第20話 Aの正体 2
「会ったことがあるんですか?」
「うん。二、三度見掛けた程度だけどね」
「どんな人でしょうか」
久我も椅子の上で身を乗り出す。
「電気もつけないから、変わった人だなあとは思ってたんだけどね。どうもいる日といない日があるみたいだったなあ。一週間ばかしいないと思ったら、ある時ひょこっと帰ってたりして。珍しいよねえ、こんな古くて壊れそうなアパートに女の人がさ」
「えっ」
チハルと久我は同時に声を上げた。
「女の人? 六号室にいたのは女性なんですか?」
チハルは思わず立ち上がってしまった。山崎に掴み掛からんばかりの勢いだ。それには山崎も驚いたらしく、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
「う、うん。一度だけちらっと顔が見えたことがあるんだよ。いつもは黒いジャンパーのフードをすっぽりかぶって、マスクもしてるんだけどさ」
「年齢はどのくらいですか?」
うーん、と山崎は首を捻った。
「まだ若いよ。三十くらいかな」
「じゃあ、いつもフード付きの黒いジャンパーを着ているということですかね?」
「上下ね。黒の上下」
「なるほど……!」
チハルは目も鼻も広げてふんふん、と相槌を打った。その横で、久我は次々と手帳にメモを取っていく。冷静さを装ってはいるが、手は震え文字は激しく踊っていた。
久我もチハルも、Aのことを男だと思っていた。
確かに、二階の住人は物静かな人物だった。占有屋やヤクザだったら複数の人間が出入りするだろうが、恐らくひとりだった。いつからいたのかは分からないが、それだけひっそりと、なんのためにあの古いアパートに潜んでいたのだろうか。
久我は先月の同窓会で会った女性メンバーの顔を思い浮かべてみた。
仕事が生きがいだと言っていた看護師の仁美。ママ友とのランチ会でホテルバイキングに行ったと話していた彩乃。結婚式のドレスが決まらないと悩んでいた亜紀。
彼女たちはアラサーでAとほぼ同年齢だ。しかし、どの女性も小ぎれいで自分を大事にしている。鹿野荘で夜を明かすなんてたった一晩でも無理だろう。むしろ、共用廊下を見ただけでしっぽを巻いて逃げ出すかもしれない。
それだけに、Aが潜伏していた理由が気になった。
水道の栓は閉まったままだった。悪臭も酷かった。ほこりとカビと動物の死臭に満ちていたが、それでもいいと思ったのだ。よほど切羽詰まった理由があったことが窺える。
久我は『Why?』と書いてぐるりと円で囲んだ。
チハルはまだ山崎を質問攻めにしていた。落ち着いていると見られがちなチハルだが、そこはやはり若い女の子だ。自制よりも興味の方が上回ってしまうらしい。
「その人、他に何か特徴はありましたか? 身長はどのくらいだったでしょうか」
「えーっ……そんなの気にしてなかったからなあ。あんまりよく覚えてないんだよ」
「髪型はどうですか? パーマを掛けているとか、いないとか。眼鏡はしてましたか? アクセサリーとか、持ち物とか――」
「チハルちゃん」
久我が横から窘めた。まだICUを出たばかりだというのに、いろいろと尋ねすぎだ。
チハルはハッとして口を押えた。
「申し訳ありません、山崎さん。つい気になっていろいろと尋ねてしまいました」
「いや、いいんだよ。明日になったらまた何か思い出してるかもしれないし」
ざらついた声を上げて山崎は笑った。またお話を聞きにくるかもしれません、と言ってふたりは病室をあとにした。
*
「てっきりホームレスか何かかと思ってました」
帰りの車で、運転する久我にチハルは言った。
「そうだな。確かに女性ってのは意外だった。でもまあ、若い女のホームレスもいるからね。分からないよ」
「えっ。いるんですか? 私見たことないです」
「最近じゃ結構多いらしいよ。夜は危ないから、ネットカフェやファーストフード店で明かすらしい」
チハルはえー、と静かに眉を顰めた。
「女の人でホームレスって大変そう」
