第22話 ノートパソコンのデータ

 チハルがAに遭遇する、少し前のことだ。

 客先の訪問を終えた久我は、秋葉原の路地裏にある小さな店を訪れた。火事で焼けてしまったAのパソコンを、業者に預けていたのだ。

 業者といっても、相手は大学時代の友人の島田だ。急ぎの仕事だと言うと、ぶつくさ文句を言いながらも引き受けてくれた。いい奴だ。いつ役に立つか分からないから、友達は大事にしなくちゃいけない。

 ういー、と仲間内の挨拶をして、久我は裏口から入った。

 古新聞を跨ぎ、辛うじて見つけた隙間に足を下ろした。ここはいつ来てもごちゃごちゃしている。わずか畳六帖ほどのスペースに、ジャンク品やケーブルがうず高く積み上げられていて足の踏み場もない。

 知り合いに借りたというが、かなり古い店だ。天井の石膏ボードも、使われている木材やパーツも数時代前のもので、いちいち鹿野荘を思い出した。


「どう? データ戻ってきた?」


 久我が尋ねると、パソコンに向かっていた男が、おう、と唸った。不快な音を立てて椅子が回る。

 島田はひげ面の男だった。鼻から下が一面もっさりとしたひげに覆われていて、その中から厚ぼったい唇が覗いている。髪はぼさぼさ。痩せぎすに古臭い銀縁眼鏡をしていて、まるで学生運動の頃の若者みたいだ。ぱっと見久我の友達には見えない。

 彼の家は教師一家で、両親を始め、祖父、姉、従弟の何人かは学校の先生をしていた。父親は昨年小学校の校長を引退し、今は教育委員会にいるそうだ。だが、島田自身は大変自由な男だ。学生時代からひげを生やし、リュックひとつでアメリカを放浪したこともある。「うちの息子が君のようだったらよかったのに」と何度も言われた。実際、久我の下宿先が島田の家に近かったので、息子のように世話になったものだ。


「ああ、戻ったといえば戻った。……と言っても、テキストデータのみだけどな。画像とかそういうものは全部パアだ。あったかどうか知らんが」

「そうか。ありがとうな」


 久我がビールの入ったコンビニの袋を差し出した。島田はサンキュー、と言ってそれを受け取り、久我に一本を渡した。プルタブを開けて、軽く缶を突き合わせた。


「お前がいてよかった。俺はパソコンには詳しくないから」


 ひと口煽って、久我が言う。島田はひげに付いた泡を手の甲で拭った。


「復旧には薬剤もパーツもいるし、詳しくたってそう簡単にはできないさ。しかしお前、これ高くつくぞ。どんだけパーツ交換したと思ってる?」

「金ならちゃんと出すよ。俺はいつだってそうしてきただろう?」

「まあな。仲間内じゃお前くらいだよ金払いのいいのは」


 島田はポケットに手を突っ込んで中古のUSBメモリを取り出した。久我に手渡そうとしたが、彼はそれを拒否した。


「今見せてくれ」


 島田は積み上げられた山の中からノートパソコンを持ってきた。久我にはジャンク品が無造作に重ねられているように見えたが、彼にはどれが生きているのか分かっているらしい。

 電源を入れ、立ち上がるまでのあいだはものすごくやきもきした。平静を装ってはいるが、久我は店に入る前からだいぶ緊張している。一部復旧できた、と聞いた瞬間には、島田に飛びつきたいくらいだったのだ。

 島田はUSBメモリをジャックに差し込んだ。エクスプローラーが立ち上がる。Eドライブをクリックすると、メモ帳がいくつか表示された。


「大変つかぬことをお聞きしますがね。お前のお袋さん、元気だったよな?」


 島田が久我に尋ねる。


「うん。実家でぴんぴんしてるよ。何日か前にも電話で話した」

「そうか。ならいいんだ。じゃ、小説か何か書いてるんだな?」


 いや、と答えると、島田は訝し気な顔をした。


「本当に? ……ていうか、これお前のパソコンのデータだよね?」


 島田の真面目な顔がおかしくて、久我はにやりと笑った。島田は「なんてこった」と額に手を宛て、天を仰いだ。


「お前のじゃないのか。俺は犯罪の片棒を担がされた……!」

「人聞きの悪いことを言うなよ。捨ててあったんだ。廃屋に」

「廃屋だ? 火事で焼けた家から盗んできたんだろう?」

 

