第21話 遭遇

 レモンのような月が出ていた。

 桜散る頃にしては暖かい夜だ。風は春の匂いを孕んでいたし、足元では気の早い初夏の虫が騒がしく鳴いている。


「絶対に、絶対に、ひとりで先走るなよ。いいね?」


 病院から戻った夕方、久我はチハルの肩を揺さぶって何度も言い聞かせた。彼の目は鋭かった。眼差しが自分の両目を貫通して、頭の後ろから突き出るんじゃないかと思うほどに。

 久我の気持ちはチハルにもよく分かった。だからこそ、声を大にして全力で謝りたい。むろん、心の中で。


 ――ごめんね、久我さん。やっぱり我慢できませんでした……!


 チハルは今、鹿野荘に隣接した駐車場の脇でひっそりと息を潜めている。山崎が搬送された夜、久我に抱きしめられたあのブロック塀の隙間だ。

 後ろめたい気持ちは当然あったが、パンドラは箱を開けたし、浦島太郎は玉手箱を開けた。若くて好奇心いっぱいのチハルに、我慢なんて到底できることじゃなかった。

 チハルはバッグの中からそうっとあんぱんを取り出した。右手にはすでにストローの刺さった牛乳を持っているので、歯でパッケージを破く。定時になると同時に店を飛び出し、コンビニに寄って調達してきた。あとから久我がやってくるかもしれないから、それぞれふたつずつ。

 あんぱんをひと口頬張り、牛乳で一気に流し込んだ。最高だ。こしあんの甘さとイーストの匂いとが、濃厚な脂肪分に包まれて喉をすべり落ちていく。

 続き、ぱくり、ごくり。ぱくり、ごくり。

 次々と咀嚼しながら暗闇を睨み据える。刑事にでもなったような気分だ。


 透かしブロックの穴の向こうでは時折車が出入りしていた。それと、すぐ脇の道路を急ぐ家路に向かう人。誰ひとりとして、ブロック塀と隣地との隙間に挟まれたチハルに気付かない。いや、気付かれたら困る。こんな狭いところに入り込んでいるなんて、明らかに不審人物だ。


「……来ないな」


 チハルは小さくため息を吐いた。

 昨日の朝猫缶を見つけた場所を、青海波の形をした穴からじっと見ているだけの作業。もうかれこれ一時間以上は経つだろうか。あんぱんも牛乳も、ミントタブレットもなくなり、ただ穴から駐車場を覗く仕事が続く。

 ちょっと腰が痛いのは高さが合わないからだ。久我が一緒だったら少しは気が紛れただろうに。

 今日はもう帰ろうか、いや、まだ来たばかりだ――と迷うこと数分が過ぎた。

 所在なく髪の毛の先をいじる。

 唇の荒れを気にする。

 そして、一度スマホのメッセージを確認して顔を上げた時だった。

 駐車場に誰かがやってきた。敷き詰められた砂利をそうっと踏みしめて歩く姿を見て、胸がにわかに高鳴った。

 その人影は、黒のウインドスーツを着ていた。フードをすっぽりと被り、マスクで顔の下半分を覆っている。

 スマホを握りしめたまま、その姿を凝視した。

 ついに、ついにAの姿を捉えた……!

 ここに久我がいたら、感動のあまり固く抱きしめ合ったかもしれない。ひとりでも小躍りしたい気分だが、そうはいかない。ちょっと落ち着かなければ――と深呼吸を繰り返す。

 黒ずくめの人物は、駐車場の入り口近くの隅にしゃがみ込んだ。女にしてはやや背が高い。しかし概ね中肉中背の範囲だ。

 小さなコンビニ袋をかさかさとやって、中から何かを取り出した。缶詰のようだ。が、それが猫缶なのかどうかはここからじゃはっきりしない。

 Aの一挙手一投足を見守っているうちに、いつの間にか猫が近づいてきていた。久我と宝探しをした日に遭った、あのハチワレ頭の猫だ。

 猫はまっすぐにやってきて、Aの膝あたりに身体を擦り付けた。八の字を描くように彼女の周りをうろうろしていたが、やがて待ちきれないといった風に手の匂いを嗅ぎ、すぐ脇に座った。

 猫が缶詰の中身を食べ出す頃には、チハルはもう限界だった。さっさと話し掛けろ、と心の声が命令を繰り返している。

 もしもこの場に久我がいたら? 彼ならなんと言うだろうか。

「ひとまず様子を見るだけにしよう」

「君が行くのは危ないよ」

 ……こんなところか。

 しかし、今日はブレーキ役がいない。ブレーキが壊れていれば、坂を転がる自転車を止めることはできないのだ。

 チハルはバッグをかけ直すと、静かに塀の隙間から出た。あたかも帰宅中の会社員を装い、パンプスの踵をこつこつ鳴らして道路を歩いていく。

 猫が餌を食べる様子を、Aは静かに見守っていた。チハルは歩く。黒のウインドスーツがぐんぐん迫る。どきどきが迫る。いよいよAとの対面だ。最後の数歩はやや静かにいこう。チハルが真後ろに迫っても、Aは振り返らなかった。