生理はあるし、襲われる可能性もあるし、と考える。
「山崎さんの話によると身なりは悪くなかったってことでしたよね?」
「うん。着ているものは清潔だったらしいね。俺も何かで読んだ話だけど、女性のホームレスはそうと見分けがつきにくいんだって。例えば男に声を掛けられて、ホテルでシャワーを浴びることもできるだろう?」
「う、うん――」
と言って、チハルは少しだけ頬を赤らめた。
女というものは、その点では男よりも生きやすいものだ。見知らぬ男と行きずりの関係を持って、ラブホテルで温かい湯に浸かり、きちんと髪を整える。それで多少の小遣いでも手に入れば、ネットカフェにも泊まれるだろう。着替えだってもうワンセット持っていれば、コインランドリーで洗うこともできる。
しかし、Aに当てはめてみればどうだろうか。
しみだらけの天井に、ふかふかに腐った畳。うず高く積もったほこりに、カビ臭と動物の死臭が染みついている。正直言って、鹿野荘の環境はこれ以上ないというほど劣悪だった。そこに、三十歳くらいのどこにでもいる普通の女暮らすなんて……。
あり得ない。危険を冒してでも野宿した方がましだ。
「やっぱり、無理だと思います!」
チハルが突如大声を上げたので、久我はビクッと肩を震わせた。
「ど、どうしたの? いきなり」
「だって、女の人ってそこまで自分を落とすことなんて、なかなかできないですよ? 鹿野荘に寝泊まりするなんて無理! 絶対無理! ハウスクリーニングを入れたばかりならともかく、前の人が出ていってから何年も経ってて、久我さんがいた部屋だって相当ほこりだらけだったじゃないですかー!」
まくし立てているあいだ、久我はチハルの顔をちらちらと見ていた。一体何が彼女の怒りに触れたのだろう。強気なのは今に始まったことじゃないが――歳の割に落ち着いた印象のチハルが時々こうなるのは面白く、刺激的だ。
「……はっ!」
前を向いたままチハルが声を上げたので、久我はまた何を言いだすのかとハラハラした。
「すみません。久我さんが身を粉にして滞在した部屋をけなしちゃって」
「別にいいよ。実際には俺の部屋じゃないし」
はあ、とため息を吐いてチハルはシートに背中を預けた。
「久我さんには本当に感謝してるんですよ。私、ありがとうの気持ちを伝えるのが下手で。……ごめんなさい」
「じゅうぶん伝わってるよ」
久我は手を伸ばしてチハルの頭を撫でた。つるつるだ。……すごくいい。
チハルは急に静かになった。頭を久我の近くにもたせかけたままで。
「どうした? 疲れてるな」
「う……ん、疲れてるっていうか……最近ちょっとストレスが溜まってるんです。おばあちゃんの認知症は酷いし、お母さんは更年期でイライラしてるし」
「で、こんな事件にまで巻き込まれているのか。通常の業務に加えて、ちょっと荷が重すぎるよな。俺でよければいつでも力になるよ」
ちょうど信号が赤になり、チハルが久我の方を見上げた。
「……ありがとうございます。久我さんがいてくれてよかった」
「そういうこと言うの、まだ早くない?」
「そうかな。本心からそう言ってるんですよ」
チハルの声は鼻にかかっていて、甘えた感じに聞こえた。しかも、頭を撫でる久我の手にすっかり身を委ねている。……これはきっとチャンスだ。今夜ならイケそうな気がする。
久我は背筋を伸ばして息を吸い込んだ。
良かったら今夜飲みに行かない? ――そう言おうとして、はた、と思い出した。今夜は先月新築物件を引き渡した客に、アフターフォローの名目で訪問する予定がある。
「くそっ」
本当に小さな声で言ったのに、チハルの身体がピクリと揺れた。そのまま抱き寄せてしまいたかったが、あいにく昼間だ。会社のロゴが入った車じゃ何もできやしない。
「……ごめん」
「ううん」
久我はチハルの頭をぐりぐりと撫で、今度は聞こえないよう、そっとため息を吐いた。
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