 そうじゃないさ、と久我は笑って、これまでの経緯をかいつまんで話した。話しながら、事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだと思った。

 久我の人生は、どちらかというと刺激の少ない、順風満帆すぎるものだった。銀行員の父親を持ち、何不自由なく育った地頭のいいタイプ。剣道は頑張ったが、勉強は打ち込めるものが最後まで見つからなかった。

 食卓に並ぶものが、毎日カルボナーラやグラタンじゃ飽きてしまうだろう。しかし、新卒でこの仕事に就いてからは、三日に一度はカレーやジャンバラ、チリビーンズの辛口料理だ。時には激辛担々麺の日すらある。かと思えば、時折甘いデザートが出てくるのだ。だから仲介屋はやめられない。今は鹿野荘という、一円にもならない塩辛い料理に夢中だ。


「へえ」


 話を全て聞き終わる頃には、島田の重たい目はこれまでに見たことないくらいに大きく開かれていた。


「大学時代のお前はいつだってお堅くて慎重だったのに。不動産屋は人の性格まで変えるんだな」

「俺は未だに慎重だよ。ただ、勢いも大事だってことに気付いただけだ。俺よりずっと若くて、女の子で、思い立ったら即行動! って子もいる」

「へえ。イノシシみたいだな」

「そんなこと言うなよ。かわいいんだ」

「惚れてるのか、珍しいな。気になる相手がいるなら、それこそ勢いを大事にした方がいい。そろそろ親御さんも孫の顔見たいだろうしな」


 島田は下卑た笑顔を見せた。


「それはお互いさまだ。それよりデータを見せてくれ」

「了解。端からいくよ」


 ふたりはパソコンの画面を凝視した。

 メモ帳のタイトルはそれぞれ、『アドレス帳』『記録』『注意事項』『手法/情報』『日記』となっていた。順にざっと目を通していく。

 『アドレス帳』の内容はタイトルそのまま、名前と住所録だった。当たり前だが、特別知った名前はないし、病院や福祉関係の電話番号が多い。他のファイルを見て、必要があればあとで詳しく調べてみたい。

 『記録』は何かの数値のようだ。血圧と、恐らく血液検査の結果。表計算ソフトで一覧にした方が使いやすそうだが、Aはそこまでパソコンに詳しくなかったのだろう。


「血圧高いな。年寄りか?」

「パソコンの持ち主は三十歳くらいという話だ」

「へえ」


 次に、『注意事項』を開いてみたが、さっぱり意味が分からない。

 [倒すとき紐類の巻き込みに注意] 

 [真ん中の赤いポチが光ったらOK] 

 [夜中起きたら水飲ます]

 もともと、メモというものは他人に見せたり説明するためのものじゃない。自分だけが分かればいいように書いてあるのがメモなのだ。他人が見て理解できないのは当たり前だろう。

 しかし、『手法/情報』のファイルを開いた時、久我は、あっ、と声を上げた。


「これ……デイトレだ」

「デイトレ? 株取引の?」

「うん。このパソコン、火事に遭ったアパートから出てきたって言っただろう。そのアパートの大家がデイトレやってるんだ」

「なるほど」


 メモ帳には、恐らくデイトレーディングに用いられる用語や取引の方法、パソコン上の操作、デイトレのコツなどが書かれていた。鹿野との会話で聞いたことがある言葉もある。


「じゃあ、このパソコンは大家さんのものなのか? ヤバくねえ?」

「いや、大家さんのものであるはずがない……と思うけど」


 言っているうちに自信がなくなってきた。鍵は替えられていたし、鹿野自身は部屋の中を確認していないと言っていた。しかし、亡くなった鹿野の父親はどうだろう。空室になったアパートの一室を大家が使うというのはよくある話だ。押し入れかどこかにしまってあって、Aが気付かなかった可能性もある。年寄りでもメモ帳くらいなら使えるだろう。

 気を紛らわせようと、久我はごくごくとビールを煽った。ひと缶空けてしまったが、すぐさま島田が新しいビールを差し出してきた。


「悪いな」

「いいよ」


 ありがたく受け取り、二本目に手を着けた。

 ファイルはまだひとつあった。486Kはメモ帳にしてはかなり膨大な量だ。恐らくこの、『日記』が肝となるに違いない。画面を指差して島田を促した。

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