第19話 Aの正体 1

「……というわけで、鹿野荘は全焼してしまいました。このたびはまことに申し訳ございません」


 久我が言って、チハルも一緒に深々と頭を下げた。


 これで何度目になるだろう――。


 鹿野と、鹿野荘のお隣二軒とそのまた隣と、真裏のお宅三軒と。それから、被害が及んでいなくても騒ぎになったことは確かなので、近隣の住宅にはひと通り謝罪した。頭を下げた相手は軽く十件を超える。これで死傷者が出ていたら一体どうなっていたのかと思う。

 社長の黒磯が「山崎さんのところに一緒に行くよ」と言ってくれた時は正直嬉しかった。謝罪する人物の地位が高ければ高いほど、それを受け入れる側の納得度が高いと何かの本にも書いてあったからだ。しかし、今日は謝罪の他に目的がもうひとつある。そのためには黒磯じゃだめなのだ。彼に聞かれたら困る。

 チハルは頭を下げたまま、怒鳴りつけられるのを待っていた。

 山崎は初めに挨拶をした時からずっとにこにこしていたが、さすがに火事のことを聞いたら驚くはずだ。予想外の事が起こると大抵の人間はうろたえる。その後、泣きだす人、怒りだす人、黙る人。いろいろなタイプがいるが、何しろ初対面なのでどんな反応をするか分からない。

 ところが。


「そうか、燃えちゃったかー」


 山崎の声に、チハルと久我はハッと顔を上げた。

 ベッドの上。足元にぐちゃぐちゃに溜まっている白い掛布団。数本の点滴に繋がれた山崎はにたにたと笑っている。


「ま、生きてりゃいろんなことがあるさあ」


 破顔した口元は歯がほとんどなかった。でっぷりした布袋腹に、丸い肩。生活習慣が悪いのか、顔色は土気色だ。しかしその表情には嫌味がない。子供みたいに素直で、嘘がつけない顔といった感じだ。


「できるだけお力になれるよう努力いたします。山崎様のお部屋にあったと思われるものはこちらで保管しておりますが、いかんせん燃え方が激しかったので……あまりご期待には添えないかもしれません。本当に申し訳ございませんでした」


 久我の声はとても静かで落ち着いていた。心の底から山崎のことを気遣っているのが滲み出ている。

 山崎はへっへっ、と笑った。


「どうせ大したものはないんだよ。俺の宝といえば別れた女房と娘の写真くらいでさあ」

「そんなに大切なものを……! 本当にこのたびは――」


 チハルがまた頭を下げようとしたところを山崎が制した。


「いやいや、もういいから。あんたらが火をつけたわけじゃないんだろう?」

「はい、それだけはないと誓って言えます」

「じゃあもういいんじゃない? 俺もしばらく退院できないし、こんな身体だから全部任せるしかないし」


 と山崎は、ぜいぜいと音をさせて腹を揺すった。

 正直言って、山崎の見た目はホームレスに近かった。まだ六十歳くらいのはずだが、無精ひげの生えた口元はほとんどの歯が抜けていたし、爪は黒く垢じみている。伸び放題の髪は鳥の巣のようにもつれていた。おまけにちょっと匂う……気がする。

 久我とチハルは少しだけ肩の力を抜いた。山崎は見た目こそアレだが、いい人そうではある。


「ところで、山崎様ご自身も大変でしたね。実は私たち、あの晩アパートの近くにいたんです」


 と久我が言う。


「あの晩っていうと、俺が救急車を呼んだ日?」

「はい。びっくりしました。あの日家主さんから預かったアパートを見に行こう、って近くまで来たんです。そうしたら間もなく救急車がやってきまして」


 実際の流れからするとだいぶ端折ってはいるが、チハルは同調して頷いた。

 救急車がやってきたタイミングからして、チハルと久我が鹿野荘の二階に上がった時、すでに山崎は一一九番をしていたはずだ。助けを求めてくれれば力になれた。チハルがあの場にいて役立ったことといえば、すぐに便利屋を呼んで、救急隊が壊したドアに応急処置を施したくらいだ。


「失礼ですが、山崎さんはどうされたんですか?」


 チハルが尋ねた。


「それがさ」と彼は口を尖らせて俄かに興奮し始めた。「前の晩からなんかおかしいと思ってたんだよね。左足が怠いし、なんか目が見えにくいし。そしたらさ、脳梗塞だって。まったくいやんなっちゃうよ」

「そうですか……。おひとりですから大変ですよね」

「まあね。ほら、左手もこんなだよ。上がんないの。足もまともに動かないから、どっちにしても俺は二階から引っ越しするようだったかもな」


 げらげらと山崎が笑う。ちょうど流れが引っ越しの話になったので、これ幸い、とチハルは意気込んだ。


「山崎さん。それで、お引っ越し先の話なんですが」チハルはクリアファイルの中から図面を取り出した。「もしも山崎さんさえよろしければ、こちらのアパートにお引っ越しいただけないかと大家さんが提案されています」


 目の前の可動式テーブルに図面を広げた。

 それを山崎がじっと見る。見ただけでは分からないだろうと思うので、部屋の広さや物件概要についてひととおり説明した。すなわち、バストイレ別、エアコン付、給湯設備、南向きであること、等々。一階二階とひと部屋ずつ空きがあるが、今後手足が不自由になることを考えると一階がいいだろう。

 山崎はうーん、と唸りながら苦笑いを浮かべた。


「確かにいい部屋だけどさ。でも、高いんだろう? 俺には払えないよ」

「鹿野様は、前と同じ共益費込みで三万でどうかと仰っています」

「ええっ」山崎の目がまん丸になった。「いいの? 敷金とか礼金とかは?」

「それもいただかないそうです。今回の火事でご迷惑をおかけしたのでそのまま住んでくだされば、と仰っています」


 ふぁあ、と山崎はおかしな声を上げた。ありがとう、ありがとう、と被害者なのに感謝している。それはそうだ。こんな好条件のアパート、今どき家賃三万でなんて借りられない。


「なんだか悪いなあ。人が死んだ部屋でもそんなに安くないよ」

「焼けてしまった冷蔵庫とテレビも新しいのを買ってくださるそうです」


 チハルが言うと、彼はますます手放しで喜んだ。ここは鹿野に礼を言わなければならない。

 時間がある時にでも目を通してください、と契約書の雛形を渡した。それから、消防署から預かったり災状況表を渡して、今後の手続きについて説明した。

 これで今日の用件は終わりのはずだった。しかし、チハルと久我は帰ろうとはしない。山崎にはまだ聞きたいことがあるのだ。むしろメインの目的はそっちである。

 久我はチハルと目を合わせて、ひとつ咳払いをした。


「あの……つかぬことをお伺いしますが、最近山崎様の他に二階に誰かが住んでいたということはありませんか?」


 山崎はしばらくのあいだ口を開けて考えていた。が、ああ、と大きな声を上げた。


「六号室でしょ? 猫と一緒に住んでる」


 チハルは息を吸い込んで久我と顔を見合わせた。

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