったら、私も長期で保有してみたい。無理だろうけど。お金持ちのバンビさんが羨ましい。彼みたいな人と再婚したい。]


 2/23(木)

[昨日は夜中まで求人広告を見てしまったので、一日じゅう目がショボショボだった。見たって仕方ないのに。お金があったら母を特養老かホームに入れたい。しかしなんでこんなに高いの? ムリに決まってる。というか、母を説得するのがまずムリ。鎖でつないで連れていくか、騙して連れていくしかない。今日のデイトレ……¥5384マイナス] 


 1/22(金)

[今日アパートに住んでいる人に初めて会ってしまった。どうしよう。挨拶されたからつい返しちゃったけど、ちょっと怖い感じの人だ。そもそも、こっちが悪者なんだけど。追い出されたくない。ここにいられなくなったら私、確実に気が狂う。今日のデイトレ……¥1238プラス] 


 久我は画面から離れて、目頭をぎゅっと押さえた。他人の生活を覗き見ているようで、少し気分が悪くなった。「ちょっと出てくる」とだけ言って、店の外に出た。

 表通りの賑やかさに比べると、路地裏は静かだった。この辺りは戸建てや小規模のビルが立ち並んでいる。古い建物と新しい建物とが混在していて、ただ眺めていても飽きないだろうと思う。

 見上げた空には、膨らみかけた月が出ていた。時刻は八時を回ったところだ。チハルはどうしているだろう。ちゃんと約束を守って家に帰っているといいが。

 久我はスマホのメッセージアプリを立ち上げた。が、すぐに思い直した。さっきの日記の中に気になる記述があった。時間が時間だけに、今は優先順位を考えなくちゃいけない。

 アドレス帳を開いて、久我は電話を掛けた。


 ――もしもし。


 七コールほど待って、相手が出た。鹿野だ。よかった、出掛けてなくて。


「京和地所の久我です。夜分に突然申し訳ございません」

 ――いやいや、大丈夫ですよ。

「鹿野様。もしもお時間ございましたら、今から伺ってもよろしいでしょうか」


 遠慮がちに言った。鹿野は一瞬間を置いて、不安げな声を出した。


 ――あの……何かありましたか?

「いえ、クレームとかそういうことではなく……。つかぬことをお伺いしますが、鹿野様のお知り合いの中に、デイトレーディングをされている女性はいらっしゃいますか?」


 また沈黙。考えているというより、訝っているという感じだ。


 ――はあ、いるにはいますが……それが何か?

「鹿野荘に潜んでいた人物の件です。もしかして、鹿野様のお知り合いではないかと思いまして……。ご覧いただきたいものがございますので、これからお時間をいただけると助かります」


 分かりました、と鹿野が了承して会話は終わった。

 これはひとつの推測に過ぎない。Aの日記にあったキーワード。デイトレ、株主優待、アパート。バンビと呼ばれている、金に余裕のある男――そこから鹿野の顔が思い浮かんだ。確定ではないが、Aと鹿野は知り合いの可能性がある。この場にチハルがいても、同じことを言っただろう。

 単なる偶然とは思えなかった。日記の文面からすると、Aは介護疲れによる癒しを鹿野荘に見出しているようだった。それならば、なぜ火をつけたのだろう。Aではなく、他の第三者がつけたのか。それとも、火事は本当に電気配線のいたずらだったのか?

 店に戻ると、島田がまだ日記を見ていた。


「どうだ? 何か気になるところはあった?」


 久我は尋ねた。


「どこが気になる箇所か、俺じゃわからない。ただ、さっきのアドレス帳の内容を見ると、この人は中野近辺の人だな」

「中野?」

「うん」島田はもう一度アドレス帳のファイルを開き、マウスポインタでたどった。「中野保険事務所、中野区役所介護保険分野、社会福祉協議会、地域包括支援センター。公的機関は全部中野だ」


 「なるほどね」と言って、久我は鞄を持った。


「悪い、島田。俺ちょっと行くところあるから」

「了解。請求書メールしとくわ」


 島田はノートパソコンからUSBメモリを外し、久我に投げた。


「ありがとう。じゃ」



 店をあとにした久我は、地下鉄の駅に向かって歩いていた。この時間でも表通りはかなり賑やかで、やっぱりチハルを誘えばよかったと少し後悔もする。途端にあの笑顔が浮かんできて、電話をかけてみた。が、出ない。風呂にでも入っているのかもしれないな、と二度かけて諦めた。

 鹿野荘二階に住んでいた山崎の話によると、Aは三十歳くらいということだった。しかし、介護するような年齢の親がいると考えると、少し若すぎやしないだろうか。

 久我は自分の両親の姿を思い浮かべた。今年、父が六十二、母が六十になるが元気なものだ。久我と同世代の親の年齢といったら、遅くに産んだ子だとしても七十過ぎくらいだと思うが……。

 両親がそのくらいの年齢になったら、やはり介護が必要になるのだろうか。

 十年後か。ちょっと想像がつかない。自分には、果たしてAのように献身的な介護ができるのか、自信もない。

 Aのことを当然のように悪者扱いしていたが、久我の気持ちは揺れていた。日記の内容からすると、本当に普通の、ごく真面目な人物に見える。アパートに潜んでいたのは事実のようだが、とても火をつけるような人物には思えないのだ。

 不法侵入も、盗電も犯罪だ。鹿野荘の二階にいたのは、介護から逃げるためなのか、それとも、別の理由があるのか。火事の原因は一体なんなのか。

 複雑な家庭事情を知ってしまうと目が曇ることがある。この気持ちがそのせいだとしたら、日記を読んだのは失敗だったかもしれない。

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