 駐車場の入り口にある側溝のふたの上で、チハルはぴたり、と足を止めた。


「わあ、かわいい……!」


 そう言った瞬間、Aの背中がビクッと震えた。それでも驚かせないよう、できるだけ穏やかな口調で言ったつもりだ。

 そのままAが動かないのを見てとると、チハルはそろそろと近づいた。猫は一瞬顔を上げたが、無害な人間だと知るとまた食事に戻った。


「あの、触っても大丈夫ですか?」


 チハルはAに尋ねたが、彼女は俯いたまま返事をしない。聞こえなかったのだろうか。それとも、自分じゃなく猫宛ての質問だと思ったのか。


「おいしそうに食べてる。……いつもここでご飯をあげてるんですか?」


 気を取り直して別の質問をしてみた。首を曲げ、思い切ってフード中を覗き込んでもみるが。

 暗いせいもあって、目深に被ったフードの中はちらとも見えない。質問に頷きもしない。まるでチハルとの間に見えない壁でもあるかのように。

 チハルは僅かに眉根を寄せた。飽くまで無視を続けるつもりか。しかし、こんなことじゃめげないぞ。なにせこっちは、一言も言葉を発しない客にアパートを借りてもらったことがあるんだから。


「この猫ちゃん、白い靴下履いてるみたいでかわいいですね。あとほら、ここにちょびひげがあるのも」


 チハルは自分の鼻の下を指差したが、Aは釣られなかった。人は指を差された場所を無意識に見るものだ。もしかしてこっちに顔を向けるんじゃないかと思ったけれど……甘かったか。

 その後も引かれない程度に質問を繰り返してみたが、相手もなかなか手ごわいようだ。しつこいと思うかどうかは人によって感覚が違う。ちょっとつきまといすぎただろうか? もしもそう思われていたら、Aは今後姿を見せないかもしれない。ならばなおさら、今日の出会いを無駄にしちゃいけない。


「あの」チハルはごくり、と唾を飲み込んだ。「つかぬことを伺いますが、そこのアパートの火事について何か知っていることは――」


 質問が終わらないうちに、Aは立ち上がって速足で歩き始めた。チハルも立ち上がり、急ぎ足でついていく。


「ねえ、待って。五日前の夜、何か物音を聞いたとか、怪しい人影を見たとか、なんでもいいんです。知っていることがあったら教えてほしいの」


 手を伸ばして、すたすたと歩き去るAの袖を掴もうとした。が、すぐに振りほどかれてしまう。歩くスピードは段々と速くなり、今や小走りに近い状態になっていた。

 シャカシャカと音を立てて去っていく後ろ姿を、チハルは必死に追いかけた。夜の下町、住宅街。ヒールがアスファルトを叩く音。息を切らす女ふたりの、忙しない呼吸音。


「ねえ! あなた、鹿野荘の二階にいた人でしょう? お願い、あの火事のせいで燃えてしまったものがたくさんあるの! 建物だけじゃなくて、お金だけじゃなくて、二度と戻らない思い出の品とか、久我さんの頑張りとか、亡くなった大家さんの思いとか……!」


 交差点に差し掛かり、Aは右に折れた。その後ろからチハルが迫る。遅れること

二十メートルほどで角を曲がったが、そこにAの姿はなかった。


「……あれ?」


 チハルは立ち止った。呼吸を整えながら辺りを見まわすが、しんと静まり返っていて動くものはない。確かにここを曲がったはずだ。見通しは悪くないし、周りに車が停まっていたりするわけじゃない。

 獲物を取り逃がしたことに気付いて、チハルは愕然とした。

 せっかくここまで来たのに。Aの姿を捉えたのに……! ああもう、久我さんになんて言えばいいの? 

 ――闇雲に突っ走っちゃいけないよ。

 ――君を危険な目に遭わせたくないんだ。

 ――俺がいてやれなかったために、ごめんね、チハルちゃん。

 久我の声が聞こえるようだ。久我さん、私こそごめんなさい。Aのこと取り逃がしちゃった……!


「……もう! もう、もう!! こらーーーー、どこ行ったのーー!? 出てこーーい!!」


 半べそかいて大声で叫んだ。が、その瞬間、突然腕を引かれ小さな路地に吸い込まれた。後ろ手に引き寄せられ、口をきつく塞がれた。


「静かにしろ。大きな声を出すな」

「う……んむう!?」


 後ろから聞こえたのは明らかに低い男の声だ。そして、シャカシャカした手触りの太い腕。状況からしてさっきまで追いかけっこをしていたAに間違いないだろう。そしてまさかの――。


 ……女じゃないじゃん!!

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